« 2012年3月 | トップページ | 2012年5月 »

2012年4月

2012年4月30日 (月)

読物 『男の子を伸ばす母親は、ここが違う!』

数人の子どもたちと接する事情があり、接し方には常に注意を払っている。
武術を学ぶ場でもあり、集団行動を基とすると、どうにも全員に対して同等にということが難しい。悪目立ちする子はいるもので、注意する場面で特定の少数に集中しがちとなってしまう。

そんなことが念頭にあり続けるなか、ネットを徘徊していたときにふと目に止まった。
母親じゃないが、一期一会、図書館に蔵書があるとわかったので読んでみることにする。

子どもたちを見ていると、家庭環境がすべてのベースになっていることを痛感させられる。
週二回、二時間程度で強い影響力を発揮することは難しい。その他の時間に身に触れたものの方が圧倒的に影響力がある。家族そろって道場に来ていたご家庭もあったが、父親が斜にかまえた態度を崩さずにいたためか、当初はまっすぐだった子どもの方もいつしか斜にかまえるようになってしまった実例を経験してもいる。

この春も、それがほんとうの動機かどうかわからないが学力低下を理由に道場を去った小学生がいる。塾に通わせるためにやめるのだという。道場も然り、塾も然り、お金で解決しようとしているうちは、ほんとうに大切なことと向き合っていないんじゃないだろうかと思う。

この本は、そんなことを謳っている。本のタイトルから自明だが、対集団向けではなく、対個人向けだ。前述のような個人的問題の参考資料にはなりえなかった。
概ね実感と一致する内容だが、「女の子はしっかりしている」ことをやたらと強調するところは全面的には賛同しかねる。たしかに「しっかりしてる」が、昨今、女性は基本的にパパを求める性なんだなあと思わされることしきりなのである。母親向けの本だからだろうか。著作に『女の子を伸ばす母親は、ここが違う!』『男の子を伸ばす父親は、ここが違う!』のバリエーションがあるようなので、きっとそうなのだろう。

読物 『灼眼のシャナ』

望んでそうなったわけではないが、どうも世間と好みがズレる。世間の評価を信じては裏切られ、たまには歩み寄ろうとしてやっぱ無理、ということを繰り返している間にそうなったようだ。
それでも懲りずに、いろいろと試す。本作品もそんな試行の中に出会ったものの一つだ。

『灼眼のシャナ』は、アニメから入った。
話の内容はよく知らず、絵も好みではないのに、一期シリーズは楽しんで観たように思う。
その原因は明らかで、異能の王を感嘆せしめた一介の主婦・坂井千草の存在に依るところが大きい。というか、それしかないかもしれない。
二期はヘカテーたんとやらががスク水で登場したあたりで見る気がなくなった。
三期が始まって二期から見ようかなと考えた矢先、アニメと小説では展開が異なるらしいことを知った。小説版が完結しているらしいことも。

じゃあ、小説でいいか。
そんなカンジで原作小説を読むことにした。
釘宮ボイスの脳内再生余裕。特にファンというわけではないが、あの声は脳に突き刺さってなかなか抜けない。
架空の組織「仮装舞踏会(バル・マスケ)」を「バルマス家」と聞いていたことに気付かされる。

厨二設定は嫌いではない。嫌いだったらTRPGでマスターなどできない。
俺TUEEEEもけっこう。シラけるまでは楽しめる。
我が身が嫌うのは、物語世界の破綻である。それは厨二設定や俺TUEEEE、著者によるキャラへの偏愛、物語世界を拡張しようとしたときなど、様々な要因で発生する。破綻を無視できるほどに物語に耽溺できていれば幸い、そうでない場合は、つきあいきれなくなる。

この物語は、サイドストーリーをうまく使うことによって物語世界の拡張に成功していると思う。1~9巻、0巻、10~22巻の順に読んで唐突感に襲われたのは、逃がし屋三人組と第三の神、実はもっていた法具、だけだった。
戦記、戦術、戦略を語るフィクションは、著者の知能を勝者に当て、敗者はひたすら愚鈍に描写されることが多い。この物語では、我が身の嫌うこの傾向はなかった。キャラクターの強さがイマイチよくわからないために、都合よくふりまわされている感は否めなかったが、受けいれた厨二設定の上でならばよしとできる。

著者の教師に対する主観が鼻につく序盤から、著者のもつ現実世界への認識の境界を知らしめる中盤から終盤、()つきの文章が多いことから感じられてしまう推敲の甘さというものもあるにはある。著者自ら「痛快娯楽アクション小説」と称しているが、アクション描写が俺過ぎてわかりにくい。何度も読み返さないとどうなっているかわからないアクションシーンというのも困ったもので、一読してわからんものは、なんかわからんけどスゲーんだろうなー的にスルーしてしまうようになった。
また、世には確かに、芝村裕利文体に影響された作品群が存在するという確かな証拠の一つでもある。他者が模倣して小気味よいものではない。
とはいえ、総じて大いに楽しませてもらったといえよう。

2012年4月24日 (火)

読物 『虐殺器官』

知っていること、知らないことが物語の楽しみを左右する場合がある。
知っていると感じるが故に高みから見下ろしてしまったり、知らないが故に嫌ってみたり。
修業が足りない。

この物語を読んでいる間にも、前者の心情が幾度も我が身に訪れた。作品の中に、かつてこの身に痛撃を受けた諸作品の影響を感じたりしたときのことだ。それは別にどうというものではないのだが、いつの間にか身に染みてしまった展開の先読み癖とともに働きだして、物語を純粋に楽しむことを阻害する場合がある。
この働きを鈍らせるのは物語の持つ力しかない。高みに登ったつもりになったときに、打ちのめされるしかない。

思うところは多々あれど、言葉に顕すことになんら意味をもたないと思うことがある。どうでもよいところを一つ選ぶならば、『パイナップル・アーミー』で最も印象深い登場人物だった「冷笑を浮かべた東洋人」と、久々に再会した気分である。
これはそんな作品であり、現時点で本年度に読んだなかで最高の物語だということだけ覚書するにとどめる。

蛇足。
あとがきによれば何人もの作家が本作品の影響を受けているという。昨今読んだ中で面白かった『マージナル・オペレーション』も、間違いなく本作品の影響下にある。

2012年4月23日 (月)

読物 『風よ。龍に届いているか』

考えてみれば幼少の頃から今でいう「スピンアウト作品」に触れてきた。それらを楽しんでいた記憶は確かにあるのだが、いつからだろう、ネガティブな印象をまず抱くようになってしまったのは。『ウィザードリィ』がその題材となるとこれは顕著となる。
テレビマガジンやテレビくんに掲載されていたヒーローもの、小学X年生やコロコロコミックに掲載されていたウルトラマン、コミックボンボンに掲載されていたサンライズもの、それらのコミカライズにも感じなかったわけではないコレジャナイ感が半端ないためであろう。

ゲームからのノベライズ、特にRPGからのそれとなると、ゲームのシステマティックな面の描写が一つの大きな枷となるように思われる。描写せねば「それ」ではなくなるし、描写すればいかにもゲームのようになってしまう。かつて大いに楽しんだ石垣環版『ウィザードリィ』も、楽しむためにはシステマティックな描写についてはスル―せざるを得ない部分があった。
それから数年で、どちらかというと毛嫌いするようになってしまったのはたぶん、ドラゴンマガジンやLOGOUTなどが影響しているのではないかと思われる。

というわけで、ベニー松山という、いつの間にかその筋では第一人者と目されるようになっていた、いささか謎な経歴をもつ人物の小説は、『ウィザードリィ』のスピンアウトという理由だけでずっと忌避してきた。
本作品について、「ファンタジー世界を舞台にした小説」として読むならば、わりと好きな部類に入れられる。白兵戦闘がアニメチックでありすぎるきらいがあり(^_^;な一方で、魔術行使の描写は一部好みに近い。
それでもやっぱり「善悪の戒律」だとか「階梯」だとか「転職」だとかいうシステマティックな描写や、個人的『ウィザードリィ』観点からすると嘔吐しそうな「エターナルチャンピオンとガイア理論を混ぜたような大仕掛け」は、#1~#3などシリーズをまたぐ際のシステムを大真面目に解釈するとこうなるのかもしれないが、どうにもアレだ。
読後、ウィザードリィ#1~#3を遊びたくなったことからすると、総じて可、となろうか。

2012年4月21日 (土)

読物 『総理執務室の空耳』

 置賜(おきたま)連絡協議会は米沢、南陽、長井、川西、高畠、飯豊、白鷹、の支部で構成され、加入者は約一三〇〇人。集まってきたのは各支部の幹部クラスである。 「ちょっと前までは、政府は減反、減反の大合唱だったべ。そんなときは減反しねえどまるで非国民みてぇな空気だったべ。俺だちは備蓄というごとを考えるべきだど主張してきたけんど、農水省も農協も聞ぐ耳持だねがった。これは天災というよりか人災だべ。国の政策の間違えだっぺ」
P.151
宮澤内閣が倒れ細川内閣が誕生し、ウルグアイ・ラウンドと絡んで米の輸入自由化が政治的なカードを超える問題となった頃、政治の行く末を予見するようなかたちで、この小説は世にあらわれた。 黒河小太郎の名で中央公論に掲載されたこの小説はその筋を騒がし、犯人捜しがわりと熱心に為されたそうである。

当時は今よりも政治には興味がなく、印象にある記憶といえば、友人とツーリングに出かけた先でキャンプし、入手したタイ米で炊飯をしたのだが、日本米と同じ感覚で調理したためちょっとこれはナンだったというものくらいで、当然この小説の存在も知らなかった。
原発も国策、米の云々も国策。なにがどう国の舵取りをしているのか、わかるような、わからないような。

読むに至った経緯は『金融腐蝕列島』で引用されていたことによるが、『金融腐蝕列島』を読んでから随分と間が空いてしまったため、どのように引用されていたかはもう覚えていない。


2012年4月20日 (金)

映画 『インタビュー・ウィズ・バンパイア』

Skyrimには、Dragonbornが到来した時点で「闇の一党」という組織が残存し、暗殺を生業としている。その成立や劇中の顛末はさておき、組織のメンバーに子供といっていい年齢の女性が存在する。一党の拠点に入り込むことができたとき、メンバーと会話するチャンスが訪れる。その子供が自ら語るところに依れば彼女はバンパイアであり、200年くらい生きているらしい。
Nirnにおけるバンパイアは「サングイネア吸血症」の疾病患者である。治癒せずに最終段階に到達すると吸血鬼となる。プレイヤーキャラクターも罹患するため、バンパイアプレイなる縛りも可能であることはさておき。
彼女が他に寄る辺なき身の上であろうことは察しがつき、その身が同じはみだしものたちの集団に落ち着いていることにはなんというか安堵すら覚える。
しかし、その性は。かのバンパイアは同組織のメンバーと楽しげに語る。いかにして外見的特性を利用して任務を達成したかを。犠牲者の哀れな姿を無邪気に笑う。
なお、「闇の一党」殲滅を選択したときに彼女は一党根拠地に不在となり、Skyrimの法則か、あるいは200年を生き抜いた老練な知恵を見ることになる。

子供のバンパイアというと、『ポーの一族』が印象に深い。『ポーの一族』を読む前だったら、神の手になる『バンパイア』あるいは『ドン・ドラキュラ』を思い出したかもしれないが、吸血鬼に求められる様式美というものがあるとして、それを満たすものは前者であろうと感じられる。

そしてまた、クラウディアが思い出される。『インタビュー・ウィズ・バンパイア』に登場する、童女のバンパイアである。
BDドライブの不調から発して映画に思いが及び、かような経緯と相まって、映画の再視聴に至った。トム・クルーズ扮するレスタトは他に類を見ないバンパイアであったなあと再認識しつつ、残念な結末を迎えたバンパイアクロニクルを再読しようか、つまりは完読していないシリーズ読破を試みようか、悩む。

駄文 『もっと知りたい武術の極意』

 現代でも、自身が武道家、武術家であるとアピールしたがる人は少なくありません。
 中には、わざわざ和服を着て真剣を持ち歩いたりしてまでアピールする人もいます。本人は時代に迎合しない反骨精神をアピールしているつもりなのかもしれませんが、ちょっとナルチシズムが匂って恥ずかしいかもしれませんね。
P.203

 でも、日本に生まれたんだったら、日本の文化や伝統のルーツを大切にする心だけは失っちゃいけないと思うし、それはどこの国の人だって同じだと思いますよ。
 自分を大切に思うように、人も尊重する。それが大和心ってものだし、日本の武術が「無敵の境地は我も敵もないというすべてが和する境地」だという認識に到達したのは、技術としての「武医同術」や「活殺自在」「殺人刀と活人剣」「相ヌケ」といった、「敵対する者の暴力を起こす心を打ち折って和合すべし」という武術が目指すべき究極の境地を示したところに価値があるんですね。

P.217

人生を四十年もやっていればある程度文章に好みも生まれるもので、好みからその美醜も判断するようになる。
個人的に好みと感じる文章は、文章の情報密度がやや過多でありながら、それが著者独自の陶酔に依りすぎず構成されており、容易に読解可能であるというものである。また、主張に齟齬がないことである。(「一日に30時間という矛盾!」を楽しめないわけではない)

くどくどと長ったらしいくせに情報がない(かめろんかめろんああかめろん)文章は受けつけない。俺はいいけどお前はダメという主張も受け付けない。

五年くらい前に出会っていれば、あるいはこのシリーズになにかを見いだせたかもしれない。文章中にたまにあらわれる脱線オタク話を楽しんだかもしれない。なにかとツキがない人生だが、目に見えないところで微弱にツキが働いているようだと、こんなときに感じられる。
そう、オタク。著者はオタクである。知識は豊富だ。それを上手に活かして、ない内容を、あるように見せかけている。この本が実現可能とうたう技術は「縮地法」とやらに依存しているが、それは一度たりとて説明されたことはない。これは著者が声高に幾度も主張する「極意を隠す武術家」の姿勢を自らに許していることになる。根幹の主張・技術について信頼性が確立されていないのに、以後の主張・技術について云々できるはずもない。

先輩が借してくれるというので断り切れず読むことになってしまったが、ここは因果を断ち切る必要がある。
四冊もつきあったのだから、もういいだろう。

2012年4月19日 (木)

ソフトヨガ体験

内容としてはボディバランスの矯正・維持・強化ということで、筋肉的には下半身が辛い。疲労による脱力も狙っているのだろう。膝を腕で抱えた状態で肩の力を抜くというのは、慣れないとなかなか難しい。太股のにくと腹のにくが鬩ぎあうような場合は特に。どうにもアイソメトリック気味になってしまう。

これは身体のゆがみか原因か、それとも自分で思うほどに身体ができていないということなのか、ともかくも新たな発見がいくつもあり、これこそ望んでいたものであると感じられる内容であった。伊藤式の基本三要、丸める・反る 、伸ばす・縮める、捻るが随所に感じられるが実現には至らない。

学ぶに値するものと見定め、しばらく通ってみることにした。

2012年4月17日 (火)

アニメ 『ストレンヂア 無皇刃譚』

絵はきれい、動きもいい。だがアクションがイマドキすぎて見るのが辛い。
志を感じるが、ハナシはアレだ。実写映画だったら唾棄するレベル。アニメだから鑑賞に堪える。

なんとも惜しい一作である。
長瀬智也の声はよかった。

2012年4月16日 (月)

読物 『金と香辛料』

 イタリアの実業家は学校教育において語学学習の基本コースもとれる。これが後になって遠隔の市場に行ったとき、時間節約につながるわけだ。フィレンツェの若者たちが学校で何とか古代ローマのウェルギリウス、セネカあるいはボエティウスといった文人のものをかじって読むとき、そこにはおそらく大まかながらも一つの人文主義[ユマニスム]の発揚がある。リューベックの若きハンザ商人たちがイタリア語やフラーンデレン語の手ほどきを受けるとき、その意図が実践的なものであることはもっとはっきりしている。また、スィ(si)の言語〔つまりイタリア語〕を使う若きイタリア人が、ブリュッヘの波止場、ロンドンの税関あるいはシャンパーニュの大市でいかなる通訳にも従属しないで済むほど十分にオイル語[ラング・ドック]〔ロワール川以北のフランスで話されていた方言の総称〕――オック語の方は明らかにもっととりつきやすいと思われていた――を学ぶのも、同じ実践的意図からである〔イタリア語の「スィ」同様、「オイル」、「オック」も「はい」という意味である。〕
P.87

 いたるところで故国との隔たりが集団の組織化を産む。フィレンツェの同職組合、カリマーラはシャンパーニュの大市開催諸都市ならびにピーサに領事[コンシュル]を派遣する。ロンドンやブリュッヘのようにドイツ・ハンザに下命していない都市において、ハンザ都市はやはり共同の防衛・代表機関をもっている。アントヴェルペンにはイングランドの「マーチャント・アドヴェンチャーラズ」〔冒険商人〕が、一三〇五年以降正式に任命された保護者をおいている。その肩書は時代によって監督官、守備隊長、あるいは領事というふうに変わるが、一貫した役務は、ブラバント公により認められた特権を各人が正当に享受するよう監視することである。同じマーチャント・アドヴェンチャーラズは、半世紀ほど後、ブリュッヘに「ガヴァナー」〔総督〕をもっている。その任務は低地諸邦全体において、イングランド「同郷団」とみなされ始めているものを代表することであった。

P.135

 実業とはすべて冒険であり、冒険とは神の摂理であることは人のよく知るところであった。あるいはそれは同じことを古典ラテン語で表現すれば、運命の女神[フォルトゥーナ]のなせるわざでもある。言葉の曖昧さはまさに態度の曖昧さを反映するものである。
 宗教には料金表がついている。いまや算術的な信心の時代である。巡礼や十字軍の形をとった誓願は貧者への施しに減刑される。また祈りの繰り返しとひきかえに贖宥[しょくゆう]が追加される。あるいはロザリオの祈りの間じゅう一五〇回アヴェー・マリーアが唱えられ、死者のために一ヶ月間「三〇日間慰霊ミサ[ル・トゥランタン]」が毎日続けられたりする。聖母マリーアの「七つの喜び」や「七つの苦しみ」についても言うまでも亡かろう。人はこれらについてとくと考えるために、注意深く数え上げるのである。遺言のなかで、救済の費用が数値化されているとしても、何ら驚くにあたらない所以である。
 これは安心に対する欲求のまったく単純な表現にほかならず、カネもうけ主義的な精神からの、そして他方、血による奉仕を税金で代用する精神と同種の精神からの、恐るべき所産である。安心にはいくらかかるのか、そして自分の書揺するカネでどれだけの安心が得られるのかを人は知ろうと欲する。永遠の救済には支払いが必要だ。そこで遺言の数学はリスク分散による保健の精神を登場させる。それはあたかも、生まれつつある資本主義が促す事業分散のごとくである。あの世に関してさえ、人は一つのことに全財産をまるごと賭けることはしないのである。

P.512

 王朝への忠誠などどうでもよかった。パリ人は、平和を保証してくれそうだったら、ランカスター家とでもうまく折り合いをつけてしまう。一四二五年頃、ベドフォード公の英領フランスの統治体制が安定化するように思われたとき、アルジャントゥイユ港とヌイイ港〔ともにセーヌ河港〕で同時に人々の安心感がよみがえる。そして商品たちは、パリ北郊のサン=ドゥニ平野で六月に開催されるランディの大市に再び足を運ぶようになる。イングランド人の支配する体制かもしれないが、しかし平和のうちにある。
 イングランドの体制でよいのか? それほど確かなものであろうか? ジャンヌ・ダルクが首都の商業界にあれほど悪く見られたとしても、それはかの女が占領軍をフランスの外に「追い出す」ことを口にしたからではない。それはかの女が、平和の到来を信じはじめていた一地域を再び戦争状態に引き戻したからなのである。イングランドによる平和であろうが、イングランド=ブルゴーニュ聯合による平和であろうがかまわない。とにかくそれは平和であった。一四一九年、市門経由の商品搬入に対する税金、つまりは陸路の商業に課される税金の一徴収請負人が、その請負契約で欠損を出したことを明らかにする。実際の徴収額が契約額を下回ったというわけである。これは要するに商人がパリにはもはや寄りつかなかったことを物語っている。そして今度は一四二四年、ルーアン、ディエップ、カーン、ベルネー、サン=カンタンの商人たちが戻って来るのがみとめられる。一四一八年以来中断されていたランディの大市は一四二六年に復活する。徴税請負人の入札額は再びつり上がる。人々の心はたしかにシャルル七世の側になかったかもしれないが、繁栄復活を夢見るのは何らばかげたことではなかったのである。

P.528

 とってつけたような不可思議、猥雑な暗示、たわいもない話のもったいぶった羅列。このようなものが、十五世紀末に武勲詩とアーサー王物語の叙事詩風かつ宮廷風の感興が息切れしてしまった状況を示す、安物の文学である。かつてクレティアン・ドゥ=トゥロワ〔十二世紀の中世騎士道物語作家〕によってまったく新鮮なままに演出された理想が苦心して活かされているこれらの小説は、当時一つの流行を経験する。大量普及の新たな可能性がこれに拍車をかける。一四八〇年代から、パリの初期の頃の出版物として毎年世に出ていたのは、実際この種の文学なのである。
 というのも、印刷者にも生活がかかっており、書籍商の日々の糧を後々、保証してくれるのは、ガスパラン・ドゥ=ベルガムの『ラテン文学』やサルスヒウス〔古代ローマのカエサルの時代の歴史家、政治家〕の作品ではなく、ベッサリオン〔十五世紀のビザンティウムの町〕でもないのである。再興しつつある人文主義が、分離活字の発明のなかに、あらゆる文献研究ならびに言語・思想のあらゆる再発見に道を開くことになる文学作品の加筆訂正のためのはかり知れない能力アップを見ている間、よき市民――弁護士と商人――の教養に対する渇望は、その同じ発明に、何よりも大量部数かつ安価での印刷能力を見る。キケロ―や『フランス大年代記』〔十五世紀に書かれたフランスの正史〕のわきに、いまや印刷業者は次々に作品を刊行する。例えば支払いをしないで「べー」をする(ぽかんと口を開ける)債務者の滑稽さが特に大衆にうける『笑劇パトゥラン先生』。国王巡邏隊隊長にいかがわしい居酒屋を遺贈し、両替橋の最も裕福な金銀細工師の一人に自分の所有してもいないダイヤモンド一個を遺贈する、「冗談丸出しの男」の常套のうけ筋が見えるヴィヨンの『遺言詩集』。それに木骨軸組の家屋の威厳のある上階を夢想させる『フィエラブラ』〔「空いばり」を意味するサラセンの巨人が出てくる十二世紀の武勲詩〕、『魔術師メルラン』〔ブルターニュのアーサー王物語の一つ〕および前述の『アマディ・デ=ゴール』の一セットなどもそうである。

P.546

 本書は、ルネッサンスの黎明期のヨーロッパ経済に焦点を据えて、金と香辛料という当時の最も迅速かつ有利な致冨手段を提供した世界的商品を軸に、これを扱った一部大商人層の「実業家」への転成、その商業・経営技術の近代的転化・発展の過程、さらにはこの新社会層に固有の意識や態度のありようを明らかにしようとしたものである。

P.562 訳者あとがき

『狼と香辛料』のタイトルの元ネタ、らしい。書評かなにかで内容について知り、これは手におえんと感じたことを忘れて着手してしまった。迂闊。

書き手がターゲットとした読者層から明らかに外れている我が身には、とても、とても読みにくい本だった。ど素人にもわかりやすく俯瞰を許してくれた『銃・病原菌・鉄』のような内容を期待していたのだが、14~16世紀頃のヨーロッパにある程度精通していることが前提であるらしく、多くの名詞を記号として読み飛ばさざるを得ないようなありさまであった。

さておき、歴史や風物、当世的世情を垣間見るに、どうも他の時代のこととは思えない。
後世にブンガクと呼ばれるようになった当時のラノベも、さぞやたくさんあったことであろう。

ゴッドハンド体験

鳴らす整体は初。
何年か前に、電気治療となでるようなマッサージを施術するカイロプラクティックに通ったことがある。今回、職場の上長に進められて赴いた整体施術院ではまず、「それはカイロではない」と強調された。カイロとは手技によるもののみを指すそうであり、電気治療など邪道であるらしい。

狭い診療所で、待合いの場所から施術風景が見える。というか同室である。前の患者が施術されながらうめき声をあげるのを目の当たりにして、きょうがおれのさいごのひかもしれない、とかいう思いが浮かぶを禁じ得ない。
さて施術。まず、身体の状態を触診される。背骨の出るべきところが引っ込んで、引っ込んでいるべきところが出て、何番から何番までR、何番から何番までL、R、Lとなんだか背骨がジグザクになっており、左の腰骨が高く、各部の筋肉が捻じれているらしい。これがどの程度の症状なのか不明だが、施術者はひどいと評していた。

ばきごきやられる。思っていたほど痛くはない。施術の強度がどの程度だったのか不明だが、ふくらはぎや大腿など、もとより押されて痛い箇所は痛いが、鳴らされて叫ぶほどではない。首を鳴らされたときはちょっとアレだったが、主観としてはリラックスして施術を受けられたのではないかと思う。
施術後、施術院が所属する協会が開発したという寝具で休息をとる。いい寝具だと体感できるモノだ。値段もイイ。
この施術院、この寝具とサプリメントを執拗にすすめる。曰く「いいサプリメントはどれだけとってもいい」値段も(ry
サプリメントの成分はカルシウムが主、筋肉の材料だから、どんどん採るべしとのたまっていた。筋肉が疲労していると関節などの痛みになるとのこと。症状は体感中なので頷けるが、カルシウムが効くかどうかは未体験だ。

施術の効果も存分に確かめられぬうちに営業されても、なんとも答えようがない。
寝具は社会人なりたてのころ、バカ高いものを購入している。減価償却は済んでいない。枕は数度変えており、どうも低反発がイカンらしいと最近硬いものに変えたばかりである。
サプリメントについては最近、効果について全般的に疑わしいという主張を耳にもしている。
まずは通ってみて、効果が持続すると思えたら、サプリなり寝具なりの導入を検討できようが、今はまだその段階ではない。黙って話を聞いたが、肯定的な返事はしない。

効果は、というと。
施術当日は快適だった。痛い箇所は残っているが、多くの問題が改善されたといえる状態だった。マッサージやらなにやらの経験上、この効果は長く続かない。ひどいものだと施術直後からいわゆるもみ返しがはじまったりする。
一日経ってみて、かなり戻ってしまったカンジがする。特に下半身。上半身、主に肩はなんか、捻じれ方向に戻ろう戻ろうとする動きが感じられる。
マッサージが必要な肉体は悪い状態で安定してしまっているものであり、改善というか、あるべき姿に戻そうとしても、安定している悪い状態へ戻ろうとするものだと、個人的な体験から感じている。即効を求めるべきではない。

営業はウザいが、しばらくは通ってみようと思う。

2012年4月14日 (土)

アニメ 『学園戦記ムリョウ』

BOXを買うのは二度目。
LDバラで買っていた『Cowboy Bebop』が貸与したままとなってしまい、どうせ廃れる規格と判じた上で返却を見限り、これをDVD BOXで買い直したのが初。入手までに何度も繰り返し見てしまったのでBOXはほとんど手つかず、お布施状態となった反省から以後、よりいっそう手控えるようになった。

ケチがついたが、作品への評価は揺るぎない。大野雄二の音楽もよい。BOXケースのチープさ、ディスクがひん曲がるんじゃないかというディスクホルダの具合の悪さ、BDにした意味あるのか?という映像の質的問題はあるにせよ。贅沢をいえば、本作品にライフワークにしたいという言がまだ生きてるなら付属ブックレットに新しいメッセージをつけてほしかったが、手の出しやすい価格だったので無理はいうまい。

超伝奇SFの個人的最高峰は『魔神人伝』、それに比するのは『天地無用!』(OVA一期限定)、そして本作品である。
伝奇といえば魔人・怪人どんとこいであり、超伝奇といえば超魔人・超怪人がてんこもりというものである。そして、その有する能力のわりに小物だったりする。この傾向は特に新伝奇wにおいて高いように思う。
本作品においても超人はてんこもりだが、ユニークなのは、凡庸なる大物が作品の中心に据えられていることだろうか。似たような立ち位置をもつキャラクターとしては『無限のリヴァイアス』の相葉昴治くらいしか思いつかない。
他にユニークといえば、生身による大気圏離脱を描写したことか。
久々に再視聴して、「神の償却」というネタかぶりをしたことを思い出した。

サトタツ分に飢えて手を出した『バスカッシュ!』がどういうものか良く知りもせずに手を出してorzとなって以来、ちょっと斜に構えて待ちガイルな昨今であるが、ナデシコ再視聴からテンションあがってきたので、『モーレツ宇宙海賊』『輪廻のラグランジェ』あたりを観てみようかとも思う。

PS.現状、PowerDVD12、なんかダメっぽいカンジ。体験版だからか?

2012年4月13日 (金)

Blu-rayプレイヤ、起動せず

公式サイトにて2012年2月発売予定と発表されたそれは、いつになっても予定のままで、いつしか実現を疑うようになっていた。
Amazonで予約が可能になってもなお公式サイトは予定のままで、どうなることやらと見守っていたが、都合二度、発売延期の告知がAmazonからなされ、ようやく正式に発売されるらしいと得心できたのは4月になってからだった。
それを昨晩手にした。待ち遠しいというのは、ここのところ絶えて久しかった感覚である。
学園戦記ムリョウ』のBlu-ray BOXである。

さて、映像作品はPCで見る。
2009年末に購入した我がPC、BTO製品であるそれに組み込まれたBDドライブ、そのバンドル品であるPowerDVD v8というソフトプレイヤは、これまでなんのトラブルもなく我が求めに答えてきた。
昨晩初めて、これを拒絶された。

これまでトラブルが皆無だったために興味もなく、DVDやBlu-rayという規格にはほとんど無知である。BDソフトの不具合も疑ってしまったわけだが、調べてみるに、これはどうやらBDソフトに仕込まれたAACSが原因であるらしい。
ソフトプレイヤの場合、更新されたACCSに対応するようアップデートする必要があるようだが、バンドル品はCyberLink公式非対応のようで、アップデートせよのメッセージを繰り返すばかりで再生できない。似たような事例の解決に一日使ったというレポートを参照し、対応を実行してみたがうまくいかなかった。
PS3で見るという手もあったがそれはせず、いろいろ試す。試して前述のことを知り、バンドル品による視聴は諦めて、体験版PowerDVD12を導入することで一時的に事態の回避を実現した。

AACSというのは著作権保護のための措置ということで、それ自体は大いに結構なことである。
だが、正規ユーザにストレスを課す副作用はいただけない。BDソフトを買っただけで、なんでこんないらん苦労せなアカンのか。AACSがアップデートされると、これまで視聴できていたDVDやBDが視聴不可になる場合があるらしい。
あほくさ。Blu-ray規格品はもう買えんわ。

アレが売れない、コレが衰退しているというが、それも必然という気がしてならない。
せっかく待ちわびたBlu-ray BOXだというのに、エラいケチをつけられたもんだ。
最安値保証となった価格、つまり我が購入価格が公式サイトに表示された価格よりだいぶ低いと喜んだのもつかのま、PCでの視聴にこだわるならば差額を上回る投資をせねばならない。
いろいろ調べてみるとPowerDVD12には不具合も少なくないらしい。AnyDVDというのがよさげだが、体験版PowerDVD12をインストールしてしまった後でも PowerDVD v8は使用可能だろうか。

2012年4月11日 (水)

パワーヨガ体験

どうにも身体の具合がはかばかしくない。

事故の件がらみで医師に相談しているが、改善に至らない。
運動して身体が温まると具合がよくなるので、その部位固有の疾患ではなく、血行不良の類であろうと思われる。
もう二ヶ月近く、痛い毎日を過ごしている。たまに訪れる「具合のいいとき」は長続きしない。

住処のわりと近くにヨガスタジオっぽいのが存在していることは既知としていたが、それまで意識することはなかった。やってみるかと思い立って調べてみたら体験レッスンなるものがあるとわかり、サービスを利用してみることにする。

体験レッスンとして選択したパワーヨガとは、ブートキャンプのようなわりとハードなエクササイズだった。開始からのいくばくかを呼吸によるウォームアップに、終了までのいくばくかをリラクゼーションによるクールダウンに使用する以外は90分間動きっぱなしである。二日たって筋肉痛がないことから、それなりに見合った内容であると感じられるが、故障個所の痛みに耐えて行うにはハードすぎる。

初めてのこと、なにがなんだかわからないので、見よう見まねである。思い描いていたような「身体の使い方」のような指導はなかった。参加者のレベルも様々と見たが、動きの中で手の位置やらなにやらを指導されるものの、身体の使い方(伊藤式でいう、伸ばす・反らす、的な)を指導されているふうは見受けられなかった。
指導者は素人目にも参加者とはレベルの異なる身体運用を行っていて、それは目指すべきものとして納得がいくものであったが、そこに至るまで筋道だって指導されるのかどうか、体験レッスンでは印象を得られなかった。
身体の動きで実現すべきところを筋力で強引に行ってしまうなど、表面的に真似ただけでは、間違った身体運用を行うことにもなりかねない。それが意図せずして身体の不具合を誘発するかもしれないと感じるようになっている。
その辺に折り合いがつかないと、あえて参加する気にはなれない。

かような理由から、ソフトヨガという別のコースを体験して参加を決めようと考えていたのだが、問い合わせたところ、体験レッスンは全てのコースでただ一度きりということで、以降は受講者として選択するようは運びとなるようである。
果たして7200円かけるだけの価値のあるものかどうか、判断つきかねる。

他にヨガっぽいものといえば先に飛龍会の体験レッスンに参加した経験しかないが、双方ともに、習うより慣れろ式が共通している。前者は書籍による身体運用をある程度理解していることが前提とあったが、それを基本化しているような印象は受けなかった。「基本動作を行う時間」は取っているが、「基本動作をどのように行うかを説明・指導する時間」は取っていない。身体ができなければ、基本に達しないということなのだろうか。同意できる考えではあるが、非効率的である。あるいは弟子の選別を意図しているのだろうか。

基本というのは見た目は簡単なものだが、練度が如実に現われるものである。体力的なものを除外して、3級と同じレベルの基本しかできない黒帯は、存在してはならないのである。また、できることをわかっているとは限らない。そうできるからといって、どのようにできるか、なすべきか説明できるとは限らない。仕事と同じで、人というものは意外に、自分のやっていることを分かっていないものである。普段行っている業務をシステム化しようとしたとき、慣習的なフローを排除できないのは政治的な理由からだけではない。

伊藤昇先生が少林寺拳法やヨガから学び、流派に沿うのではなく、独自に流派を打ち立てた理由が分かるような気がする。いずれにも、なにかが欠けていると感じたのではなかろうか。

次は、職場の上長にすすめられた鳴らす整体に行ってみるとするか。

2012年4月 8日 (日)

映画 『太平洋奇跡の作戦 キスカ』

キスカという名称を初めて目にしたのはEGCで、二度目はナデシコだった。
そのような島が存在することは知らなかった。
つい先頃、『機動戦艦ナデシコ』全話+劇場版を再視聴し、ついでにいろいろ気になった点を調べているうちにサブタイトルの一つが本作品のタイトルから借用したものであるらしいことを知った。

港のない湾に停泊した船舶に、約5000名の人員が55分で搭乗完了した。
団体行動とか右向け右を嫌う風潮をそれなりに感じる昨今だが、規律というものがなし得る一つの成果であろう。

1965年の白黒映画で、主演は三船敏郎である。女っ気ナシ。
日本映画を斜めに見てしまう魂が宿ってしまった我が身が、飽きずに楽しめた。標準的邦画には必須となっているらしい余計なドラマがねじこまれなかったためだと思われる。

ただ、円谷な爆音を聞くたびに、ウルトラなカンジがしてしまったのが難だった。

ゲーム 『風ノ旅ビト』

この作品をゲームというには躊躇いがある。とはいえ、大作RPGが紙芝居になってから久しい昨今、ゲームの名を冠したオナニー鑑賞を強制させられることはよくあることだ。だが、この作品にはそれめいたカンジはない。

ゲームとは言い難いが、たしかに遊んでいるカンジはする。

この感覚はなんだろうかと身の内を探ってみたら、プリミティブな遊びの感覚が強調されてきて、なんとなくだが、幼少の折、絵本の中に遊んだことを思い出させられた。記憶は美化されるし、当人の記憶かどうかも怪しい(幼児が絵本と遊んでいる姿は図書館などで見かける)のだが、とにかくそんな印象である。

いまのところPSNでのダウンロードオンリーな販売形式のようだ。値段は1200円。単価を明らかに上回る価値がある。
似たカンジのゲームは思いつかないが、あえて探そうとするならば、古代のアドベンチャーゲーム、あるいはICOが感覚的に近いかもしれない。
1プレイ1時間程度。

2012年4月 6日 (金)

Skyrim of Venomiya その7

ダンジョン系を新規に追加するMODは軒並み導入不可な昨今。
モンスター改変系とコンフリクトするっぽい。

ダンジョン系
Battlefield Skyrim
 Steamワークショップからの導入は初。導入方法についてちと悩み、他力本願で成就する。
 事前に警告されていたとおり重いは重いがそれなりに動く。ただ戦闘はほとんど発生せず、乱戦というにはほど遠い。射手がちまちま射撃しているくらい。
20120405_00001
 事前。
20120405_00002
 事後。破壊魔法のレベル上げにはいいかもしれない。
 モンスターのバトルフィールドだったら魂石作成に利用するところだが・・・

システム系
Skyrim Monster Mod★★
 モンスターの種類を増やす。
 20120331_00004
 Broo系。TES4でもおなじみのデイドラスパイダー。
20120401_00001

 WiSとの共存は不可っぽい。ソレ系で共存確認できたのはDFBのみ。
 また、MOBがカカシ状態になってしまうのもコレが原因っぽい。

Quest系
add the Mother of Tears v3.2
 NMMから2.7を導入したあと、インストーラで3.2をインストールなカンジ。
 しつこく遊んでいるが、あちらが立てばこちらが立たずという具合。ドラゴンズリーチ地下に追加されたダンジョンは最後までいけた気がする(クエストジャーナルがないので、よくわからない)が、りすぽんしない不具合が再発してるような気がする。

The Dragon King
 ばはむーちょ追加。レベル上げすぎたためかちょーラクショー。出会いが悪かった。
 Reward二種。一種は動作確認済。


遊びすぎて飽きがきている。他にめぼしいものがないために惰性で遊んでいるような具合だ。
ここ数年どうも抑えがたくなっていた衝動に従ってDragon Mahjongg3やらDragon Mahjongg2やらを遊んでもみたが、対価に余りある出来だしゲームとしてはそこそこハマれるものの、求めるものに近しいようでやっぱり違う。暇つぶしにはよいのでちまちま遊びつつ、DQMでもやってみようかと思ったり思わなかったり。
FtPになったEverQuestを起動できるところまでもっていったが、ものの見事に操作方法を忘れていて、そっとログアウトしたことは秘密である。
『風ノ旅ビト』とやらを試してみるか。

2012年4月 3日 (火)

読物 『帝国の娘』

ふと、『帝国の娘』の娘でWeb検索を行った。
理由は覚えていないが、対象としたものは『リフトウォー・サーガ』シリーズの『帝国の娘』である。
検索結果のトップがアマゾンだった。二十年以上前に発刊されたものなのになんで?(古い本だとWikipediaやファンページが検索筆頭になる)と、表示されたものをよく読みもせずにリンクを辿ってみたら、別の作家の手になる本だった。

R・E・フィーストの著作である『帝国の娘』は、政略結婚により望まぬ男との子をなすことを余儀なくされた少女の物語である。自身の置かれた状況をよしとせず、自ら変えることを望み、実行した女性の物語である。
まだ十代だった我が身にはちとエグい内容で、ジュブナイル色の強かった『魔術師の帝国』と同じシリーズとは思えないものだった。ヤングウルフガイとアダルトウルフガイに感じるかもしれない差よりも大きな開きがあった。
ともかくも、若輩者にはいささか刺激的でありながら、記憶に残る一冊となったわけである。

という前提で本作品を読んでしまったとすると、どういう事が起こるかというと。

いわゆる少女小説レーベルから一般小説レーベルへの昇格?が発生した作品というと、『十二国記』シリーズと、『デルフィニア戦記』しか知らない。前者は愛読書だが、後者は一巻か二巻までを読んで我が身向きではないことを理解した。

本書もまた我が身向きではない。
シリアスなストーリーにボケツッコミ。本書における語りの基本的なスタンスはこれである。いわゆる「少女漫画」といって思いつくようなものを読んでいるような気になる。
『風の戦士ダン』を好むといえば、そのようなノリを拒絶するような性癖が我が身にはないことは証明されよう。ということは、おそらく語りそのものの質が受け入れがたいものなのだろうと分析できる。
たぶんこれは、著者の実体験および観察力ないしは想像力不足を不如意に感じさせられてしまうような描写が見受けられることに起因すると思われる。少女漫画を引き合いに出すならば、スナイパーライフル(しかもM16)を肩に担いでしまうような描写である。
世間的には好評ばかりで、ネガティブな意見は見つからない。レーベルの性質によるものか、はたまた云々。

小説に対し、会話が面白い、という評価をよく聞くようになった。
これについて、かつて「TRPGはやらないけれど、TRPGのリプレイはよく読む」という意見を耳にしたときに感じたことと似たなにかを思う。

出会いが悪かったのかもしれないが、未練はない。

2012年4月 1日 (日)

アニメ 『偽物語』

かつて漫画、アニメ、映画は、表記の順に高頻度で摂取してきた。
最近はそれぞれ希といえるほどに摂取する頻度が下がった。というのも、いろいろなものに興味を失ってしまった自分を再発見するばかりで、楽しいと思えることが少なくなってしまったからだ。
無論絶無ではなく、好みの漫画もあるし、シリーズを通して鑑賞するアニメもある。最後まで見る気になれる映画もある。

小説版ではインパクト的に『かれんビー』<<『つきひフェニックス』という印象があったが、アニメ版は7:4という比率でうまく配分した印象がある。
いろいろと興味を失っているので、わりと見るのが辛いシリーズだったが、文章からの挑戦をさりげなく受け流した観のある11話だけでもとりあえず見た価値はあった。

セカンドシーズンもアニメ化されるのだろう。猫は映画で、他はあわせて2クールというところだろうか。
かつては映像化にあたっていろいろと省略されることに大きな抵抗感を覚えたものだが、本作品については、薄くのばした文章がどのように映像化されるのか興味を覚えなくもない。

« 2012年3月 | トップページ | 2012年5月 »

フォト
無料ブログはココログ

最近のトラックバック