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2011年7月 3日 (日)

読物 『鳩山一族 その金脈と血脈』

 鳩山(邦夫) 総理大臣と二人きりで話ができることは滅多にありませんが、あるとき田中派の事務所があった砂防会館にいたときだったと思いますが、話をする機会があり、田中(角栄)先生からこう言われました。
「いま俺は内閣支持率が高い。高いけれども、君にとっては反面教師かもしれんな。でも反面教師も教師だぞ。俺の真似をすることは簡単に学べる。でも、反面教師の部分も多いから、それをよく見とけ」
 六〇パーセントを超える国民の支持率があって、なぜ反面教師なのかと問うと、田中先生はこう言われたんです。
「わしはね、政治家になるために無理をしているし、なってからもいろいろ無理をしとる。だからいろいろな歪みがあるんだ。世の中の人は『苦労が大事だ』と言う。おそらく『苦労がないぞ』と君にいう人も、将来、いっぱいいるだろう。だけど、出来ればくだらん苦労はしないほうがいいんだ。俺は苦労した。苦労したのはいいんだけど、その苦労が無理になっている部分がある。そういう面は反面教師だ。だらけろと君に言ってるんじゃない。でも無理はしないで政治家になれたら、それが一番いいんだ。そのほうが素直な政治家が育つ」
 そして「選挙に出たいのか。戸別訪問三万軒、辻説法二万回やりゃあ勝てるぞ」と言われましたね。戸別訪問は五万軒ぐらいしましたが、辻説法は二百回もやったかな。
 ――その後の田中角栄を思うと感慨がありますね。
 鳩山 あの悲しいロッキード事件が起きて、田中先生は金権批判にさらされた。このとき「ああ、無理したとはこういうことなのか」と思いましたね。
 ――その田中角栄の愛弟子と言われる小沢一郎については、どう思われますか。
 鳩山 あの人は田中先生に本当に一番かわいがられたお弟子さんで、カリスマ性はあるし、力もあるし、すごい政治家だと思いますよ。ただ、手法は古いですね。まさにかつて兄が批判したように、派閥の力、カネの力をもって、密室で物事を決めるような強権的なやり方を学ばれて、自民党五五年体制そのものの政治家として成長された。
 四十歳代で幹事長をやって、それから病気で倒れますよね。それが人生観に何らかの変化をもたらして、この五五年体制を壊してやろうという方向に、突然、変わっていかれたのかなという気がします。すごい政治家で、壊し屋としては超一流。あの人も人間性は豊かですよ。
 ――そうですか。我々には伝わってきませんね。
 鳩山 小沢さんは九一年の東京都知事選挙に元NHKの磯村尚徳さんを擁立しますが、現職の鈴木俊一さんに負けた。それで彼は自民党の幹事長を辞めたわけですが、その後、都知事選で苦労をかけたということで、私と、岡田克也と、魚住汎英(元衆議院)に声をかけて、アメリカに遊びに行くことになった。小沢さんは海外大好きですもん。三泊四日ぐらいでサンフランシスコからロサンジェルスへ行くというスケジュールでしたが、出発の直前に安部晋太郎さんが亡くなられた。小沢さんは前幹事長ですから日本にいなくてはいけないので行けないなと思っていたら、小沢さんが「俺が君らを口説いたんだから」と言って、四人でサンフランシスコまで行ったんです。一緒にゴルフをハーフくらい回って、翌日、小沢さんだけ日本にとんぼ返りした。普通であればキャンセルして、「小遣い渡すから、お前らだけで行って来い」となるわけですが、偉いなあと思いましたね。その話を金丸(信)先生にしたら、「小沢もいいとこあるな。あいつ成長したな」とおっしゃった。それが非常に印象的ですね。

P.33

 わが国初の結婚披露宴
 東京女子師範学校を卒業した春子は母校に就職し、教鞭をとった。二十歳の若さだった。だが、この年和夫(鳩山由紀夫の曾祖父)と結婚することになったため、わずか四ヶ月の奉職で辞職した。このとき和夫は新しもの好きの本領を発揮して、当時誰もやっていなかった結婚披露宴を挙行した。これがわが国初の結婚披露宴だったといわれる。

P.110

 「萬朝報(よろずちょうほう)」が、「赤新聞」と呼ばれたのは、少しでも目立つように用紙をピンク色にしたところからきたものである。「赤新聞」という呼称はそれ以来、興味本位のB級新聞の代名詞として定着した。

P.119

 一郎が薫に宛てたラブレター
 春子が剛だとすれば、一郎夫人の薫は柔だった。
 旧姓・寺田薫と一郎は"いとこ半"の関係だった。薫の母のいくは、春子の長姉・すまの子で、衆議院書記官の寺田榮に嫁いでいた。その間に生まれた長女が薫である。
 一郎と薫は幼なじみであり、その結婚は血縁結婚にあたっていた。明治四十一年の一郎と薫の結婚当時、血縁結婚の弊害ということはすでにいわれはじめており、薫の大叔母にあたる春子もそのことは知っていた。
 このため、和夫も春子も一郎と薫の結婚には最初反対だった。しかし春子は、秀才の一郎と女子学院出身の才媛の薫が結婚すれば、自分と和夫以上の理想の夫婦が生まれ、二人の間に生まれた子どもはますます優秀になるに違いない、もし一郎に天下が取れずとも、その子はきっと天下を取ってくれるに違いないと考え、二人の結婚に同意した。
 薫は元々鳩山家の遠縁だったため、若い頃から同家の養女となっていた。このため薫は五歳以上年上の一郎を「お兄さま」と呼んで育った。
 元鳩山農場があった北海道・栗山町の開拓記念館には、一郎が薫に宛てたラブレターがいまも残っている。
 明治三十八年から九年にかけてのこの当時、東大に在学中だった一郎は夏休みを利用して鳩山農場で過ごすのを通例としており、次にあげるラブレターも鳩山農場から「音羽御殿」で生活する薫に宛てたものである。

<愛する妹よ、いまねるのです。きょうはうれしくて一生懸命に勉強も出来ました。あゝかおるさん! 一所に此の涼風に吹かれたいではありませんか>

<二日間書きませんでしたね、下さった御手紙繰り返しては見、見てはKISSしました。妹よ、また書いて下さいな。またれてまたれて仕方がありません>

P.123

 瓢亭会談の翌々日の昼過ぎ、伊藤(斗福)は約束通り、音羽の鳩山邸に三千万円の現金を用意して現れた。三木はそれをカバンごとひったくるようにして受けとると、あたふたと音羽の山をおりていった。
 ソ連の最高指導者スターリンが死去したのは、それから三ヶ月あまり後の昭和二十八年三月五日だった。株価は暴落し、破綻に追い込まれた伊藤は、詐欺容疑で逮捕された。高利回りという甘言を弄して庶民のなけなしの金をまきあげた、というのが逮捕の理由だった。
 伊藤が三木らに期待した相互金融法の立法化はまったくなされなかった。そればかりか、伊藤から多額の政治資金の提供を受けた政治家は誰ひとりとして検挙されなかった。この事件は結局、伊藤ひとりが政治家に食い物にされる形で決着することになった。
 逆にいうなら、三木らは法制化のメドも立たない新興庶民金融に目をつけて融資を仰ぎ、抜け目なく大金をせしめたことになる。
 一方、その保全経済会から一億円の出資を受け、日本テレビを開局に持ち込んだ正力は、たちまち同社を黒字にさせていた。伊藤を食い物にしたという意味では、正力も三木ら政治家も同じ穴のムジナだった。
 伊藤が庶民から"まきあげた"なけなしの金は、めぐりめぐって、一方で日本初の民放テレビを開局させ、一方でその後五十年にわたって日本の政治を牛耳る自民党政権を誕生させる原資となった。
 保全経済会の伊藤が、老後を細々と暮らす年寄りのタンス貯金や、サラリーマンの退職金をかき集めて築いた多額の金は、鳩山と気脈を通じた正力や三木ら政治家のもとでロンダリングされ、政治とメディアの双方に流れて、戦後体制の最も重要な骨格をつくっていったのである。

P.171

 太平洋戦争が始まると、久留米工場は軍需工場に指定され、地下足袋と防毒マスクの増産に多忙をきわめた。地下足袋は戦争に不可欠の軍需品だった。石橋は前掲の『私の歩み』で述べている。

<鉄条網の電流千ボルト(※引用者注:原文ママ)にも耐え得るから、市街戦などに絶対必要で、またぬかるみの多い戦場においては、活動が敏速で、疲労が少ないため兵士たちは地下足袋を履いて戦った。それでみんな背嚢に二足あて背負って出征した。米国の従軍通信記者たちは、日本の兵隊は足音がしなくて屡々不意討や夜襲に成功すると報道した。東条首相は私に会う毎に地下足袋の増産を頼んだほどであった>

P.238

著者について、だいたい、どんなカンジかわかった。
ギザギザハートなのはご愛敬だとしても、恣意的でありすぎる。
知らないことを教えてくれるので重宝はするが、うのみにしてはならない。

さておき。
歴史は、大なり小なり、勝者のものである。
そして、懲りずに繰り返されるものである。
そういうことらしい。

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