« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »

2011年5月

2011年5月30日 (月)

読物 『なれる!SE4 誰でもできる? プロジェクト管理』

 要は「まぁこのお客さんなら取りっぱぐれはないだろうから、先行して仕事しちゃおう」というノリだ。室見は営業処理など気にせず動くためあまり意識していなかったようだが、既存案件でも先行着手のものはたくさんあったらしい。意外にファジーな<企業間取引>。大人の世界は結構いい加減というやつだ。

P.257

PMが逃げたとか、そんな話は聞いたことがある。火事場になって交代というのもわりと体験してきた。PMという名ばかりのヒトビトが作成したスケジュールに、俺様ちゃんの名前が10個ぐらいかぶるように引かれたこともある。

さすがにこれはないよな、いや、あるかもしれないが、未体験ゾーンだな、とか、読中はそんなふうに思っていたが、実体験に近似的例があったことを思い出してしまった。
ジャパンさん、元気かなあ。

いいぞ、もっとやれ。

ただし、どこかで見たような過去花はそっとだぞ。

2011年5月29日 (日)

読物 『アンブロークンアロー』

「肉食は本能的に共食いを連想させるので、それに対する言い訳が発達する、それがソフィスティケーションというものの正体なんだそうです。戦闘機への給油を授乳にしてしまうネーミングセンスもそこから出ているんだろうってことですよ」
「おれはそんなことは意識したこともなかった。――高度九千を維持しつつ索敵警戒だ。少尉、周辺警戒を怠るな」
「イエッサー」
「しかし、共食いの言い訳だなんて、どこでそんな知識を仕入れたんだ?」
「ロンバート大佐です。人間は自らの残虐行為から目をそらすための方便を発明しては、さらに行為をエスカレートしてきた動物だ、とか。いつ、どういう話題でだったかは忘れましたが。人間は、リアルには耐えられないのだそうです」

P.296

前作『グッドラック』はマジ苦痛だった。
本作の五章『ブロークンアロー』まで、それが続く。
文章も神林長平なら登場人物も全て神林長平で、自分語り、俺哲学の講釈が延々と続く。
そんなカンジだった。

本作の要約を試みるならば、『U-18は知っていた』に、CATシステム86を上乗せしたようなもので、それにウダウダとノルマを乗せているようなハナシである。

全否定なイキオイで読み進めていたが、最終章『放たれた矢』には爽快な開放感がある。
神林長平には珍しい、といえるほど著作を網羅しているわけではないが、そんな印象を得た。『永久機関装置』で神林長平はブレたと感じたものだったが、ブレたのはどうやら読者である我が身であったようだ。
間違いなく続編は書かれるだろうし、読むだろう。
『グッドラック』も読み返してみるか。


2011年5月28日 (土)

ゲーム 『Wizardry Online 負荷テスト』

アカウントを失念する。運営からのメールで確認。
ログインできない。
パスワードが間違っているのか?

パスワードの確認方法がわからない。
運営サイトで行えることを知る。
パスワードを変更する。
ログインできない。

しばらく放置。
疑わしいものを探す。

ログインできるようになる。
PeerBlockが邪魔をしていたようだ。

キャラを作る。
Human男しか選べない。
作ったところで鯖切断。

ログイン。
ルーム?を選ぶ。「混雑」しているところには入れない模様。
やや混みのところに入る。鯖切断。

以後何度か鯖切断、一度のクライアントクラッシュを経験する。

んなかんじのテストで分かったこと。
プレイヤーは「ソウルネーム」をつける。
キャラクターはロスト前提なので、ソウルネームというメタキャラクターでプレイデータを管理する模様。

ダンジョンは、アクションRPG風味。
テスト版なのでいろいろと適当なんだろうが、本番がこの調子なら、プルってキルな戦術が求められるであろう。ハック&スラッシュならば、HPが少なすぎ、ダメージが多すぎる。視点移動が不可欠なので、アクション風味が強いならばパッドは必須であろう。

装備に耐久度がある。
ムラマサとか壊れたら泣くな。

ところで、蛮人コナンの映画が『コナン・ザ・バーバリアン』としてリメイクされるらしい。

5/29
町は箱庭、港町だが海には入れない。
ゾーンアウトはコマンド→マウスクリック、この間ダメージを食らう。EQ式のゾーンアウトにならんものか・・・
溜めまたは発動遅延の概念はある模様。
チャットが使いにくい。マルチウィンドウ化、s押下でノーマル、r押下でリプライとか必須と思われる。
なんとなくだが、レイドコンテンツ的なものの存在を予感させる。

2011年5月24日 (火)

読物 『原発ジプシー』

十月十日(火) 体育の日。休み。小雨混じりの天候なので、敦賀市内に出るのを断念。一日中、宿でゴロゴロする。

 当日付けの『福井新聞』に、「大飯原発一号機/ピンホールと断定/試運転中の放射能漏れ」という見出しに、次のような記事が載っていた。
 試運転に入っていた関電大飯原子力発電所=1号機(出力百十七万五千キロワット)は八月初めから原因不明の故障でストップしたままとなっているが、同原発は九日「検査の結果、燃料集合体三体にピンホールが認められた」と発表した。試運転中のピンホールは全国の原発の中でも初めてのケース・・・・・・。
「またか・・・・・・」という気持でこの記事を読んだ。あまりにトラブルが多すぎる。当然、稼働率にも大きな影響を与えているだろう。手元のメモを繰ってみた。
<設備利用率> 七二%(七〇年度)→六〇%→五四%→四八%→四二%→五三%→四二%(七七年度)
 この数字を目で追いながら、ふと、科学技術庁にこの資料をもらいに行ったときのことを思い出した。「年々、原発は動かなくなっているんですねえ」と言った私に、担当官は鼻白んだ口調でこう言っていた。
「なにを言ってるんですか、ちょっとしたトラブルでも、ちゃんとストップする――これこそが原発の安全性を証明しているんですよ!」
 まったく意外な"新説"に、思わず「トラブルって、安全なことなんですねえ」と、なんとも間の抜けたことを口にしたことを、いまでも覚えている。

P.52

 稲葉さんのあとについて、五~六メートルも歩くと、廊下の右側が休憩室だった。八畳ほどのスペースに、ソファーが六、七脚。小さなロッカーと、「安全作業とは、人が作業しているのを、なにもせずに横で見ていること」と落書のある黒板。

P.80
 

一一月三〇日(木) 今日も雨。作業は、きのうと同様、三号機の「洗濯」作業。
 休憩室で、田口さんという初老(六二、三歳だろう)の労働者が、みんなに不満をもらしていた。どうやら不満の原因は、今日の朝、事務所内で行われた朝礼(といっても「安全標語」の唱和のみ)のあとで、田中さんら六、七人が事務所責任者の梅元さんから呼ばれたことにあるらしかった。
 田中さんたち(いずれも六〇~七〇歳台)は、そこで「三号機の定検もほぼ終わった。来年二月ごろまで仕事がなくなるので、休んでほしい」と言われたという。いわゆる"休職勧告"だ。
「いくらわしらが歳だゆうても、みなと同じように仕事をやってんのに・・・・・・。それでなくてもだよ、やれ定検が始まるってころには、会社のもんが一升ビンかかえて、わしらを仕事に引っ張り出すくせに・・・・・・。それが、いざ定検が終わっちゃうと、とたんにこれだからなあ・・・・・・」
 田口さんは、右手で首を切る仕草をして見せた。
 それを聞いていた一人の労働者が、田中さんを慰めるような口調で、こう言った。
「そうだなあ、あんたの言う通りだよ。せめて美浜にもう一つ原発がありゃあ、切れ間なく定検があるのになあ・・・・・・。なんたって、ここは不安定な職場だよ」
 原発労働者が――といっても美浜原発の場合、その大半は地元の農漁民だが――原発の「安定性」とか「エネルギー危機」といったものとはまったく無関係に、原発建設に「賛成」してしまう(しなければならない)背景の一端を、彼らの会話のなかに見る思いがした。

P.127

「定検なんて、人間サマのやることじゃないよなあ」
「ああ。いくら許容線量内だから安全だって言われても、これだけ(の放射線量を)毎日浴びてれば、おかしくなんねえ方がおかしいよ」
「うん・・・・・・まあ、すぐにおかしくならなくたって、子どもに遺伝して、とんでもねえのが出来ちゃうかもしれないし、な」
「ここで働いてる者の家族なんか、あと一〇年後、二〇年後には、とんでもねえことになってるかも・・・・・・」
「ああ、もしおれにそんな変な子が生まれたら・・・・・・」
「どうする?」
「おれ、たぶん、その子、殺しちゃうだろうな」
「そうか・・・・・・。でもさ、冗談じゃなくてだよ、もしかすると、変な子ができたら殺しちゃえって法律が出来るかもしれんぜ。だって、おれたちの子孫にそんなのがボンボンできちゃったら、国としても困っちゃうもの・・・・・・」
「うん・・・・・・」
「・・・・・・もし、そんな法律が今あったら、お前なんか、まっ先にヤラれてるだろうな」
「どうしてさ?」
「だって、お前、顔が悪いもん。アッハハ・・・・・・」
 この会話の主は、二人とも若い男だった。「IHI」(石川島播磨重工)のネームが入った濃紺の作業着姿。労働者風ではない。社員だろう。
 この種の話は、美浜原発で働いていたときにも、幾度となく耳にしていた。具体的な内容は様々だったが、共通点が二つだけあった。一つは、原発で働く労働者(社員も含めて)の多くが、放射能を恐ろしいと考え、「許容線量以下なら安全」という"教育"に少なからず疑問を抱くとともに、放射能の影響が自分なり子孫なりに出てくるだろうという強い不安を感じていること。二つには、この会話の最後には、決まって、「冗談」が出てくることだ。「・・・・・・もし、そうなりゃ、きっとカアチャン、我慢できなくなって浮気するぜ」、「・・・・・・そうなると、儲かるのは葬儀屋と坊主だよ」、「だって、お前、顔が悪いもん」等々・・・・・・。
 ホンネを吐露してしまったことへの照れかくし。どうしようもない不安をいくらかでも紛らわすために――「冗談」の理由づけはどのようにでもできる。しかし、一つだけ確かなことがある。放射能に対する不安を、そのまま正直に口にすることが出来ないような職場環境を「原発」が持っていることだ。

P.142

 昨日(四月四日)付けの新聞から――
「だからといって、何もがっくりくることはない。むしろ、これ(アメリカの原発事故<スリーマイル島原発事故:引用者注>)を、日本ではどんな小さな事故も起こさせないために、よい機会にしなければいかん。ああいう事故がないと進歩はないよ」(土光敏夫経団連会長談。『朝日新聞』)
「①日本の原発は炉型、機械、操作員などの面から米国のような事故が発生する恐れはないと信じている。②安全運転には念を入れるが、運転を停止して点検するより、運転しながら点検するほうが有効だ。(略)④国民には安全対策が十分おこなわれていることを十分知ってもらい、理解を求めるよう努力する」(平岩外四電気事業連合会会長談。『朝日新聞』)

P.287

 では、実際にその労働者となって原発内作業に従事することで、はたして私は何をそこから得ることができたのだろうか。
 <痛み>――その場に立たされた労働者でなくても絶対に知ることのできない<痛み>を、私は自らの肉体で体験することができたように思う。
 ここでいう<痛み>とはどのようなものなのか。本文中で幾度となく描写したように、管理区域内に一歩踏みこんだら最後、大小便はもちろん、水を飲むことや食事・喫煙、さらには汗を手でぬぐうことも、疲れたからといって床に座り込んだり壁に寄りかかることさえも"禁止"されている(放射能汚染をさせるため:引用者注)。つまり労働者は、自分が生命体であることの証しである「生理」すらも捨て去ることが強制されているのだった。

P.315

 原発労働者を取り巻く現状についてもう少し触れておきたい。
 炭鉱夫たちが「合理化」・「エネルギー革命」の名のもとに下請労働者として編成されていったのと同じように、現在、わが国の第一次産業全体が兼業化の波をかぶり、第二次産業の労働力供給源とさえなってしまっている。原発の下請労働者には地元の農民や漁民、そして私自身が体験したような、原発から原発へと渡り歩く"原発ジプシー"と呼ばれる流浪の民が多いということ考えても、社会の深層部で構造的な変化が起こっていることは明らかだ。社会的に生み出された下請労働力を積極的に取り込み、利用し終えると「棄民」化するという構図は、原発だけでなくコンビナート等もまた同様のものをもっている。だが、原発とコンビナートとは決定的な相違点が一つある。それは、原発が吐き出す「棄民」は、放射線をたっぷりと浴びた「被ばく者」となっていることだ。原発内の労働が、作業量ではなく、放射線を浴びることがノルマになっているという事実からすれば、労働者を「被ばく者」とすることは、むしろ前提条件でさえあるのだ。こうしてみてくると、原発には、他の産業とは比較にならぬほど露骨に資本や国家権力の「論理」が投影されているように私には思えてならない。
 今年(七九年)九月五日、全国九電力会社の労組など一二組合で組織している電力労連(同盟系)が札幌で定期大会を開いた。その際、冒頭のあいさつに立った橋本孝一郎会長は「増大する電力需要を将来にわたり賄っていくためには、原子力発電所を積極的に推進していく必要がある」と強調したという。
 この発言に、東電のある社員が語った「ラドウエスト作業(廃棄物処理)は、被ばく量が多いので請負化してほしい」(一九七六年六月六日に東電労組福島原子力支部が実施したアンケート調査より)という"意識"をオーバー・ラップさせるとき、下請労働者の存在は、もはや電力会社の社員(彼らも「労働者」なのだ)からも"切り捨て"られていることがわかる。

P.316

原子力ないし放射能という言葉を知ったのは、アトムからだったかゴジラからだったか。
モビルスーツにメンテナンスが必要だということを知ったのは小学生の頃だったろうか。メンテナンスというものがどのようなことか理解したのは中学生の頃だったろうか。
原子力発電が、蒸気機関であることを明確に理解したのはいつのことだったろうか。
原発のメンテナンスが、しかも炉心付近の作業が、人力で、驚くほどの薄着で行われていることは知らなかった。ハイテクでメカニカルなナニカでやっていると思っていた。
原発で、放射能汚染された消耗品を焼却処分していることも知らなかった。

単車でツーリングしたとき、美浜原発に行ったことがある。
一般道は原発で行き止まりになっていて、ゲートには非日本的なガードマンが立っていた。
その行きと帰りに見た近辺のあまりにも美しい海の色に、原子の光を想起させられたものだ。

工事現場でバイトしたことがある。
だから、本書に書かれているような労働者のありようがなんとなく想像できる。
経験した現場で吸い込んだのは木材の粉塵だったが、原発の二次系では黒い粉塵が発生するらしい。それがなんであるか明記されていない。

本書は、著者が三つの原発――美浜、福島、敦賀――で下請労働者として実際に現場に入りこんだ経験を著している。意図してのことか、危険度の順に渡り歩いたかたちとなる。
読んだ限りでは

敦賀>(越えられない壁)>福島>>>>美浜

なカンジ。三十年以上前からどうしようもないで在り続けていたとは。

第一刷発行は1979年10月26日。著者が原発労働者として作業に従事していたのはその前年末から半年ほど。その後のことが気になるのだが、ネットでは拾えなかった。


2011年5月22日 (日)

読物 『ミストスピリット』

キャンペーンとは直接関係のない情報を小出しにして、もし自発的な気づきがあったならば、プレイヤーたちを新たなステージへ誘おうと画策していたことがあった。
D&D的にいうならば、コンパニオンないしイモータルキャンペーンということになろうか。生活などのためにやらなくてはならない小さな出来事から、お節介な救世主となるための、あるいは知らなくてもいい世界の秘密へと至るためのステップを散りばめていたわけだ。
わかりやすくはやりたくないという、『イルスの竪琴』なんかにツボっちゃった若輩者がいかにも罹患しそうな厨二っぷりの発露だったわけだが、時間は無限ではなく、我が幼年期も終わりを告げ、野望もまた虚しく散った。

さておき。
着手後二日間で全三巻を読破してしまったということは、ありふれたものだったとしても面白いということなんだろうが、「サンダースンの雪崩」とやらは、できのよくない推理小説の謎解きに似て肌に合わない。
前述のような、「俺シナリオでやっちゃってきた」感を刺激されるからかもしれない。

どうでもいいことだが、おかしな日本語だけではあきたらず、妙なこだわりを前面に押し出すようになった訳者がどうも鼻につく。

ともあれ、続きは読む。

2011年5月20日 (金)

読物 『新版 危険な話』

――物理学の原理がありまして、被バク量の問題です〔注―ヒバクには被爆と被曝という表記があり、一般的には原水爆による直接の閃光・爆風等を浴びた場合には被爆、その肉体的被害なしに放射線を浴びたり、体内に死の灰を取り込んだ場合には被曝、というように使い分けられるが、厳密には区別できない被害が多い。本書では主に被バクと表記する〕。たとえばここにコバルトの放射性物質がひと粒あったとします。私が二メートルのところに立っていて、一メートルの距離に近づいたらどうなるでしょう。”被バク量は距離の二乗に反比例する”という物理学の法則があります。ということは距離が二分の一になりますね。反比例するわけですから二の二乗、つまり四倍になるわけです。距離が半分に近付くと二倍の被バク量になるのではなく、四倍になります。
 これは外からの場合ですが、今度は外部から受けた場合と肺に吸い込んだ内部からの被バクを比べてみましょう。一メートルの距離にあった粉を吸い込んでしまったとします。そうすると肺の中でペタッと肺の細胞にくっついてしまいますよね。一メートルのところにあったものは一〇〇〇ミリです。それが肺にペタッとくっつけば、薄い液の膜があるだけで一〇〇〇分の一ミリ単位になってしまいますから、一〇〇〇掛ける一〇〇〇で一〇〇万、距離が一〇〇万分の一になります。ということは一〇〇万の二乗になって、計算上は実に一兆倍の被バク量になります。現実には、細胞の損傷や周囲の変化が生じて、このように単純な数値で表せないことは言うまでもありません。被バクの定義そのものに問題があるのです。

P.76

――数年前に、大阪のドヤ街・釜ヶ崎で何日か過ごしてみました。そこで作業する人たちが、「放射能で殺されても証明できない」と話してくれた言葉を忘れません。「ブルで轢かれりゃ分かるが、プルで白血病になっても分からん」と言ってました。

P.163

 さらに地震の時には、津波が来ます。津波が来ると、海水が退くという現象も交互に現れます。日本の原子炉はみな海水で冷やしているため、海水が退けば冷やせなくなります。何秒間か、いや、かなり長いあいだ海底が沖合まで現れるほど退いていきます。
 これを防ぐため取水口を遠く沖合まで伸ばせばよいではないか、と考えるのですが、潮は取水口と排水口、つまり入口と出口の両方で同時に退いてゆきますので、復水器のほうは空っぽになる。復水器とは、原子炉から出た蒸気を水に戻すための海水冷却装置で、きわめて重要なものです。津波が引く力に勝てるような大馬力のポンプは作り得ません。そのとき起こり得るのは、特に沸騰水型でスチームを冷やせなくなり、原子炉のなかで水蒸気の圧力が急激に高くなって、日本の原子炉に特有の出力異常上昇が起こる事故です。

P.300

 原子力は石油の節約にならないのです。原子力そのものが石油製品で、原子炉一基は火力発電所の三倍の建造コストを要しますから、コスト=エネルギー消費量という現代の数式から考えて、火力より浪費していることは明かです。ウランの採掘から精製・運転まで、大量の石油を消費して発電しています。しかもここに、最大の問題であり、永遠に管理しなければならない廃棄物のコストが入っていない。まだ技術がないため、計算さえできないのです。これが大量に化石エネルギーを食い続ける事実に、一刻も早く気づくべきです。
 使えなくなった原子炉のコストも入っていない。先日、東海村で”初の原子炉解体”などと宣伝しましたが、それだけで数百億円という馬鹿げた費用をかける。あれは現在商業用に使っている一〇〇万キロワット級原子炉の、数十分の一というオモチャのような研究炉です。
 さて、原子力に反対している私の話では信じないかもしれないので、むしろ推進側と言ってもいい、”日経ビジネス”一九八四年七月二三日号をお見せします。”原発は本当に安いのか”という表題で、一七頁にわたる大特集が組まれています。
 その最初に出てくるのが、このコスト上昇グラフです。うなぎのぼりの原発建設費――と書かれておりまして、いまや一基五〇〇〇億円の大台に乗ろうとしている。さて、誰がこの大金を払っているのでしょう。
 皆さんです。日本の電気料金は、世界一高い水準にある。これが、さきほど申しあげた企業戦略の答です。社会問題ではない。
 わが国には、電気事業法という法律があり、「投資した額の八パーセント以上儲けてはならない」と定めています。公益事業だから儲けすぎてはならない。一見すると立派な法のようですが、裏返して考えれば、八パーセントまでは儲けてよいことになる。つまり利益保証つきの安全な産業です。
 もうひとひねりしてください。皆さんが電力会社の社長であれば、どうしますか。一〇〇円投資すれば、八パーセントだから八円の利益になるところまで電気料金を値上げしていいわけです。いや、一〇〇〇円投資すれば、八〇円儲けてよい。一万円投資すれば、八〇〇円儲けてよい。こうして、火力の三倍ものコストをかけて、湯水のように金を使えば使うほど儲かる仕組みの悪法です。いや、問題はこれほど単純ではないのです。実は私もこれまでにさまざまなコスト計算を試みたのですが、その結果、あることを知りました。電力会社が、コスト計算の基になる正しい資料を公開していない、つまり公表されているコスト計算そのものが疑わしい。

P.366

 そして、このような建設工事では、建設費の三パーセントを政治家にリベートとして与えるのが業界の常識となっている。五〇〇〇億円の三パーセントですから、実に原子炉一基で一五〇億円が政治家の懐に転がりこむ。ロッキード事件の五億円で大騒ぎしていますが、こちらは一五〇億の話ですよ。なぜこの重大なほうに誰も目を向けないのか。政治家を動かしてきたのは、日本の基幹産業である電力会社だったのです。

P.369

前世紀末ごろ、『赤い盾』を振りかざし、仏法の守護者を名乗るコテハンの書き込みを読んだことがある。知らないことばかりだったし、煽りや賛同も含めて楽しく読ませていただいたが、視線が生温かくなることを禁じ得なかった。『フーコーの振り子』が示したアイロニーの如く。

本書も、楽しんで読ませていただいた。知らないことを知るのは楽しい。最近流行らしいオロナミンC牛乳を試してみようと思って、この人生で初めてオロナミンCをコップに注いでみたらRe-Animatedしてしまいそうな色合いだったとか。ちなみにオロナミンC牛乳はおいしいといえなくもないが、それぞれ別に飲んだほうがおいしいと思った。
知ることは楽しい。だが、本書の場合、知ることによって絶望感が募ってゆく。最終章で、生温かくなるまでは。
ともあれ、楽しく絶望するという得難い経験をしながら一気に読破した。

資本主義はそろそろ、前借主義と名を改めるべきではなかろうか。

2011年5月19日 (木)

読物 『鉄のエルフ』

「栄光と死だ、アルウィン」 イムトが言いなおした。「栄光と死、栄光が先で、死があと。大事なのは、この順番だ。”栄光”と”死”のあいだを充分あけるようにすりゃ、栄光をたっぷり味わえる」
「栄光のチャンスがあるんですか?」
「いいか、アルウィン」 イムトが声をひそめたので、コノワは耳を澄ました。「世のなかには、一生のうちに使える分よりも多くのチャンスがあるはずだ」

――第一巻 P.208

かつて主催したTRPGキャンペーンで、しもべとなるNPCを召喚できるマジックアイテムをもたせたことがあった。持ち主のレベル分のNPCを呼び出せるというもので、持ち主がレベル5ならば、1HDx5、2HD+3HD、5HDx1などという具合に構成できる。
レベル7でNamedを召喚できるようになり、これを使役するために勝負イベントを用意した。レベル9で新たなNamedを召喚できるようになり、これを使役するためには説得するか勝負に勝たねばならなかったが、PCは十分な説得材料を持ち得ず戦いとなり、ダイス目に遺伝的wな障害をもつプレイヤーは敗北し、危機的な局面を危機的なまま乗り切らざるを得ないという状況を迎えた。
アイテムの略歴などは一切語っていなかったにもかかわらず、プレイヤーたちはいつしか「PCが死んだら使役される側になるんじゃないか」と推測するようになったが、それが明らかになる機会はおそらくなかろう。

そしてまたかつて、サークルメンバーの一部が、サークルメンバーをキャラクターに見立ててファミコン版ウィザードリーをプレイしたとき、二十余名中ただ一人、我が身だけがドワーフに仕立てられた過去がある。
ドワーフ好きを自認する身の上であるとしても実に微妙な扱いであったといわざるを得ないが、キャラクターをロストさせてはヒャッハーしていた彼らの楽しみ方を否定することはできない。

さておき。
原題"Iron Elves"。
作中に登場する「鉄のエルフ隊」を指すのかどうかまだ不明だが、邦題がキャッチ―な印象を与えることは拭い得ない。『プライベート・ライアン』みたいなカンジ?

第一部を二分冊した邦版第一巻のあとがきによれば、三部作となる予定らしい。エルフ好きのサルヴァトーレが絶賛しているという。
小説でまんま『フルメタル・ジャケット』を体感したのは秋山瑞人の『EGコンバット』が個人的嚆矢となるが、本作でも同様な「ファミコンウォーズが出るぞ! カーチャンたちには内緒だぞ!」的なノリをそこそこ楽しむことができる。
そんないいカンジで1巻を読み終え、2巻はわけわかめで読み終えた。

かつて、翻訳ものFTには信仰に近い信頼感をもっていたが、『女神の誓い』で迷信であったことに気づき、『ハリーポッター』や『ダレン・シャン』で世界的メジャーであってもgdgdになりうることを体感した。本作品については、なにがどうなってるんだかわからない描写がありすぎることと、なぜにこんなにもカオスにしなければならないのか、もうちょっと小説的予定調和があってもいいんじゃないかということを強く思う。
『霜の中の顔』や『リフトウォー・サーガ』を好ましく感じる性癖にマッチする雰囲気を持っていただけに、第一部の読後感は非常に残念である。

ドワーフの軍人がステキな物語というと『ドラゴンランス伝説』が思い浮かぶが、新たに一つ、本作品が記憶されたことを付記する。それだけを楽しみに、第二部も読んでみることにしよう。

どうでもいいことなんだが、文字が大きく余白が広く見え、がんばれば一冊でいけたんちゃうかなと思ったり思わなかったり。

カバーイラストを手がけたワダアルコについて、どのような経歴をお持ちであるかロートルは全く知らないのだが、1990年代の懐かしさをふと、感じてしまった。ブログを参照した限りでは絵柄に幅があるようで、となればこれは意図したものか。

2011年5月15日 (日)

Sound BLASTER Easy Record

フロッピーディスクを処分している。
かつて処分したように思っていたが、それらはどうやら88時代のものだったらしい。此度、最古層から発掘されたそれは2HDが30箱ばかり。98時代のものだ。
必要なデータはMO経由で現行機種で使用可能な状態にしているので捨てても問題はない。

カセットテープを処分しかねている。
ダビングしたものは処分してしまったが、自分で買ったものはどうにも捨てられない。いずれもCDなどで再販されていないものと思われるからである。

一つ、"namco VIDEO GAME GRAFITI"。
SIDE Aに、当時ゲームファンの注目を集めた『源平討魔伝』の先行公開版BGMが収録されている。SIDE A'と銘打たれた裏面には、おニャン子アレンジなマッピーとか、時代を彷彿とさせる、黒歴史的歌謡集が収録されている。DIGDAGがとんだ迷惑野郎だったという公式設定?を知ることができるミニドラマも収録されている。
調べてみたら、今でも普通に買えるらしい。

二つ、"T&E GAME MUSIC LIBRARY"。
MSX版『スーパーレイドック』のおまけについてきたもの。ゲーム本体はどこかへいってしまった。
DAIVAのアレンジバージョンがイカス。

三つ、『人造人間キカイダー』。
小学生の頃、なけなしのお小遣いを貯めて購入したものだ。「キカイダー数え歌」とか、当時でも卒倒モノの挿入歌が収録されている。

わずか数本だが、これをなんとか保存する術はないだろうかと調べてみると、幾つか方法があることがわかった。Windowsの機能を使うもの、なんらかの装置を媒介してmp3に変換するもの、今回選択したのは後者で、前者より手間暇をかけずとも済むと判断したからだ。楽譜からサウンドカードまで、音楽に関係するありとあらゆるモノゴトが苦手なのである。
購入者のレビューは是々非くらいなカンジだったが、ダメでもまあいいかな価格だったので試してみることにした。

なんも考えずとりあえずやってみたら、音割れがひどい。
非なのかと挫けそうになりつつもいろいろ試してみる。どうやらカセット再生機の音量に依存するようで、超絶ボリュームで取り込んではいけないらしい。再生機のスピーカーでやや低音量と思えるレベルで取り込めばほどよいカンジ。
再生機はピンジャック出力しかついていなかったが、きちんとステレオで取り込めている。


次はビデオか・・・

PS.
T&E、音量調整が難しく、ボリュームを1レベルずつ下げて何回も取り直し。再生機で-60dbでも取り込んだ音が大きい。これより大きいボリュームで取り込むと高音で音が割れる。
再生機のデフォ(-38db)で取り込んだnamcoは取り込んだ音が小さい。

2011年5月14日 (土)

読物 『ミストボーン』

原題"Mistborn: The Final Empire"。
著者は、新鋭ながら、ロバート・ジョーダンによる未完の大作『時の車輪』シリーズの完結編を任された人物だという。
はじめはけっこう楽しく読んでいた『時の車輪』は、いつしか週刊少年漫画のようなノリであっちいったりこっちいったりしはじめて、ついていけなくなって放棄した個人的経緯がある。だから、前述のようなアオリにはどちらかというとネガティブな影響しか与えられなかったことはさておき。

かつて『冥界の門』というシリーズがあった。ドラゴンランスの執筆者たるマーガレット・ワイス、トレイシー・ヒックマンのコンビが著したファンタジー作品だ。
かなり楽しんでいたのに3巻『炎の海』で邦訳は途絶えてしまった。個人的には好きだったがあきらかに世間的なアレに逆行するカバーイラストが悪かったのか、出版社のお家事情のワリをくったためかさだかではない。とてつもなく面白い作品だったのに残念なことである。

その作品に、ハプロという男が登場した。対立する種族との闘争に敗れ、迷宮に封じ込められた種族の探索者であり、身体に刻みつけた入れ墨の紋様を組み合わせて強力な魔法を使う。当時、とある世間を席巻していたD&D的魔法使い像を打ち砕いた、タフな男だ。

この物語を読みながら、久しく忘れていたその男、その物語をなぜか思い出させられた。
またなぜか『マルドゥック・スクランブル』を彷彿とさせられ、というのも、あまり幸福ではない境遇の少女が登場し、アレな能力を開花させて大活躍するからであろう。
こんな単純な短絡はさておき。

著者によれば「悪が勝利したらどうなるのか」という発想から、この物語は成り立ったという
主軸だけあって、その辺はうまく書かれているし、落としどころも悪くはない。
大きく気になるところといえば戦闘シーンで、よくいえばJOJO的、悪くいえばハリウッドアクションの逆流的な描写目白押しで、個人的には興が削がれるばかりだった。これは本作品に限ったことではなく、『ハリーポッター』でもそうであったし、日本の作品でもあたりまえのようになっている。うまい作家がやれば読み応えもあるが、運動したことありましぇんな作家が書いたらそれはもう。
気になったところといえばもう一つ、滅多に感じないことなのだが、翻訳者の日本語能力に疑問を抱かされもした。翻訳にはそういう制約があると聞いたことがあるが、しなくてもよさそうな直訳をしないといけないのだろうか。

とりあえず、続きは読む。

2011年5月12日 (木)

漫画 『真ゲッターロボ』

ゲッターが裏返った初の作品となるのだろうか。
ゲッターロボGと號の間の話。號の試作器が登場する。『ゲッターロボアーク』でドびっくりさせられたゲッターエンペラー初出の作品でもある。惑星よりでかいマシンが合体することに意味があるのかどうかわからないが、とにかく燃える。
裏虚無なのか、虚無が裏ゲッターなのか。
もう読めないのが残念きわまりない。
同名のOVAはかつて、一分くらい見て鑑賞を放棄したことは余談である。

久々に矢野健太郎を読んだ。『邪神伝説シリーズ』というもので、幾つか読んだことがあるような気がする。刊行は、ずいぶんと前のことになる。
ジャンプ系列の雑誌で読んではいたが、特に好きな作家ではなかった。どちらかというと、コンプティークのゲーム紹介漫画で頭にレバーのついた蛮人コナン(シュワルツェネガータイプ)を描いていたことが印象に深く、また好みである。
クトゥルーもの創作というと、だいたいナニでアレな展開になりがち。この作品群もだいたいそんなカンジだが、原発とクトゥルーを対照しているあたりが時事的にヒットだったといえよう。山岸涼子の『パエトーン』を引き合いに出して、比べることもおこがましいと著者自身が語っているが、悪くないんではなかろうか。

2011年5月11日 (水)

漫画 『やまとものがたり』

おっさんホイホイで懐ゲーのOPメドレーを見てたら、『ロマンシア』が出た。
そういや都築和彦はどないしとるんやろと調べてみたらHPがある。
現役らしい。

HPは絵描きらしからぬ様相でなにやら懸かってる印象を得たが、公開されている絵に変わらぬものを感じとって新刊――といっても一年も前に刊行されたものだが――を読んでみることにした。
なかなか敷居の高い表紙だが、通販なら無問題。

あいかわらず、おっさん好きである。
『ザナドゥ』の頃と変わらず構成はアレだが、興味深く読んだ。
「大喪の主」とか。
そういえば、『IZUMO』なんて作品を書いていたなあ。

2011年5月 9日 (月)

読物 『ロードス島戦記』

今更だが完読していなかった。
読み返してみると五巻くらいまで読んだような気もするが、コンプティーク誌面の記憶と混ざっている気もして、よくわからない。

ランスの呪縛からはじまり、そこから逃れ、また捕らわれ、わやになって終わった。
呪わしきディードリットをはじめとして、この作品がとある日本の文化に与えた影響ははかりしれないが、物語としてはそんなカンジ。

完読したいと思ったきっかけは、ウッド・チャックのその後が気になったからで、シリーズが完結しても結局、すっきりとはしなかった。続くシリーズはなんだか評判が悪いのでどうしようかと思いつつも、きっと読んでしまうだろう。

2011年5月 8日 (日)

読物 『魔性』

ずっと気になっていたドラマがあった。

絞首刑にされる女囚。
遺骨を抱いて女囚の故郷を訪れる男。
その男の前に現れた馬上の老人。
老人は、幼女を同乗させている。

そんなシーンと、赤のイメージだけが記憶にあった。
随分と前に、「思いだせないドラマを尋ねるスレ」みたいなところで尋ねたときには回答は得られなかった。自分なりにいろいろ調べてみても分からず、つい先日、またぞろ気になって調べてみたところ、似たようなスレに回答を見出した。

木曜ゴールデンドラマ、『魔性』
1984年2月23日放映。主演、浅丘ルリ子。
原作、一色次郎『魔性』。

ドラマを再視聴する術はないと思え、原作を読んだ。
拘置所で刑の執行を待つ久乃眉子の心情と、なぜそのような境遇に陥っていったかを書き連ねていく様は巧みである。異常殺人事件があたりまえとなった昨今の創作事情はよく知らず、というのもそういうのを毛嫌いしているからなのだが、そういう性癖の持ち主をして、小さくよくまとまっていると感じさせた。
ひとつだけなじめなかったのは、場面転換の手法である。ひんぱんにあり、空行も、それを知らせる記述もないので混乱させられた。このようなやり方になにか意味はあるのだろうかととりあえずは受けいれてみたが、ハードカバーで紙面に余裕のある体裁であることを加味すると、物語がシナリオのレベルから抜けきっていないのではないかという印象に落ち着いた。
ドラマで見知った印象とは異なる結末、どうやらドラマは脚色が加えられたようだ。記憶通りなら、ドラマの方がインパクトが強い。
叶うなら、もう一度見てみたいものだ。

2011年5月 4日 (水)

読物 『原子力発電』

武谷説と「がまん量」

 原水爆実験に反対する全国民的な平和運動に科学的な武器をあたえたのは武谷三男であって、その主張は『原水爆実験』(岩波新書)に詳しく述べられている。
 晩発性、遺伝性障害の発見と比例説の出現とによって科学的な根拠を失った許容量をはなれて、放射線障害について新しい考え方を構築する必要に迫られていた。武谷は、この要求にまさに応える考え方を提出したのである。
 障害の程度を正確に科学的に推定することが不可能な場合、こと安全問題に関しては過大な評価であっても許せるが、過小な評価であることはあってはならない。この原則的な立場に立てば、「しきい値」の存在が科学的に証明されない限り、比例説を基礎において安全問題は考えなければならない。ちょうど具合のよい所に「しきい値」があって、それ以下は無害と都合よくいっている根拠は何もないからである。
 そうすると、有害、無害の境界線としての許容量の意味はなくなり、放射線はできるだけうけないようにするのが原則となる。そして、やむをえない理由がある時だけ、放射線の照射をがまんするということになる。どの程度の放射線量の被曝まで許すかは、その放射線をうけることが当人にどれくらい必要不可欠かできめる他にない。こうして、許容量とは安全を保障する自然科学的な概念ではなく、有意義さと有害さを比較して決まる社会科学的な概念であて、むしろ「がまん量」とでも呼ぶべきものである。
 武谷の考えは、いろいろの機会に日本の科学者によって主張された。やがて、アメリカの遺伝学者たちの中にも、集団に対して放射線被曝のリスク(危険性)とそのもたらすベネフィット(有益さ)をバランスさせて許容量を決めようという考えが次第にでてきて、今日では放射線の許容量については武谷の考え方が世界的に認められ、ICRPの国際勧告もそのように変わってきた。

P.70

 放射線の利・害のバランス

 それでは、放射線の最大許容量は、その発生する障害がたとえば交通事故死の何分の一になるようにと決めるべきものなのであろうか。それもおかしな話である。
 すでに述べたように、武谷は原水爆実験反対運動のなかで、許容量とは「がまん量」の意味で、放射線に期待する益を一方においたうえで、害をがまんできる限度として許容レベルが決まることを明らかにした。したがって、有害無益な放射線についてはがまんをする理由はないのであって、有害有益な放射線をどの辺までうけ入れるかという問題になるが、その判断を決める主体は放射線被曝をうける人々自身に他ならない。
 この理論はその後世界的にうけ入れられるようになったものの、多くの場合、障害の大きさ(リスク)とその個人における有益さ(ベネフィット)とを秤にかけてバランスを決めるその人は、障害をうける当事者の市民自身であるとする、肝心の点が忘れられている。そのために、バランス論がまげて用いられ、いろいろなエゴイズムがそれをかくれみのに利用している。
 社会全体が等しく利を分ちあい、害をともに背負うのであれば、利害のバランスの話はまだ簡単で明瞭である。ところが現実の日本の社会は、地域的な、あるいは階級的ないくつかのグループに分れていて、リスクをうける人々とベネフィットを手にする人々とが別々である場合が少なくない。私達が当面している原子力発電と放射線障害の場合もまさにそうである。

P.82

 どうしてこのような突然降ってわいたような大ブームが出現したか、森氏によると、もっとも常識的な解釈はアメリカの原発メーカーが量産によるコスト低下をねらって打って出ただセールス作戦であろうという。
 たしかにこの説を裏づけるいくつかの技術的なポイントがあるのだ。それは、火力発電の方はより高温・高圧のタービンを追う技術開発で推進されているのに対して、原子力発電では、発電炉から出てくる水の温度・圧力は一定していて変えていない。そして大型化は、実地試験によらずに計算機による模擬計算にほとんどの基礎をおいている。そのうえに、発電価格はアメリカ政府がその全権を握っている濃縮ウランの供給によって、ある程度はどうにでも左右できる。この最後の面からみると、この軽水炉の大売出しは単なるメーカーの作戦ではなくて、アメリカ政府そのものの打ったエネルギー戦略と見ることもできる。つまり、中東アラビアの原油地帯はだんだんに重みを失って、アメリカの濃縮ウラン工場が世界のエネルギーを左右する鍵をにぎるようになる日を待っていたのだ。

P.122

ラスムッセン報告

 実際の発電炉について、事故の発生から放射線障害にいたる一連の経過は、いくつかのサイコロを投げるより遙かに複雑な現象で、モデルを用いて簡単化を行わなければ、大型計算機を用いても計算できるものではない。そのうちで、災害評価のための環境条件、すなわち人口分布や気象条件については、アメリカにおける発電所の代表例をいくつかとって、そこにおける統計を利用すれば、ある程度までは数量化することができる。もっとも問題となるのは、発電炉にどのような事故がどれくらいの確率でおこるのか、またそのそれぞれのとき、死の灰はどのくらい発電炉を出て大気中に放出されるのかという問題である。そのために、ラスムッセン報告では、「イベント・ツリー」と「フォールト・ツリー」という方法をとっている。
 「イベント・ツリー(事件の樹)」とは、原子炉事故をどのような「サイコロ」でモデル化するかを求める方法である。たとえば、一次冷却水のパイプが破れたときであっても、その時に、電源、ECCS、スプレー、格納容器などがどうなっているか、どう作動するかによって事故の経過は異なってくる。そこで事故を一連の事件のつながりで表して、一つの原因からおこりうるあらゆる経過をもれなく拾い上げると同時に、何が事故の経過を左右するものであるかを明らかにしてそれを「サイコロ」とするわけである。
 図16には、ラスムッセン報告が分析したPWR型炉の冷却水パイプに大破断がおこった時のイベント・ツリーを書いてみた。破断ののち事故の経過を決定する主なサイコロは、この場合は六つで、それぞれのサイコロがイエスとでるかノーとでるかで、いろいろの場合に分れる。それぞれの場合について、どのような結末となるかをあわせて記してある。
 サイコロの時と違って、イベント・ツリーでは、それぞれのサイコロは独立であるとは限らない。たとえば、電力供給がノーであれば、それからあとの安全装置はみな働かないので、図のように道筋は一本になってしまう。このようにして、事件のすべての組合せをとる必要はないのである。

20110504_3

P.134

 人間のミス・機構のミス

 大事故の原因が、もとをたどってみると人間のつまらないミスにはじまっている場合が多いことは、一般に多くの経験がある。機械がうまくできているものほど、ミスが人的な要因に帰せられる場合が多い。だから日本の発電炉にはこれまでに述べてきたような炉そのものの欠陥による事故が絶えないのは、むしろ何よりも軽水型の炉が一人前の実用段階にまだ達していないことを雄弁に物語っている。
 玄海一号炉は、PWR型炉で一九七五年七月からの営業運転をめざして六月から試運転中であった。ところが、六月一〇日午前八時二〇分、復水器の排気筒のモニターが、放射能のレベルが高くなることを知らせる警報を出した。これは、先輩の美浜原子力発電所が何べんもおこした事故とまったく同じで、さては蒸気細管に穴があいたな、ということになった。それにしても試運転早々に、美浜のような細管の腐食が進むとも思えない。
 調査の結果、製造の工程で鋼鉄製の巻尺が炉内に置き忘れてあり、これが高速の一次冷却水で流され、折れた一部が蒸気発生器の細管にあたって傷をつけたものとわかった。もしも炉心の方に巻尺がとびこんだら、炉心は大きな破損をひきおこしたであろう。これは、手術のときに腹の中にハサミを置き忘れる事故のようなもので、まったく初歩的なミスである。
 ラスムッセン報告のフォールト・ツリーでは、このような初歩的なミスは勘定に入ってない。つまり、製作の工程管理、部品の品質管理が計画の通りに実行されていることが前提となっている。アメリカでは、ボタンが切れて中におち込むことさえ警戒して、作業衣が工夫されている。工程や品質の管理は、大量生産がお手のもののアメリカでは、それなりにきちんとしている。
 日本の原子力は他の産業と同じように、大企業は下請けに注文し、下請けはその下請けにもっていって、最後の現場は労働条件の劣悪な臨時工におしつけられるという伝統からぬけ出そうとはしていない。このような前近代的な体制で仕事をするのであるから、工程や出来上がりの合理的な管理がなじむはずはない。日本はまだ「合理化」という言葉が人間性を無視した労働強化という意味で用いられる風土なのである。
 これに似た話でいえば、制御棒の上下が逆になって入れられていた事件がある。島根原子力発電所は、一九七三年九月一九日、通産省の立ち入り検査が行われた際に、四本の制御棒が上下逆さになっていることが発見され、さらに翌日一六本が逆さになっているのが発見された。その後の検査でもさらにその数は増え、結局全体の三七パーセントにあたる三六本が逆さになっていることがわかった。島根の原子炉はBWR型であるが、同じBWR型炉の福島原子力発電所の二号炉でも、同じ年の一〇月、制御棒の二三パーセントに当る三二本の制御棒が逆さになっていることが発見された。これも工程管理のお粗末なことの一例である。この制御棒はアメリカから輸入したもので、アメリカにおける工程管理にも大きな欠陥があることを示している。
 安全審査が原子力委員会の責任であるのに、建設工事の検査、運転時の事故調査、定期検査のすべてが通産省の責任となっているのも日本独特のシステムであって、伝統あるお役所の縄ばり争いがここでも顔を出している。

P.156

我々はこの図(ラスムッセン報告の図)を知っている!
いや、電力供給がノーであれば、それからあとの安全装置はみな働かないという現象を見知っている!
恐るべき武装現象ッ!

『ちゃりの奇妙な冒険』 第二部冒頭

かつて、就職を考えたとき、原発ないしはIHIを検討したことがあった。振り返ってみれば身の程を知らぬ愚行である。原発は電力会社のものであるのに、「電力会社に就職」ではなく、「原発で働いてみたい」という動機であったことが青臭い。
検討は実現には至らず、その後、原発に対して特に思うところなく生きてきた。
原発に関する私見が露呈したのは、数年前、腐れ縁が実家をオール家電にしたと自慢げに語ったことに対し、電力会社のいいなり乙とコメントしたときのことだ。それまでなにも考えていなかったのに、原発に賛成しているわけじゃないんだなと思ったものである。

先日、手羽をくっつけたままのモモをカレー味に揚げて出す店で夕食をとっていたとき、店のなじみであるらしい、六十~七十才台の男性が、原発事故に対する自論を語っていた。曰く、
東電の責任追及ばかりが強調されるが、皆が賛成してきたことなのだから――云々。
そうか、俺は賛成してきたのか。知らなかった。

本書は1976年2月20日初版刊行。手もとにあるのは1980年6月25日刊行の第8刷である。
着手に至ったのはRSSを経由して目にしたいずこかの記事がきっかけで、鳥からの店で耳にした主張に触発されたからではないが、本書によって、原発導入に際してどのようなことがあったのか、その事情をおおまかに俯瞰することができた。
本書の「序にかえて」によれば、

 三月になると重大な二つの事件がおこった。まず二日、昭和二九年(一九五四年)度原子炉予算二億三〇〇〇万円が突如として改進党中曾根康弘氏を中心に提出され、直ちに衆議院を通過した。中曾根氏は茅氏に「学者がぐずぐずしているから、札束で頬をひっぱたくのだ」といったと伝えられた。何れにしてもアイク提案が直ちに効果を日本にあらわしたのであった。

という。
関係ないかもしれないが、わりと最近読んだ本には、米国の資本は、いろいろな姿で日本に注入されてきたことが記されていた。
真偽はさておき、生まれる前に決まってしまったことに対してどうこう言われてもなあと思いつつも、票はもってるし、利益は確かに受けてきたし、一定の負担には応じることを厭うつもりはないけれど、ねんしゅうにせんまんてなにそれおいしいの?というボクに求めるより先に、求める先があるんじゃないのかなあと思うのである。

全文引用したいくらいの内容だった。

2011年5月 3日 (火)

読物 『花物語』

「そうなんだよな。でもまあそれって、前向きに考えれば、幼女を好きになるのも熟女を好きになるのも同じことだと、行政が認めたってことだよな。ある意味逆に、ロリコンに人権が認められたと言っていいぞ」
「前向き過ぎて怖い」

P.221

現時点での刊行予定は残りみっつ。
『囮物語』『鬼物語』『恋物語』。

本巻でその先の展開が見えてしまったというか、見せられてしまったというか。
いつまで楽しめるか。
阿良々木暦のイメージがあ~るである限りは、楽しんでしまいそうな気がする。

2011年5月 1日 (日)

読物 『黄金の天馬』

「高島君、技の名前がないのは、頼りないねえ。言葉は神さんや。技に名をつけてやりなされ。そんなら、技はますます生きてくるで」
 王仁三郎にすすめられるが、隆之助は兎角の弟子である。師匠の許可なく名称をつけるわけにはいかない。

P.403

「石火の技とは、こういうものでしょうか。先生、その呼吸を私にお教え下さい」
 兎角は平然と答えた。
「呼吸は稽古で学ぶよりほかはなかろう。斬りこんでくる刀に対するに、柱や樹木を小楯にとって戦おうとするようなつもりでは、ほんとうの入身はできないのだ。進んでくる敵の心が小楯だよ。分かるか」
 隆之助はうなずいた。敵の心をすばやく読みとって対応するのが、最良の防御であるというのだ。

P.427

( ゚ Д゚) なカンジだった。
主人公・高島隆之助に対して、破天荒な明治の男と感ずればよいのか、DQNと感ずればよいのか、凡俗の身には計りかねたからである。そうと感じさせる表現から、著者自身もdisってる気がしてならない。
ともあれ、終盤にさしかかって安彦良和の漫画だと思えばよいと気づいて、平常心を取り戻した。

実在の人物をモデルにした物語である。
主人公、高島隆之助=植芝盛平、その師、内田兎角=武田惣角。
『鬼の冠』は武田惣角の物語らしい。

« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »

フォト
無料ブログはココログ

最近のトラックバック