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2011年7月30日 (土)

読物 『東京闇市興亡史』

 たまたまそのころ、大阪・焼跡闇市を記録する会が『大阪・焼跡闇市』という本を出版した。サブ・タイトルには「ボロボロの戦後史」とうたわれ、「かつて若かった父や母の青春」を焼跡・闇市にさがそうと読者によびかけた。この本の書き手は、新聞記者でも文章で生活するプロでもなかった。三三人の市井の人たちだった。
P.3 『はじめに』

 日本人の中にも、その儲けっぷりに気をひかれて、石鹸屋になる者も多かった。長田昭さんも、またその一人である。
「カセイソーダを一斗のドラム缶に入れて、造っていた。石鹸は統制品だから、もちろん、非合法というわけです。固まったやつをさかさにして叩き出し、大きな木のワクで四角い型に固めるわけ。それを手術用の手袋かなんかはめて、ピアノ線をピーンと張って、同じくらいの寸法で切っていく。花王とかミツワと彫った木版を木づちで叩いて、一見ちゃんとした品物のようにみせる。が、ちょっと違ってるんですよ。花王は花玉だったり、MITSUWAがNITSUWAだったりね」(長田氏)
 一個一〇円ぐらいで売っていたこの石鹸、二、三日すると、縮んでしまうし、肌がピリピリするという代物であった。もっとも、前出の蔡氏によると「石鹸といっては、統制の網にひっかかるので、あくまで洗剤と呼んでいましたよ。新橋にあった『国際タイムス』がしつっこく我々のことを”インチキ石鹸売り”と叩くので”認識が足りん!”と怒鳴り込んだこともあった」とか。つまり統制の石鹸ではなく、「洗剤」として売っていたところが、ミソなのである。

P.111 『上野・アメ横』 原正尋

 アメ横にはPXから流れる「Pモノ」、海外に出かける人に頼んで買ってきてもらう「Bモノ」、それに「ミーモノ」といわれる密輸品の、三ルートがあった。
 チョコレート、チューインガム、煙草、衣料、洋酒・・・・・・。これがアメ横に流れ込むのに、女性が果たした力は大きい。GIがパンパンに金銭を手渡すかわりに、物品を渡し、それをパンパンが現金にかえようと、アメ横にもってくる――。そのツテを求めて、GIと懇意になり、特殊ルートを開発する。「御徒町商栄協同組合」の檜山健一理事長も、そんなルートを通じて「芋アメのアメ横」を、「アメリカ製品のアメ横」へ転化させた”功労者”の一人である。アメ横の名前のもう一つの由来の誕生だ。

P.117 『上野・アメ横』

 日配が清算業務をはじめたときの、出版社などへの負債の合計は、九億円あまりであった。いまの金にして五〇〇億円に近いだろうか。約半年ののち、その年の秋に、不渡手形を出して、負債の棚上げをすることになったのだが、それまでに約三億円が支払われていた。約六億円が棚上げにされたことになる。
 もちろんこの負債の棚上げが打撃となったのだが、三億円の支払いにも問題があったようだ。日配から東販や日販など新しい取次店へ移行されたのは、出版物ばかりではなかったのである。従業員もうつっていった。そのおり、自分のお得意もいっしょにもっていき、優先的に支払った。それがつまりは精算業務のなかでの三億円の支払いとなってあらわれたのであるし、馴染みのお得意さんは老舗といわれていた戦前からの出版社がほとんどで、こうしてひところは戦犯出版社として追及されたこともある戦前からの出版社が生きのこり、戦後の進行出版社群はナダレ倒産にまきこまれて姿を消すのである。
 ひと山いくらで叩き売られた雑誌は、これらのナダレ倒産した出版社のもので、こうした戦後風俗の一コマにも、滓採り雑誌の興亡、というよりも、出版界の興亡が秘められていることを、まず記しておこう。

P.123 『「証言」の宝庫=カストリ雑誌』 山岡明

 闇屋がこれを見逃すはずはない。偽造の割当用紙で出版社や印刷会社などを手玉にとり、当時の金で一〇〇〇万円、いまの金にして約一〇億円を荒稼ぎしたばかりか、それを湯水のようにつかって世間を愕かすものまであらわれた。宇都宮を根城に、ダンサーだった女をかこっての大盤ぶるまいだったので、世にこれを<宇都宮たぬき御殿事件>といい、第二、第三のたぬき御殿事件がつづいたものだった。

P.130 『「証言」の宝庫=カストリ雑誌』

 日本酒一合一四〇円、マグロ寿司一つ二〇円。当時の月給が一八〇〇円である。
 ミスプリントなのではない。これが三分の一世紀前の、闇値なのだ。いまは東京は世界一物価が高いことで知られているが、それはこうした闇値が下敷きになっているからである。

P.147 『「証言」の宝庫=カストリ雑誌』

 遊びごとの世界というものは面白いもので、いつも上意下達ではなく、どこの誰だかわからない無名戦士の知恵によって革命がなされていく。

P.213 『焼跡ギャンブル時代』 阿佐田哲也

 余談になるが、神戸に売春婦が現れるようになったのは、伊藤博文が兵庫県知事になって、売春斡旋業を認めてからだという。

P.224 『生贄にされた七万人の娘たち』 真壁旲

――現在もある秋葉原のラジオセンターは露店出身者の経営である。

P.310 『露店―闇市の終わり』 猪野健治

 詩人親分として親しまれていた坂田浩一郎(故人=元東京街商共同組合理事長)は、
「露店は戦災復興のパイオニアだった。流通ルートが麻痺し、商店もデパートも再開できずにいるとき、われわれは焼跡を整理し、そこにズリ(ゴザ)を敷いて店を開いた。電力会社を動かして、まっ暗闇の焼跡に灯をともしたのもわれわれだ。強盗タウンだった焼跡に灯がともると、お客さんが、どっとばかりに押し寄せてきた。しかし、戦災の復興工事が軌道にのり、商業資本が力をとりもどしてくるとわれわれは露店からはじき出された。掃除をさせ、灯をともさせ、お客さんを呼びもどしたらもうおまえらに用はない、というわけだ。考えてみればいつの時代でもそうだった。古い地図をひろげると、はっきりそれがわかる。いま商店街や盛り場として有名なところは、むかしはみんな露店がずらりと軒をつらねていた地帯だ。街がきれいになってお客さんが集まってくると、大手の商業資本が進出してきて露店を追い出し、あっという間に商店街に変えてしまう。われわれは商業資本のために奉仕してきたようなものだ。たのまれもしないのに、グレン隊が入り込んでくれば生命を張って締め出したこともある。そのときは適当におだてておいて、用ずみになれば邪魔者あつかいする。わりにあわない稼業だよ」
 と、筆者に語ったことがあるが、坂田親分も五十二年一月、肝臓ガンのために急死した。
 坂田親分は、「暴力団狩り」という見出しをつけた新聞に強い怒りをもっていた。
「狩りという字はケモノヘンじゃないか。グレン隊も人間だ。なにかの失敗かあやまちで不本意にその世界に入っていっただけだ。それをケモノと同列にあつかうのはひどすぎる。いまはやりの言葉でいえばこれは差別用語だよ」
 というのだ。坂田親分は自分がテキヤ――香具師であることに誇りをもっていた。
「テキヤは屋根のない商人。無職渡世のバクチ打ちやグレン隊とはちがう。もともと安い商品を安く仕入れ、これを安く売る。零細商人だ。人相はあんまりよくないかも知れぬが、それは青天井で風雨にさらされ、太陽光線にきたえられたせいだ。ほめられても、侮辱されるすじあいはない」
 これが坂田の持論だった。だから同業者が暴力団取締りであげられたりしたときは、にがりきった表情をしていた。親分の詩を紹介しておこう。

 天照皇大神
 神農皇帝
 今上陛下
 三幅の掛軸の前に
 祭壇が飾られ
 古式豊かな盃事の行事が
 厳粛に執り行われている
  何時の時代からの慣例かは知らない
  私は幾度か経験してきた光景である

 二代目を継承する
 若き神農(おやぶん)は
 襲名という栄光の盃の重みを
 しっかと両手で捧げるように
 静かに呑み干した
 書院の硝子越しに眺められる
 古風な庭園は
 さんさんと降りしきる雪の中にある
    (詩集『火の国の恋』 歌謡芸術協会刊)

「親分誕生」と題された詩である。
 香具師の社会に入ってから約五〇年、関東大震災後の社会主義運動も、焼跡、闇市「解放区」時代ももちろん通過してきている。しかし、不思議にその体験をうたった作品はない。
 私にはその気持がわかるような気がする。その渦中に身をおいた一人として「語りたくない」ということであろう。あるとき、坂田親分の自宅をたずね、そこに学生運動OBの顔を発見して驚いたことがある。彼は、私の著書がきっかけで、坂田親分をたずね、その身内となったという。闇市の「終わり」と全共闘の「終わり」を強く感じたのを覚えている。

P.311 『露店―闇市の終わり』

 縁日露店の再開発許可を得たのを突破口に、運動は二十七年ごろから、街商連盟結成大会へ向けてもりあがっていく。
 その一つに同年八月の露店出身議員団の結成がある。
 参加者の顔ぶれをあげておくと、都議会から醍醐安之助、区議会から菅佐原申之介、田中節夫、近藤日吉丸、松田武夫、竹内長生、五十嵐四一郎、藤平作右衛門、渥美源五郎、前都議から茂木竹治、山田美樹、前区議では坂部武次郎、大谷福四郎、新井幸太郎、安田朝信、森一生、大林秀光が名をつらねた。
 五月二十二日の日本街商連盟の結成大会には、木村篤太郎法務総裁、大橋武夫国務相、海原清平自由党院外総務、安井誠一郎都知事、斉藤国警長官、吉川特審局長、田中警視総監、四条隆徳(東京警察懇談会理事)、川島覚(浅草警察署長)、堤八郎通産相代理、上杉智英同交会理事らが列席した。同交会というのは自由党の院外団である。
 右の顔ぶれを見てもわかるように、この結成大会にはウラがあった。
 そのころ木村法務総裁は、共産党が四全協でうち出した武闘路線に対抗する組織の結成を考えていた。戦前の右翼団体はことごとくGHQの手で解体され、少数のグループが組織の再建を画策しているていどであり、直接行動可能な反共団体はなかった。手っとり早いのは、生活基盤を不安定ながらももち、武闘力をそなえたテキヤ、博徒を右翼的に再編することである。博徒団体は戦前の大日本国粋会の梅津勘兵衛がすでにまとめにかかっていた。日本街商連盟の結成には、テキヤの全国連盟を目ざす、そういう狙いがかくされていた。
 これは、すでに体制にからめとられていたテキヤの親分衆にとっても、ソロバンにあわないものではなかった。連盟結成とひきかえに、露店の全面再開をかちとろうというのである。
 しかし結果は縁日再開を実現したのみで、常設露店の再開はついに認められなかった。
 木村篤太郎の反共兵団構想はまぼろしに終わった。それは俗に二〇万人の反共抜刀隊といわれているものだが、ときの首相吉田茂の一蹴にあって闇に葬られたのである。戦後保守本流の始祖、吉田は、共産党の武装闘争なるものが、季節はずれであり、労働者、農民の間に何らの支持もとりつけ得ないことを、はっきりと見ぬいていたのであろう。オールド・タカ派の木村の真意は、反共兵団の核だけつくっておけばよい――という判断だったのだろうが、これが戦後の右翼運動を腐敗させ、博徒、テキヤの広域化の促進剤となったのは、まったく皮肉である。

P.317 『露店―闇市の終わり』

祖父や父から、戦中、戦後のことを幾つか聞いていた。時代のことではなく、我が家のことである。祖父は健康上の理由から徴兵を免れていた。戦後、東京や岐阜へ趣き、仕入れてきた衣類を地元で卸していたという。何故岐阜?と問えば、岐阜は当時、衣類のメッカ的な土地であったという。
聞けばいろいろな話が聞けたことだろう。熱心に耳を傾けなかったことが悔やまれる。

知らなかった戦後が、本書にある。
パンパンといえば自堕落のような印象しかなかった。それは一面で正しく、一方、国策によるところもあったという。吉原芸者の著書によれば、太平洋戦争末期には国会議事堂を森に偽装するために吉原芸者らがかりだされたというが、常時鈍じているように思われるこの国の指導者層には、貧じてさらに鈍ずる余地があったというところか。

冒頭、大阪の闇市について著された本があると述べられている。
それこそ望んでいたもののように思われるのだが、目につく限りで調べたところ、手に取ることは難しいようである。



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