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2012年4月16日 (月)

読物 『金と香辛料』

 イタリアの実業家は学校教育において語学学習の基本コースもとれる。これが後になって遠隔の市場に行ったとき、時間節約につながるわけだ。フィレンツェの若者たちが学校で何とか古代ローマのウェルギリウス、セネカあるいはボエティウスといった文人のものをかじって読むとき、そこにはおそらく大まかながらも一つの人文主義[ユマニスム]の発揚がある。リューベックの若きハンザ商人たちがイタリア語やフラーンデレン語の手ほどきを受けるとき、その意図が実践的なものであることはもっとはっきりしている。また、スィ(si)の言語〔つまりイタリア語〕を使う若きイタリア人が、ブリュッヘの波止場、ロンドンの税関あるいはシャンパーニュの大市でいかなる通訳にも従属しないで済むほど十分にオイル語[ラング・ドック]〔ロワール川以北のフランスで話されていた方言の総称〕――オック語の方は明らかにもっととりつきやすいと思われていた――を学ぶのも、同じ実践的意図からである〔イタリア語の「スィ」同様、「オイル」、「オック」も「はい」という意味である。〕
P.87

 いたるところで故国との隔たりが集団の組織化を産む。フィレンツェの同職組合、カリマーラはシャンパーニュの大市開催諸都市ならびにピーサに領事[コンシュル]を派遣する。ロンドンやブリュッヘのようにドイツ・ハンザに下命していない都市において、ハンザ都市はやはり共同の防衛・代表機関をもっている。アントヴェルペンにはイングランドの「マーチャント・アドヴェンチャーラズ」〔冒険商人〕が、一三〇五年以降正式に任命された保護者をおいている。その肩書は時代によって監督官、守備隊長、あるいは領事というふうに変わるが、一貫した役務は、ブラバント公により認められた特権を各人が正当に享受するよう監視することである。同じマーチャント・アドヴェンチャーラズは、半世紀ほど後、ブリュッヘに「ガヴァナー」〔総督〕をもっている。その任務は低地諸邦全体において、イングランド「同郷団」とみなされ始めているものを代表することであった。

P.135

 実業とはすべて冒険であり、冒険とは神の摂理であることは人のよく知るところであった。あるいはそれは同じことを古典ラテン語で表現すれば、運命の女神[フォルトゥーナ]のなせるわざでもある。言葉の曖昧さはまさに態度の曖昧さを反映するものである。
 宗教には料金表がついている。いまや算術的な信心の時代である。巡礼や十字軍の形をとった誓願は貧者への施しに減刑される。また祈りの繰り返しとひきかえに贖宥[しょくゆう]が追加される。あるいはロザリオの祈りの間じゅう一五〇回アヴェー・マリーアが唱えられ、死者のために一ヶ月間「三〇日間慰霊ミサ[ル・トゥランタン]」が毎日続けられたりする。聖母マリーアの「七つの喜び」や「七つの苦しみ」についても言うまでも亡かろう。人はこれらについてとくと考えるために、注意深く数え上げるのである。遺言のなかで、救済の費用が数値化されているとしても、何ら驚くにあたらない所以である。
 これは安心に対する欲求のまったく単純な表現にほかならず、カネもうけ主義的な精神からの、そして他方、血による奉仕を税金で代用する精神と同種の精神からの、恐るべき所産である。安心にはいくらかかるのか、そして自分の書揺するカネでどれだけの安心が得られるのかを人は知ろうと欲する。永遠の救済には支払いが必要だ。そこで遺言の数学はリスク分散による保健の精神を登場させる。それはあたかも、生まれつつある資本主義が促す事業分散のごとくである。あの世に関してさえ、人は一つのことに全財産をまるごと賭けることはしないのである。

P.512

 王朝への忠誠などどうでもよかった。パリ人は、平和を保証してくれそうだったら、ランカスター家とでもうまく折り合いをつけてしまう。一四二五年頃、ベドフォード公の英領フランスの統治体制が安定化するように思われたとき、アルジャントゥイユ港とヌイイ港〔ともにセーヌ河港〕で同時に人々の安心感がよみがえる。そして商品たちは、パリ北郊のサン=ドゥニ平野で六月に開催されるランディの大市に再び足を運ぶようになる。イングランド人の支配する体制かもしれないが、しかし平和のうちにある。
 イングランドの体制でよいのか? それほど確かなものであろうか? ジャンヌ・ダルクが首都の商業界にあれほど悪く見られたとしても、それはかの女が占領軍をフランスの外に「追い出す」ことを口にしたからではない。それはかの女が、平和の到来を信じはじめていた一地域を再び戦争状態に引き戻したからなのである。イングランドによる平和であろうが、イングランド=ブルゴーニュ聯合による平和であろうがかまわない。とにかくそれは平和であった。一四一九年、市門経由の商品搬入に対する税金、つまりは陸路の商業に課される税金の一徴収請負人が、その請負契約で欠損を出したことを明らかにする。実際の徴収額が契約額を下回ったというわけである。これは要するに商人がパリにはもはや寄りつかなかったことを物語っている。そして今度は一四二四年、ルーアン、ディエップ、カーン、ベルネー、サン=カンタンの商人たちが戻って来るのがみとめられる。一四一八年以来中断されていたランディの大市は一四二六年に復活する。徴税請負人の入札額は再びつり上がる。人々の心はたしかにシャルル七世の側になかったかもしれないが、繁栄復活を夢見るのは何らばかげたことではなかったのである。

P.528

 とってつけたような不可思議、猥雑な暗示、たわいもない話のもったいぶった羅列。このようなものが、十五世紀末に武勲詩とアーサー王物語の叙事詩風かつ宮廷風の感興が息切れしてしまった状況を示す、安物の文学である。かつてクレティアン・ドゥ=トゥロワ〔十二世紀の中世騎士道物語作家〕によってまったく新鮮なままに演出された理想が苦心して活かされているこれらの小説は、当時一つの流行を経験する。大量普及の新たな可能性がこれに拍車をかける。一四八〇年代から、パリの初期の頃の出版物として毎年世に出ていたのは、実際この種の文学なのである。
 というのも、印刷者にも生活がかかっており、書籍商の日々の糧を後々、保証してくれるのは、ガスパラン・ドゥ=ベルガムの『ラテン文学』やサルスヒウス〔古代ローマのカエサルの時代の歴史家、政治家〕の作品ではなく、ベッサリオン〔十五世紀のビザンティウムの町〕でもないのである。再興しつつある人文主義が、分離活字の発明のなかに、あらゆる文献研究ならびに言語・思想のあらゆる再発見に道を開くことになる文学作品の加筆訂正のためのはかり知れない能力アップを見ている間、よき市民――弁護士と商人――の教養に対する渇望は、その同じ発明に、何よりも大量部数かつ安価での印刷能力を見る。キケロ―や『フランス大年代記』〔十五世紀に書かれたフランスの正史〕のわきに、いまや印刷業者は次々に作品を刊行する。例えば支払いをしないで「べー」をする(ぽかんと口を開ける)債務者の滑稽さが特に大衆にうける『笑劇パトゥラン先生』。国王巡邏隊隊長にいかがわしい居酒屋を遺贈し、両替橋の最も裕福な金銀細工師の一人に自分の所有してもいないダイヤモンド一個を遺贈する、「冗談丸出しの男」の常套のうけ筋が見えるヴィヨンの『遺言詩集』。それに木骨軸組の家屋の威厳のある上階を夢想させる『フィエラブラ』〔「空いばり」を意味するサラセンの巨人が出てくる十二世紀の武勲詩〕、『魔術師メルラン』〔ブルターニュのアーサー王物語の一つ〕および前述の『アマディ・デ=ゴール』の一セットなどもそうである。

P.546

 本書は、ルネッサンスの黎明期のヨーロッパ経済に焦点を据えて、金と香辛料という当時の最も迅速かつ有利な致冨手段を提供した世界的商品を軸に、これを扱った一部大商人層の「実業家」への転成、その商業・経営技術の近代的転化・発展の過程、さらにはこの新社会層に固有の意識や態度のありようを明らかにしようとしたものである。

P.562 訳者あとがき

『狼と香辛料』のタイトルの元ネタ、らしい。書評かなにかで内容について知り、これは手におえんと感じたことを忘れて着手してしまった。迂闊。

書き手がターゲットとした読者層から明らかに外れている我が身には、とても、とても読みにくい本だった。ど素人にもわかりやすく俯瞰を許してくれた『銃・病原菌・鉄』のような内容を期待していたのだが、14~16世紀頃のヨーロッパにある程度精通していることが前提であるらしく、多くの名詞を記号として読み飛ばさざるを得ないようなありさまであった。

さておき、歴史や風物、当世的世情を垣間見るに、どうも他の時代のこととは思えない。
後世にブンガクと呼ばれるようになった当時のラノベも、さぞやたくさんあったことであろう。

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