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2010年10月

2010年10月29日 (金)

2010年10月24~27日

告別式から初七日まで。

なにもかもうまくいっていたのに。

諸行無常。

2010年10月26日 (火)

2010年10月23日(土)

午前中はまだ、生気が残っているように見えた。

支度のため、父を葬儀屋に預けた。
自宅での納棺を希望したが、なんにしても一度、そうする必要があるという。

支度を済ませて帰ってきた遺体には、生気はかけらも残っていなかった。

夕刻より通夜。

長らく不義理をしていた従兄が来てくれた。祖母の葬儀以来十年ぶりか。従兄は二十年近く前に父を亡くしている。思わず、スイッチが入った。

なにからなにまでフォローしてくれたおじは、通夜振る舞いの席での挨拶文も準備してくれた。
だが、それは使用せず、自らの言葉を使うことを選んだ。

通夜ぶるまいに参席してくださった会葬者にお礼を述べて回った。お悔やみの言葉、挨拶へのコメントなどをいただく。年配のご婦人からは必ず「母を支えろ」との言葉をいただいた。

葬祭場の控え室は宿泊可能である。宿泊者がいない場合は、遺体は霊安室に安置されるという。宿泊して、最後の時を過ごすことを希望した。

夜半。
長い、長い二日間だったと、このとき初めて思う。
今日はやけに、時の経つのが早い。通夜を迎えてからは特に、いつの間にか過ぎ去っていた。

かわは しにますか やまは しにますか

便利なようで不便な施設の風呂につかりながら、さだまさしの歌詞が脳裏に浮かぶ。

自分で稼ぐようになり、一人前になったつもりでいた。そうではなかったということを、はっきりと思い知った。
人が神仏を求めるのは、絶対なる父を心に必要とするからなのだろう。

2010年10月22日(金)

長い一日だった。

親族と相談し、葬儀屋と諸処を詰め、縁戚者に連絡を取り、旦那寺にお伺いを立てる。

父は仏事に熱心で、旦那寺の門徒会会長職やその他役職を引き受けていたが、息子はその限りではない。

無知たる身の上を恥じる暇もなく決定に次ぐ決定を迫られ、都度、親族に助けられ、ことごとを決した。

「結婚式には100点満点はあるが、葬儀にはない」

血縁者たる叔母の配偶者たるおじは、葬儀執行を幾度も取り仕切った経験を持つが、そのようなことを言って励ましてくれた。結婚式は案内状を出し、あらかじめ予定されたことをこなしていけるが、葬儀はなにからなにまで読めないからだという。

忙しいさなかに、時折、空白のときができる。
父を寝かせた仏間に赴く。スイッチが入る。

昨日まではなかったスイッチ。あるとは知らなかったスイッチ。

駆けつけた時、父はすでにこと切れていた。
救急隊の説明を聞きながら、父の姿を見下ろしていた。

なにも感じない。

ああ、俺は冷酷な人間なんだなと思った。

自宅で死去した場合は、いかなる場合でも警察の調査が入る。やってきた警察官に、そう、説明された。父との接触を断たれた長い長い調査の後、ようやく、父との面会を許可された。
このとき、スイッチは起動した。

父の顔を眺めながら、入りっぱなしのスイッチを切ることもできない。誰かが呼ぶ声を聞いて、電話のコール音を聞いて、我に返る。スイッチが切れる。

そんなことを繰り返しながら。

とにかく長い一日だった。

2010年10月24日 (日)

2010年10月21日(木)

父、急逝。
享年67歳。

2010年10月21日 (木)

ゲーム 『Android版ネクタリス』

少し前になんだか無性に遊びなおしたくなったがPC-Engineなど手元に残っているはずもなく、しらべてみるとバーチャルコンソール版があるらしいがWiiなど持っているはずもなく、そのためだけにWiiを手に入れようと思うこともなく、いたしかたなくGB版に手をだしてみたが、あまりの白黒さに辟易させられて、遊び気が燻ったままになっていた。

Android端末を手に入れてしばし、旅先でなんとか役に立てようとしてとりあえず操作の慣熟を目指したが覚束ず、そもそもの入手の要件となった旅先での緊急を要する電話連絡もなく、振り返ってみれば焦ることはなかったのだが、ガラパゴスの古生物が、進化のヒントを与えられたと考えることにしよう。

いろいろと便利だが、AndroidというよりはそれはGmailのもので、「モバイル便利!」という印象は、買おうと思っていた本の出版社を本屋で調べるとかその程度であり、PCが身近である環境ではイマイチ薄い。モバイル機器の利便性は、とかいなかでは体感しにくいのかもしれない。

ちょ~便利をわかりやすく体験するツールはないかとandronaviあたりをうろついていたら『ネクタリス』を見いだした。Androidで有料ソフトウェアを購入するのは初めてのことだが、迷わず購入。450円也。

以来数日、仕事の休憩時間、自宅でのCiv時間、読書時間を食いつぶして一通りクリアした。

操作性は、悪くはない。
例によって指先のナニで意図に反する操作をしがちだが、この手のSTGならシングルタップのXperiaでも十分なプレイアビリティを実現しているといえよう。

ゲーム性は、かつて見知った通り。
PC-Engine版で遊んだときはもっと手強い印象があったが、久々に遊んでみたら、なんかおバカになってる気がする。当時はZOCとか理解せずに遊んでいたような気がするので、そんなカンジなのかもしれない。

全16面くらいだったよなあと思っていたら、実際16面で一度エンディングを迎えたのだが、そりゃあもう、これ以上はないってくらい素っ気ないもので、こんなんだったかしらんと、トゥルーエンディングがあるに違いないと勝手に思い込んで、ひたすらのめっている。
エクストラステージって、Android版だけ?

Chart_2
Android Naviからダウンロード(有料です)

PS.
16ステージクリアすると、20ステージまで追加となる。
16ステージまでの評価をMax(大きな星)にすると?、21ステージが追加となる。

PS 2.
21ステージまでの評価をMaxにすると?、22ステージが追加となる。22で打ち止めか。

以下エクストラステージ一覧。
STAGE 17 ETERNY
STAGE 18 ALVISE
STAGE 19 PRIZM
STAGE 20 DERIBE
STAGE 21 EBCURC
STAGE 22 ULTIMU

2010年10月20日 (水)

読物 『オーッス!―「読み聞かせ」から「読あそび」へ』

四つの章からなる。

第一章では、著者がやっていること、その感触、肌触り、手応え、そういうものを語っている。そしてそれらに自らがいかに感応しているかを著している。その語り口調もあいまって大きく関心を引きつけられた。

第二章では、五味太郎という人物との対談で、著者も五味太郎という人物も未知とする我が身にとっては、第一章がダイナシとなる内容だった。

第三章では、著者のこれまでの道のりを、どうして「読み聞かせ」を始めるに至ったかを語っている。全国をバモスで経巡りながら、絵本の読み聞かせをやっていることを語っている。

第四章は、著者を知る人物らの寄せ書きである。知らない名前もあるが、ともあれ、著者が幅広い人脈を有していることがわかる。
その中に、著者に対する人物評があり、著者を構成する99%の要素によって著者は嫌われるだろうが、深くつきあえば、残り1%で強く惹かれるであろう、半端なつきあいはせぬ方が無難であろう、とある。

『天の瞳』という、別の作家による著作がある。本書の著者は、その主人公のモデルだという。
深くつきあうつもりがあるわけではないが、残念を処理するためには、読まねばなるまい。

2010年10月18日 (月)

ちゃり ON AIR

奈良にいた二年間のこと。
年上の同期に「君に喧嘩を売るような人はいないでしょ」といわれた。彼に対し、気の強いところは隠していなかったが、腕っ節を示したことはない。
また「くまさんや。くまやのうて、く・ま・さ・ん」こんなこともいわれた。人相風体ではなく、雰囲気だそうだ。ホントかどうかしらないが。

東京にいた頃のこと。
「あのレスラーみたいな奴だろう?」就職して数年、なにかの折、我が名が話題にあがったときに、他部署の役職者がそういっていたと聞いた。

体格のことである。

これだけ聞かされていたのに、不思議なものである。自分は小さい方だとずっと思っていたのだ。
喧嘩を売られないなんてことはないですよ、くまさんなんてとんでもない、おくびょうなしょうどうぶつです、レスラーですか、重量なら近いかもですね。
そんな風に考えていた。誰と、何と、比較していたのだろう。

横には広い。邪魔なくらいに広い。それには自覚があるが、縦に高くはない。低くはないが、高い方ではない。
これらが示すものは。大きくない。ということではないらしい。

地方局ではあるが、自らの姿が放映されたものを見た。見てしまったのだ。
なんだが図体のでかい奴がいた。数秒のことだが、それを確認するには十分な時間だった。
人生の曲がり角もだいぶ過ぎて、ようやくなんかわかったカンジだ。家電屋のカメラに写った自分の姿を、もっとよく見ておけばよかった。
あいかわらずTVを見ない生活、どころか、TVのない生活になってしまったので、録画した映像で確認したことは余談である。

 

先日、世界的規模の組織に属する、一つのセクターの二十五周年記念式典が開催された。
世界的規模とはいえ、身内のことである。地元TV局が取材に来るなどとは考えてもみなかった。そうとは知らず、同道院に所属する小学生男子が赤身ばかり食っているのでイカも喰えといったら素直に従ってくれたのだが、噛み切れず、噛みまくってびろびろに伸ばしているのを観察していたりしていた。
式典そのものは、総裁を迎え、盛況に終わった。
総裁の人となりは書物を通してしかしらなかったが、なんか戦っている人だという印象が残った。

2010年10月17日 (日)

読物 『秘伝 少林寺拳法』

光文社の「カッパ・ブックス」誕生のことば

 カッパは、日本の庶民が生んだフィクションであり、みずからの象徴である。
 カッパは、いかなる権威にもヘコたれない。非道の圧迫にも屈しない。なんのへのカッパと、自由自在に行動する。その何ものにもとらわれぬ明朗さ。その屈託のない闊達さ(原文では闊の字にさんずい有り)。
 裸一貫のカッパは、いっさいの虚飾をとりさって、真実を求めてやまない。たえず人びとの心に出没して、共に楽しみ、共に悲しみ、共に怒る。しかも、つねに生活の夢をえがいて、飽くことを知らない。カッパこそは、私たちの心の友である。
 この愛すべきカッパ精神を編集モットーとする、私たちの「カッパの本」Kappa Booksは、いつもスマートで、新鮮で、しかも廉価。あらゆる人のポケットにあって、読むものの心を洗い、生きる喜びを感じさせる――そういう本でありたい、と私たちは願ってやまないのである。

 

昭和38年8月1日初版発行。同25日12版発行。270円。
当時の物価について、ちょっとググるとジャストフィットな情報に出会った。
大学生の仕送りが毎月1万5千円。賃貸住宅において、畳一畳千円といわれたそうである。米一升180円、食パン一斤35円、コーヒー一杯40円、たぬきそば・きつねそば一杯35~40円、ラーメン一杯40~50円、にぎり寿司並一人前180~200円。
昭和42年頃の初任給は12万円という例があるそうな。

とすれば、安いといってさしつかえない金額であろう。

なぜ金額の話になるかといえば、絶版になって久しく、図書館にも置いていない、ましてや古本屋でも見かけたことは絶無であり、再販の見込みは全くない本書を読むために、オークションで1600円を要したからである。

とても読みたい本ではあったが、入手に要する概ね2000円を目安にしていた。送料込みでだいたい目安どおりになる。

内容はといえば、あちこちで散見できる情報で補完できるもので、これはという目新しいことはない。現在は表示されていない拳の握りかたなど、幾つか原典があきらかになったものもあり、また、第三者を介さず一次情報に触れることで、アレやコレやのことに納得がいった。
総合的にお得であったといえよう。

とりあえず、刃牙の拳の握りは開祖式ということになる。余談ではあるが、個人的に、この握りをする方に巡り会ったことはない。

2010年10月15日 (金)

読物 『疵―花形敬とその時代』

 敗戦の直前に入学した七期生の恩地日出夫(東宝映画監督)は、千歳ペンクラブの機関誌『きろく』第五号(昭和二十五年十二月二十二日発行)に、「疑問符」と題して、次のような一文を寄せている。
<アヴァン・ゲールの世代は、規制の社会秩序から割り出して、アプレ・ゲールの世代が自らの秩序(これは一つの社会秩序として確立されたものと見ることはできないが、ある一つのぼんやりとした、少なくともアプレ・ゲールの世代の間にのみ通用する概念としてはたしかに存在している)に従って行動するのに対して、それを常人の行動として理解できず、結局、”いまの若いものの気持はわからん。まったく乱れた世の中になったものだ”という言葉に要約してしまうのである。
 その結果が、このごろ天野文相あたりから持ち出されている、修身科の復活、教育勅語の代用品というような問題となってあらわれてきているのであろう。だが、これは、あまりにも大人の一人合点に過ぎはしないか。我々の世代から見るとき、実に笑止千万なのである。このことは、我々の世代を生み出した教育を振り返って見るとき、容易に理解されるに違いない。
 我々の世代といえども、アヴァンの人々と同じ人間であり、決して特殊な存在ではない。ただ異なっているのは、その世代を生み出した社会なのである。
 そして、それは、我々がよき社会人として完成されるべく受けた教育が、あの戦時中の”かくあるべし”、”かくあるべからず”式の天降り教育であり、それが八月十五日を期して、いちどきに逆転してしまったという事実によって裏付けられるであろう。
 比喩的にいえば、昨日までミソ汁とタクワンを唯一の食物であるとして、我々に食べることをしいていた教師というコックが、八月十五日からは一転して、昨日までのミソ汁には毒が入っていたから、今日からはこのデモクラシーという西洋料理を食べなさい、といって、食卓にそれを出してきたようなものである。
 これは教育の背景となる思想が、軍国主義からデモクラシーへと変っただけで、いぜんとして、天降り式の”かくあるべし”、”かくあるべからず”の教育の再現に他ならない。昨日まで毒物をくわされて来たわれわれには、とてもコックの言を信用する気にはなれないのである。
 生まれ落ちてから十数年間、心の中につくり上げられて来た価値基準が、すべていとも簡単に崩されてしまったいま、我々の世代の拠りどころとして求められるのは、現在という瞬間と、おのれの生命と肉体、それだけしかない。
 自己の知性と感性、そして肉体のすべてによって、つかみとって行く以外には、我々の”かくある”を認識するための方法は見出し得ないのである>
 敗戦から五年四ヶ月を経て、十七歳の少年によって書かれたこの文章は、いささかの気負いの中に、アプレと呼ばれた世代が教師、ひいては国家社会に対して抱く不信感を、強くにじませている。

P.61

 花形は暴力の世界に身を置いてからも、ステゴロ(素手による喧嘩)をかたくななまでに守り、喧嘩に刃物を用いたためしはただの一度もなかった。その彼が例外的に生身を切り裂いたのは、自身に対してであった。
 人はそれぞれに生まれつきの基本的な性格を与えられている。これをたとえれば、一人一人が自分の内側に、めいめいの動物を飼っているようなものであろう。ある者は勤勉なリスを、またある者は狡猾な狐を、別のある者は臆病な羊を――。
 その動物を飼い慣らしていくのが、人間にとっての成長ということになるのであろう。
 花形が内側に飼っていたのは一頭の虎であった。そして、その虎は、戦時中という時代環境の中で、年ごとに猛々しさを増していく。
「強く、強く、という時代だったから――」
 息子を失った美以の嘆きは、強くあれ、と教えた時代に向けられるのである。
 それでも戦時中には、国家が設定した方向しか許さない拘束力が、社会全体をしばり上げていた。ところが、敗戦でその枠組みが壊れ、人びとは一斉に解き放たれた。そのとき、飼い慣らされるべき時期を迎えていた花形の内なる虎は、彼ごと野に放たれたのである。
 人はだれも思春期に、前触れもなく内側から突き上げてくる衝動を抑えかねた経験を持つ。そこで思うのだが、われとわが顔面を切り裂いた花形の刃は、いつの間にか強大に育ち上がり、暴力を指向して猛り狂う、内なる虎に向けられていたのではなかったか――。

P.77

 墨を塗られて虫食い状態になった教科書は、「戦後」を象徴するかのようである。そこでは、過去が否定されただけで、新しい指導理念はまったく展望されていなかった。
 本村孝昭は、昭和二十一年一月八日付を以て退職、のちに文化服装学院の舎監におさまった。
 一期生の平岩政昭(前出)はいう。
「本伝さんから教わったので、忘れられない西郷南州の言葉があるんだ。他に図らずして決すべきこと三つあり。一つ、わが生命を絶つとき、一つ、わが職を辞するとき、一つ、わが妻を切るとき。
 三つ目は、ちょっとうろおぼえなんだが、ぼくたちは十五、六歳のころ、朝な夕なにそれをいわれていた。ちょっといい言葉だろう。
 本伝さんはその言葉に従って、自ら職を辞したのだろうけれど、洋裁学校の舎監なんかにおさまって、千歳の同窓会に顔出したりしていた。それはないと思うんだ。少なくとも、彼の口車に乗って、戦争で死んだ生徒がいるんだから」

P.124

 男ばかり三人兄弟の家庭に育ち、小学校では四年から男女別々のクラスに分けられ、当時としては当たり前の話だが男ばかりの中学校へ進んだ私にとって、貴賤、美醜を問わず、女学生というだけで高嶺の花であった。私たちの世代に少なくないセーラー服願望は、思春期あたりにあまりにも異性から隔離されすぎていたところに根があるように思う。

P.146

 これまで都内の盛り場の「戦後」について断片的に書かれたものは数多くあるが、渉猟した資料の豊富さもさることながら、あの時代を見据える視点の確かさにおいて群を抜いていたのが、「東京焼け跡ヤミ市を記録する会」により『創』の五十二年一月号から十二月号にかけて連載された「東京闇市興亡史」(以下『興亡史』と略)である。
 (中略)
 「興亡史」は、見渡す限りの瓦礫と廃墟のなかで最初に露店を再開した関東尾津組の新聞広告を紹介している。
<転換工場並びに企業家に急告! 平和産業への転換は勿論、その出来上り製品は当方自発の”適正価格”で大量引受けに応ず、希望者は見本及び工場原価見積書を持参至急来訪あれ 淀橋区画筈一の八五四(瓜生邸跡) 新宿マーケット 関東尾津組>
 この広告は、なんと、終戦から三日後の昭和二十年八月十八日に、都内で発行されている主要紙に掲載されたものであるという。起こした行動の素早さに驚かされる。当時の新聞は、一般広告はゼロに近かったため、関東尾津組の広告はひときわ目立った。

P.164

 『渋谷道玄坂』(弥生書房)などの著書があり、戦前の町並を店名の一つ一つに至るまでそらんじている藤田佳世は、それこそ渋谷の生き字引である。

P.172

 (藤田佳世の)店とは目と鼻の先の渋谷東宝の内部は、焼けたままのがらん洞で、顔のむくんだ浮浪者の溜まり場になっていた。秋も深くなると、その前で焚き火が始まり、いぶる生木に顔をそむけるアイシャドウのきつい街娼たちの姿が、芥川龍之介の「羅生門」に描かれている光景を思い出させるのであった。
 渋谷がまだそういう状態にあったとき、中国人、台湾人、朝鮮人のいわゆる第三国人が駅前の焼野原のかなりの部分を占拠して、米などの食料品やゴム製品など、禁制品を堂々と商って、日本人の露天商を上回る利益を上げていた。彼らには警察力が及ばず、かえって渋谷署の署長や特高主任を呼び出し、先勝国民としての権利を主張して十数時間にわたって監禁するという事件を起こした。

P.175

 二月二日、石川は看守に「盗汗で濡れた蒲団を干したい」と願い出て、屋上に付き添われて上がったとたん、駆け出して行ってフェンス越しに身を躍らせた。彼の三十一年の生涯は十五メートル下のコンクリートに叩きつけられて終わった。独房に残されていた遺書の最後は「大笑い三十余年のバカ騒ぎ」の句で結んであった。
 それより、石川が二十九年七月三十日の日付で色紙に書いた次の文句の方が、ヤクザのはかなさを読む人に訴えかける。
 寂寥なるかな天涯の孤客
 誰れと共にか事実を語らんや
 誰れにか告げん仁侠の道
 男子我れは義のみに生きん

 石川力夫という見知らぬ人物の描いた軌跡をはしょりながらたどってみて、あわれな生涯にいくばくか同情するが、彼に心惹かれるものは何一つない。
 私の狭い範囲の経験では、仁侠道というものがどうにも信じられないのだが、いちおうこの世の中に一つの徳目としてあるとしよう。あるとして、東映のヤクザ映画に出てくる正義の側の侠客の場合のように、実在するだれかによって具現されているのかどうか。寡聞にして、「いいヤクザ」というのを知らない。
 その昔、稼業人であった一人にいわせると、利害関係により力関係に応じ、はたまたそのときどきの情況を判断して、「いいヤクザ」にも「悪いヤクザ」にもなるのがヤクザなのだという。

P.215

 彼らが出て来てタクシーに乗り込むのを見届けて、田中と古田は別のタクシーでその後をつけた。神宮外苑の暗がりにさしかかったところで前を行くタクシーを追い越して停車させ、兄弟を引きずり下ろすと、田中はシー坊の腹部を上に向けた出刃包丁の切っ先で、ヘソの下から胃の上あたりまで一気に斬り上げた。
「人間というのは必死になると凄い。速いのなんのって。おれ、かけっこじゃ負けない方だけど、シー坊の野郎、追いつかせないで交番に飛び込んだ」
 と田中は、自分のしたことより、怪我させた相手が懸命に逃げるさまを、さも意味のある発見であるかのように話す。

P.272

「われわれクラスで花形さんに殴られなかった人間は一人もいない。しかし、二度殴られたれたのも、一人もいないはずです。おれだけが一度も殴られなかった。初めから絶対服従でしたから」

P.276

 安藤は次のように述懐する。
「ハジキで撃たれたんだから、ふつうだったら病院のベッドから動けないでしょう。それを花形は、夜っぴて相手を探し歩いて、酒くらって、女を抱いた。ほんとにたまんないよ。化け物だね。あれは。
 おれがいくら訊いても、なんにもいわない。そのうち、やつのズボンの裾から撃たれた弾がぽろっと落ちてきた。考えられないでしょう。おれもいまだにわけがわからない。どういうあんばいになっていたのかね」

P.281

 しかし、組長を初め、幹部の目星いあたりをあらかた引っ張られた安藤組は、にわかに弱体化して、それまで彼らの天下であった渋谷に一種の空白状態が生じた。逼塞していた地元勢のうち、相対的に力においてまさる武田組が、ここを先途と失地回復に乗り出し、同時に、よその土地に根を張る暴力団のいくつかが、渋谷への勢力拡大を狙って、じわじわと浸透を始める。
 前掲の記事は、そうした渋谷における暴力地図の急激な変化に着目したもので、時宜を得てはいるのだが、このシマをうかがう外部勢力として名を挙げられた団体は、実際の姿にそぐわない。その最たるものは稲川一家で、これに次ぐのが町井一家であった。

P.316

 焼け跡は、腕一本の世界であった。だが、そこにビルが立ち並んだとき、暴力団の世界も力学がかわっていたのである。
 稲川一家は、世界の黒幕、児玉誉士夫と結びついていらい、急速に力をつけたとされている。東声会と名称を改める町井一家も、これにならい、やがて、日韓の裏側の橋渡しへと進む。
 政界の暗黒部分と結ぶか、あるいは財界のはらわたにくらいつくか――遅ればせながら安藤組が組織の拡大のために考えた筋道は、それであった。つまりは、愚連隊からの脱皮であり、本格的ヤクザへの転身である。
 しかし、「経営マインド」を決定的に欠いた花形は、そうした方向につゆ関心を示さず、あくまでも素手一本の喧嘩に男の誇りを貫こうとした。

P.324

花形敬。
この名を知ったのは、幕末から昭和という漠然とした時代に対する興味と、格闘技に対する興味と、いずれかの嗜好を満たすためにWebを徘徊している時のことだった。
板垣恵介の作品に登場する、花山薫のモデルだという。

本作品のタイトルが示すように、花形敬と、その生きた時代が主題となるが、後者の比重が高い。花形敬という人物には、引用した例のように、同時代の稼業人が語るものすごい逸話があり、生きていたら暴力地図は書き換わっていただろうというような伝説がある。だがしかし、それらは、同じ時代を生きて、彼の地に行くことがなかった人々――本書中には、花形と同期であったりというような人々、社会的成功者として知られる人々のインタビューが掲載されている――と、行ってしまった人々との対照、不明瞭で歪んだ一線の彼我を対照するために引用されているという印象が強い。

先に読んだ『東京アンダーワールド』とクロスオーバーするが、華やかなイメージのあった同書と、暗く、裏ぶれた印象を抱かされた本書とは表裏をなしているようである。
許永中 日本の闇を背負い続けた男』にも登場する名があることを見れば、民族史的「戦後」は、国際社会史的「戦後」よりも長く続いたということになろう。

本書中で引用された「東京闇市興亡史」、『渋谷道玄坂』(弥生書房)、平岡正明『闇市水滸伝』(第三文明社)など興味をひかれた文書があるが、いずれも絶版で、地元の図書館にもおいていないのであった。

2010年10月12日 (火)

OB会@那須塩原

かれこれ15年続いている、大学時代に所属していたサークルのOB会。
15年目にして幹事を仰せつかり、那須塩原の山奥にある『元泉館』で集うこととなった。個人的には石垣島にそそられたのだが、処々の事情を考慮して本州に設定したことはさておき。

山奥である。ほっそい道をうねうねと行く。
Docomo以外通信途絶という環境は、ある意味社会人のオフにふさわしい環境かもしれない。
料金の安い別館は、居室はあまり上等ではなかったが、都合三つある風呂はなかなか好評であった。宿そのものというより料理と立地で選択したので、居室の出来は個人的には無問題である。そういえば、去年の宿は居室がよかった。
料理にはオプションで猪鍋と鴨陶板焼を追加した。「我が身」はさほど食う方ではないが、「我ら」は欠食児童集団であり、これまでに幾度か食糧問題が浮上している。これを満たす物量を投入したわけだが、猪鍋はさすがに余った。

二日目。
あいにくの雨模様だったが、晴れ間を見つけて観光を試みるも、ものすげー渋滞で、殺生石・ロープウェイを断念せざるを得ず。その背景としては、こんな事情もある。
紅葉シーズンの混雑対策のため、近隣の駐車場からロープウェイ乗り場までの乗合バスを試行していたが、これがなっちょらん運用で、仲間内から猛烈なブーイング。幹事としては汗顔の極みである。
しかたなく、駐車した頂上付近のパーキングから徒歩で吊橋まで赴いて、お茶を濁した。

ランチはに、前にも利用した「五峰館」を推した。
ちょうど昼に到着したのだが、めちゃめちゃ混んでいて、レストランに入るまでにしばし待たされたが、ほどなく通される。予約ができるので、次回はそうしよう。
ランチよりもチーズケーキが好評だった。

宿への帰路、源氏の落人が隠れ住んだという「厳三窟」を観光。六十四段の階段があり、これにヒーコラいう奴が一名。吊橋のときすでに限界を突破していたようだが、二十年近い付き合いからネタだと受け止められていたようだ。どうやらマジらしいとわかって、他のメンバーから「やばいんでねえの」と彼の老朽化を揶揄する声が上がる。みんないい年だが、そこまで年じゃねえだろと、半ばは自らを省みる心地であろうか。
個人的には体力にも何種類かあるようだと自覚した昨今、自らを省みれば、瞬発力とか持久力とかがまず落ちて、最近きたのは回復力である。筋力は向上しているが、やたらと汗をかくようになっている。

三日目。
千本松牧場。ランチまでの一寸した間をサイクリングやアーチェリーで潰し、前日から要望のあったステーキを食す。
老朽化の彼は、11本の矢の半分を消費したところで音を上げ、11本目は腕がぷるぷる震えていた。超ウける。

ステーキを食し、散会。
幾人かは年に幾度か会う機会があるが、15年も経てば一時に集まることは年に一度あればいいほうで、得難い機会である。
大学時代の縁は一生続くというが、個人的にはこれに是といおう。

2010年10月 5日 (火)

読物 『ボディーバランス・コミュニケーション』

読了まで、入手から半年かかったことになる。

ボディーバランス・コミュニケーション、Body Balance Comunication、BBC。
監修は、少林寺拳法師家。
趣旨は明白、目の当たりにすると受けた側が照れるようなもので、わからないということはない。だが、個人的にはにわかには受け入れがたいものだ。おそらくこれは、運動は得意ではないが大の苦手ではない、そこそこ身体がいうことをきく年齢である、という自らの身上からくるものだろう。
つまり、本書で訴えるようなことを新たに唱えずとも、既存の格闘技法「少林寺拳法」をやればいいではないか、と思ってしまったということである。

これまで武専などでそれっぽいものに触れる機会はあった。初めて触れたのは三年前だろうか、当時はまだBBCという名をまだ知らず、なるほど、修めてゆくと、こんなふうに熟成していくのだなと無邪気に思ったものだ。

さて、読み始めは無心で、やや進んで「なんだこりゃ」となった。どこをどう読んだか、「監修」が効いているのか、ものすごいネガティブな印象を得て、読み進められなくなった。
以来、ちまちまと読み進めて半年が過ぎる。
半ばほどを過ぎたある日、投げやりに斜め読みしていると、ふと印象が裏返った。

半年の間に、なにか我が身が得たものがあったのだろうか。後半パートに、なにか響くものがあったということだろうか。
その後、BBCを本部で体験した先生に教えをいただく機会があり、以後、文章の受け入れがたいところは未だに残るものの、どちらかというと肯定的に内容を受け止められるようになる。
読了して、ネガティブな印象はまだ残るものの、いずれ再読を期さねばならない書となった。

準拳士となり、少拳士となって、組織が変革を模索していることが察せられるようになった。
BBCもしくはそのベースとなったものはその一環で、層を広げようという強い意志のあらわれと受け止められる。本書着手時点では「従来の格闘技としての少林寺拳法と乖離するものである」と思ったものだが、これは個人的な無知が故のことであり、現在では発展的なものであるという印象に変じている。

剛法よりは柔法を好んできたが、おそまきながら剛柔一体を実感して、それは変わりつつある。格闘技的技法について語った書ではないが、格闘技的技法についてインスピレーションを得られる可能性のある書である。

この本のアカンところは、命名がなっとらんことにつきる。
その辺を斜め読みする塩梅で、可能性を追求される方にオススメの一冊といえよう。

土鍋で炊飯

結論からいうと、ものすごい幸せを感じてしまった。
そういうことなのである。

我が独居には電子炊飯ジャーはない。
というか、食器もまともにない。小どんぶり一つ、皿一枚、スプーンとフォークと箸がそれぞれ一つ。湯のみが一つ、マグが一つ、グラスが一つ。箸だけが高級品で、母がくれた漆塗箸で2k級。
食生活が未設計だったため、実家から最小限の持ち出しとした。

独居開始から一ヶ月のあいだに必要に応じて揃えた調理器具は、手鍋が一つ、おたまが一つ、包丁、まな板が一組。調味料は、塩、砂糖、胡椒、コンソメ、味噌、こんぶだし。どうでもいいが、砂糖は使っていない。
作った料理はスープとうどんのみ。
日々、白米を食していないわけではないが、ある日、唐突に、飯を炊きたくなった。

炊飯器を買うか?

そういえば、近頃、土鍋で飯を炊くとうまいという話を聞いた。

そうだ、土鍋にしよう。

普段はDIY店で食器などを買うのにためらいはないが、土鍋となると、陶器を専門に扱う店がいいのではないかなどという思いがもたげたりする。ミーハーだ。

とりあえず最寄りのDIY店で物色することにする。
そこで、炊飯用の土鍋を見つけてしまった。見つけてしまったのだ。

土鍋は汎用性の高い道具だ。
が、炊飯用はどうだろう。

若干の迷いはあったものの、他と比較しているうちに初心を思い出し、炊飯専用でよしとする。逆も真なり、やろうと思えば転用は可能だ。

帰宅後、早速試す。
米を研いで30分水に浸す。計量カップもこの機に手に入れたが、無洗米とそうでないものは扱いが若干異なるらしい。
一合は10分程度中火にかける。10分待たずとも沸騰したら火を止めよというが、よくわからない。おそるおそる10分待ち、火を止める。15分蒸らす。

Civ4BtSをやりながら待つ。
隣国のワシントン国を蹂躙し、オラニエ公国を滅ぼし、今はラグネルと遊んでいる。余談だが、皇子レベル。

その昔、梅雨時に一週間部屋を開けた男がいた。なにやら夜間就寝中、「××ちゃんがしんだの~」とかケタケタ笑う女の声を耳元で聞いて、方替えに友人宅を転々としていた。
耳元に聞いた声が幻聴か別のナニかはともかく、呪いは確かにあった。炊飯器にセットしたままのコメが菌色に染まっていたというのである。

そんなカンジで、びびりながら蓋を開けてみる。
うまそうなにおい。お焦げの香りもする。

焦げといえば、電子炊飯器が生成する、水垢のような茶色っぽいぬるぬるはそれであると、幼少時に教えられた。釜の飯を経験した世代である父母もまた、それを説明するのに難を極めたことだろう。おそらくは何も考えずに「焦げ」であると説明したに違いないが、つまり「ご飯の焦げとは食う気にならないシロモノ」であると刷り込まれたわけだ。

その後、飯盒炊爨を実体験するまで、この情報は更新されなかった。「お焦げ」とは魅惑的な味わいのあるものであることを知らなかったのである。もっとも、初めての飯盒炊爨は焦げまくりで、いささかできすぎではあったのだが、それでも焦げの印象は改まった。

軽く焦げのついた一合の白米に、職場でもらった「食べるラー油型新商品」(生姜系)と、肉入りの汁を具す。
いろいろとある日本国だが、このときばかりは、日本人に生まれてよかったと思うのだ。
卵とか納豆とか買ってこよう。

2010年10月 4日 (月)

Xperia, 3rd Step:Wifi接続

そういえば、家庭内Wi-Fi接続を実現したのだった。

無線装置というとまいくろそふとのきーぼーどとかまうすとかに因縁がある以外、個人的環境内では無縁のもので、装置の入手から検討を開始せねばならなかった。
ナニを選べばよくわからないというところからはじまり、これでいけそうだという確信というか決心を得るまでにほどほどの時間を費やす。使えるといわれていたり使えないといわれていたり、よくわからんのである。
同装置で接続できないという報告もあるようだが、非常に安価な装置なので、試してみる気になれたというところ。

選んだ装置は『PLANEX 手のひらサイズ 300Mbps ハイパワー無線LANルータ/アクセスポイント/コンバータ FFP-PKR01』、設定にとまどったのは、家電屋のdocomo販売員が好意でくれた初期設定資料(※1)のコピー印字が薄かったためかもしれない。

同装置の設定資料に基づいてルータにつなぎ、PCからごにょごにょし、Xperiaから「設定」「ワイヤレス設定」「Wi-Fi」にチェック、「Wi-Fi設定」で「Wi-Fiネットワーク」から機器を選択すればよい。同装置の資料にはiPhoneの方法のみで、Xperiaの設定資料は含まれておらず、iPhoneで行うべきステップは不要で、同ステップは(※1)を行えばよいっぽい。

これはXperiaの問題だが、3GでつながっているのかWi-Fiでつながっているのかイマイチよくわからんのが難。

知らなかったのだが職場にもワイヤレス環境があり、上記設定ののち、自動でつながっていたらしいことがわかったことは余談である。

2010年10月 3日 (日)

参鶏湯を食す

鳥のレシピを探していたら、参鶏湯というものに巡り会った。一年くらい前のことだろうか。
ふむ、と読み進めるが、ちょっと気合いをいれないといかん類のレシピであり、自作は断念した。

知ってしばらく経った頃、わりと近辺に食べさせる店を見出した。参鶏湯がウリらしい。でかでかと看板に書いてある。
近いうちに挑戦しようと思えど、なんとなくタイミングを逸し続け、先日、ついに果たしてきた。

2600円という単価は一人前とは思えない。一人で完食できるものかと問えば、是という。
ならば食べねばなるまい。

薬膳らしい。
高麗人参、銀杏、干しナツメ、栗、松の実が入っていたように思う。それに、わたをぬいて餅米をつめた鶏。骨つき。軟骨がうめぇんだよ、軟骨がぁ。

鶏が大好きならば一人で食べきれるだろうが、そうでもないなら2~3人で分けた方が無難であろう。スパイシーな味付けで、土用の鰻と同じように夏に食べてもいいらしいが、夏に食べなくて正解といわざるを得ない。
鶏が大好きなので問題なく食べきった。食べた直後は二度目はないかなwとか思ったが、また食べたいと思わなくもない。

2010年10月 1日 (金)

Xperia, 2nd Step

GMailの連携を体感していたら、まるで興味のなかったEvernoteを試してみる気になった。
某SNSをメモがわりにしていた古生物は、ぎじゅつのかくしんに驚くばかりである。

しこしこと情報をあさっては、ちまちまとアプリをインストールしていたが、Home++ MenuでLooksを一新、使い勝手が向上したところで落ち着いた。
さてどうするかというところで、開発環境を作ってみることにした。情報は出そろっていて、ちょっと四苦八苦すればさほどのこともなく作成できる。開発言語はJava、開発環境はEclipseを推奨しているようだ。デバッグはエミュレータ実機でできる。モバイルのエミュレータを使うのは15年ぶりか。

開発環境は32/64bit Windows 7で作成した。とりあえず実機でHelloworldまで行った。
特になにを作ろうというアイデアはないが、WifiのRoot化がどうとかいう記事を目にすれば、かつて断念した「TCGっぽいものをネットワーク対戦可能にして再現する」的なモノに再挑戦してもよいかなとか思ったり思わなかったり。
スペックがよいので、適当につくっても動きそうではあるが、さて。

なお、AH-K3001Vから電話帳移行が未済であることは余談である。

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