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2012年2月 8日 (水)

読物 『邪空の王』

原題"The Well of Darkness".

読物のジャンルにはファンタジーとかSFとかあるが、必要以上にふぁんたじっくでえすえふちっくになってしまう理由の一つに、翻訳時の単語選択があげられるのではないかと、ふと感じた。
邦題タイトルについてはさんざんdisってきたので、本書については要語である"void"についてdisってみようと思う。

"void"という単語は、プログラミング経験を有しているか、『ベルセルク』を愛読していない限り、耳慣れない言葉ではないかと思う。漠然と「空」とか「無」的に解釈していた。
本書においては単に「空」と訳すのが適当ではないかと思われる。地水火風空という五大元素、というとヲタク的なカンジがするが、仏教においては卒塔婆にシンボライズされている由緒正しい哲学である。アビラウンケンである。
物語の中で、かつては地水火風空は等しく信奉されていたが、いつしか空は邪教扱いされるようになった、というふうに語られている。「空」による魔術はビジュアル的に忌まわしいので、その辺が理由だろうとは察せられるが、明確にされてはいない。トリロジーの第一部なので、いずれ語られるのかもしれない。

さて、物語の中の住人であれば、「邪悪なる"void"」として語ってもよかろうと思うのだが、読者に対して"void"=「邪空」と示すのはいかがなものかと思うのである。
"void"の魔法を使うと、術者の身体に疱瘡的なものができる。使いすぎると命にかかわる。なんとなく、石川賢の「虚無」を思わせる。そんな個人的事情からすれば、"void"=「虚無」と訳されていればこれほど拒否反応を示さなかったのではないかと思わなくもない。とはいえ、「虚無」も語の意にそぐわない。

物語の中には忌まわしいものの代表として「空」が取り扱われているが、それはことさら単語によって強調されてはならないと思う。道具は使い方、道具を使った結果の善悪は、道具の善悪ではなく、使用者の善悪である。
ゆえに地水火風空は同列に表記されなくてはならないと感じられる。
ふぁんたじっくにしようとするあまりの虚飾であると受け止められたのである。

他に例をあげれば、本書には「ドゥワーフ族」「オルク族」が登場する。スペリングは従来通りのようで、これは翻訳者の選択によるものと思われる。これらは本書の邦訳が刊行された2002年頃には「ドワーフ族」「オーク族」としてそのスジには浸透しているとみて間違いない。これに敢えて逆らう意図は那辺にあるのか。語にいちいちつっかかられているようで、どうにも読み心地が悪い。
かつて"The Lord of the Rings"の瀬田訳にケチをつける意見があることを初めて知ったとき、何故これほどまでに青筋を立てているのだろうと、ある程度の理解を示しながらも(個人的には『指輪物語』という表題だけを既知としていたとき、少女漫画ちっくな印象を受けたために手に取ることを避けていたことは事実である)理解に苦しんだ(とはいえそれは、読み手側の責任である)ものだが、翻訳にケチをつけたくなる場合もあることを最近ようやく察し始めた。

さておき。
ケチは主に翻訳にあり、作品の内容は是非もない。いつも通りのワイス&ヒックマンである。
コンプレックスと、若さ故の過ちと、弱者と、不遇の、悲劇である。

完結してるらすぃとうきうきして手にとってみたら、実は邦訳は第一部完でござった。原作は完結している。
第一部の最後に続編への引きっぽい下りがあって、完璧な生殺し状態である。
角川の『冥界の門』、早川のコレ、いったいどーなってるの?

もちろん、絶版である。

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