« 読物 『天空の劫火』 | トップページ | ここんとこのいろいろ »

2011年9月14日 (水)

読物 『新版 進化するナンバ 実践 常歩剣道』

その昔、『グラップラー刃牙』で御殿手が紹介された頃のこと。
野球をやっているが格闘技は未経験という当時の職場の同僚とともに、昼食を買い出しに職場近辺のコンビニに向った。これみよがしに歩行者用の白線上を踏み歩く同僚の姿は、それを知る者には、なにが彼の厨二心を刺激したのか自明だった。
たまたま同道することになった職場の理事が何をしているのかと彼に問い、同僚は正中線を揺らさないように歩いているのですと答えた。それをするとどうなるの。バランスを崩さなくなります。ほう、と呟き、理事は同僚を軽く押した。他愛もなく、同僚はよろけた。
それから十数年、ズボンを片脚着脱しようとしているときのような一見して不安定な格好でも、きちんと重心を乗せていれば押されても容易には崩れないことを体感したのは余談である。

本書によれば、一直線上を歩くような歩き方は、少なくとも武術には不適合であろうという。
常足と書いて「なみあし」と呼ぶ。いわゆるナンバの、本書における名称である。常足は、一直線上ではなく、二軸――二本の直線上を動くという。一見してガニマタ歩き、といえばよかろうか。
ナンバ歩きという概念と初めて遭遇したのは山本貴嗣の『SABER CATS』で、その中には日本刀の運用に関わる表現もあった。本書においては、常足を剣道に還元するにあたって、これと反する運用を示しているようにみえる。
たかがマンガと、剣道を身近に行ってきた方の著書と、どちらに信を置くか。
剣道といえばガッコの体育の授業くらいしか経験のない身では判断する術を持たないが、静的な宇宙を信仰するのと同じレベルで前者に信を置きたい。

本書における常足を行う身体を作る方法論は、ここ数年、個人的に工夫しているところとマッチする部分があるので、参考にしたいと思う。
「剣道は古武道の理合を失っている(意訳)」というようなことを聞いたのはどこでだったか、ゆえに剣道に手がかりを求めることは諦めていたのだが、市井人の一考察という印象を拭いえないにせよ、興味深い内容であったことは間違いない。


« 読物 『天空の劫火』 | トップページ | ここんとこのいろいろ »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

剣道と居合でも足さばきは違います。
もとは同じ剣術なのでしょうが、剣道は現在スポーツとして完成されつつあるので、居室や街道での戦闘を想定した動きとは違ってきているという気がします。
剣術もいろいろ枝分かれした分、理想とされる動きに違いが出てきているのではないでしょうか。

いろいろな武術で試合による弊害(ルールによる弊害)というものがあるそうですが、剣道、柔道は普及率の分、その影響が大きいような気がします。
おそらく、習得に長く時間のかかるものは形だけ、即効性が高く寿命が短いものを優先して取り入れてきたということなんでしょう。

武術のスポーツ化は悪であり堕落なのかというとそうでもないかなと思います。
といってもコレ昨日読んでた嘉納治五郎氏の伝記からの受け売りですが。
武術を「トクベツなヒト」だけのものじゃなく誰でも比較的安全にできるものにすることで裾野が広がる、求道者ではくても武術による心身の鍛錬ができる、日本文化、日本的精神(のうちのイイトコ)の保持につながる、などの利点があるといいます。
間口の広いスポーツとしての武術から入って、更に深く追求したい人は古武術の道場に入門するとか、古い資料を調べるとか、山ごもりをするとか、熊と戦うとかする、そういう二層構造でもいいんじゃないでしょうか。


嘉納治五郎自身が柔道の大会を見て「これは私の目指したものではない(意訳)」というようなことを、高弟の前で漏らしたとか。
「あれこそが目指したものである(意訳)」と、嘉納治五郎が高弟を塩田剛三のもとに送ったとか。

体育という一面はよし。しかし、自身の経験から、一見してできている風で、実は根底を理解していないという事例はままあるようです。これは武術に特化したことではなく、いろいろな習い事や慣習にも見受けられると思います。
また、ルールを悪用するケースもあるようです。空手、柔道ですが、負けにならない程度の反則なら勝つためにやるのはむしろ当然というような意見を一般経験者の談として幾つか目にしてきました。このような思想をもつ方は少数かもしれませんが、勝つという目的を掲げたために発生した弊害ではあると思います。
「スポーツマンだから精神的善性を兼ね備えているべきである」という風潮は、「ルールをきちんと守りましょうね」が裏返った表現ではないかと思うのです。

一昔前は、技一つ学ぶのに山一つ売り払ったなどということもあったようです。塩田剛三は、あえて伝えなかったこともあるそうです。しかし、流派を伝えようとするならば、キモとなるべき部分は受け継がれなくてはならないと思うのです。
他の流派を学ばなければ自流の本質が見えないなんて状況は本末転倒です。

それこそトクベツな人じゃなくても、山籠りなんかしないでも学べたはずの技術が、故意か不意かの理由で失伝しているのではないかというのが、本書や私の懸念するところです。
より深く学ぶもののために、あえて不明となるようにしたのではないかという疑問もまたあり、飽きるまでは追求するつもりでいます。

すいません。
その後件の本を読み進めたところ、まさに今おっしゃっているようなことを晩年の翁が口にしていたというところがありました。
「勝つために」「負けない柔道をする」人が増えてしまった、とも。
当初の理想は立派でも、時間が経ち、大勢の人が絡んでくるようになるといろいろ思わなかった方向に進んでしまう。残念なことだと思います。
ただ、武術が広く万人に開かれたことはやはりそれで意義はあるのではないかと思います。あとは個人個人の心がけ次第というところでしょうか。

英語のことわざに
No pain, no gain.

Easy come, easy go.
などがあります。

苦労して、時間をかけて得られるものは何物にもかえがたい宝となるでしょう。

ご研究の成就をお祈りします。

蛇足な補足です。
ちょっと昔の話ですが、オリンピックで山下泰裕選手と対戦したエジプトの選手などはスポーツ柔道でもセコイ攻め方をするヤツばかりではない、という好例かと思います。
(怪我をしている側をまったく攻めなかったというわけではないようですが、少なくともあからさまにつけ込むようなことはしていない)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8F%E3%83%A1%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AF%E3%83%B3#cite_note-1

あ、あと剣道も居合も、「剣の道を通しての人間育成がどーたら」と謳ってはおりますが、どちらにも高段者なのに性格が悪いヒトがいます(笑。

論旨が違ってきています。
私は技術について語っているのであって、武道やそれを行う方々について語っているのではありません。

技術を学ぶ過程でステップに欠落がある印象を受け、その欠落の有無、有るとしてどのように発生したのかを考察しています。
読んだ本が剣道を扱ったものですから、他流にもそういうことがある実例ということで空手や柔道にも話題が及びました。それらがルールを設けた試合をやっているため、技術習得よりも、勝つことが目的になることもあると述べましたが、一貫して欠落の発生する所以を述べているつもりです。
補足とやらは、私が論じるつもりもないスポーツマンシップについてつっきーさんが個人的に思っていることに対するものでしょうが、私の論じているものとは異なります。

なお、武術の裾野についてですが、町人が力をつけてきた江戸期には、町人が武術をやるようになってきていたとのことです。これは竹刀の発明が大きく貢献しているのでしょう。
柔道が発達した背景には、帯刀の禁止が関連していると思われます。

それは大変失礼しました。

なにも解っていない者がしゃしゃり出た上に無関係な話を長々としてしまったとは、お恥ずかしい限りです。

研究のお邪魔をしてしまい申し訳ありませんでした。

無学無知蒙昧、また自らの技も未熟の輩として、懲りずにたわごとをはくことは誠に恐縮なのですが、伝承過程での情報欠落という点について、経験から少々考えたことがあります。

あるとき講習会にて他所の先生から指導を受けました。その際、それまで自分の師匠から教わっていたこととは違うことを言われたと思い、あとから確認したところ、
「それは結局同じことを言っているのだ。同じ動きでも言葉にする人次第で微妙に表現が変わる。一言一句に惑わされず、その真に意味するところを掴まなければならない」
というような話をされました。
現実として、人は目の前で技を見ていてもなかなかすべてを詳細には記憶できないものです。
言葉は聞いたそのまま、書かれたそのままが残りますが、個人レベルでの解釈によって細かなところが少しずつ伝言ゲームのように変わってくることもあるだろう、と思いました。

既に多くの関係書物を読まれ、ご自分でも実際にきびしい修行をされている方には釈迦に説法、汗顔の至りではありますが、小人物の愚考見当違いのものか、はたまた真理の切れ端でも齧れているものか、知りたいと思いここに書かせていただきました。間違っておりますでしょうか?

また、確かに江戸時代、町道場で修行する人はそれまでより増えたとは思いますが、それはやはり都会の生活に余裕がある層が中心で、対人口比でいうとまだまだ少なかったと思われます。

明治時代には柔術、剣術は衰退し、町道場で稽古をする人はかなり少なく、一時期武術は存亡の危機に陥っていたといいます。剣術に関しては廃刀令を原因と考えることもできるでしょうが、西洋文化礼賛の風潮のなか「日本の武術などは野蛮であり、文化的にも低級だ」と思われたことが大きかったようです。

全国どこででも、老若男女が自分の意志で気軽に始められるという今の状況は、今がいい時代だからということもあるのでしょうが、意識改革や普及のための努力をした先人の存在もあってのことだと知り、ありがたく思った次第です。

このことにつきましても真偽のほどご教示いただけるとありがたく存じます。

長くなりましてもうしわけありません。

記名を忘れていました。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/542052/52725403

この記事へのトラックバック一覧です: 読物 『新版 進化するナンバ 実践 常歩剣道』:

« 読物 『天空の劫火』 | トップページ | ここんとこのいろいろ »

フォト
無料ブログはココログ

最近のトラックバック