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2010年9月

2010年9月29日 (水)

Xperia, 1st Impression

◎ガラパゴスの原始的生命体である。
 ○QRコードを経験していない
 ○赤外線/無線機能を経験していない

◎スマートフォン初体験
 ○HYBRID W-ZERO3に乗り換えそこねた

以上のような生物が記したものであることを断りおく。

①タッチパネル
 ・操作に慣れがいることを実感した
 ・我が指の太さを痛感した

②初期設定
 購入した家電量販店でコピーの資料を手渡されていた。
 それに従って設定を開始したが、moperaUメールの設定にとまどう。
 ユーザIDを初期値から変更してしまったり、初回はパスワードが表示されているというが表示されていなかったりと、よくわからんことがあったり、よくわからんことをしてしまったりしたが、そのうちできた。
 Gmailの設定は簡単だった。

新しく買ったおもちゃに対するよりも再燃したCiv4熱が高く、Xperia:Civ4=1時間:2時間を消費して購入初日を終えた。
移動時間も含めて、購入のために、およそ3時間を消費していたことは余談である。

③ツールを探し始める
 前日のアレコレで我が身がいかに下等な生命体であるかを思い知り、我が身より高等な生命体の善意と、文明の利器に頼ることにする。

 ○simeji
  デフォルトでは文字入力がしにくい!
  繊細なタッチを困難とする指のナニさが主な原因であろうか。
  不慣れなためと信じたいところだが、とりあえず、使いにくい。
  フリック入力とやらも初体験な原始生命な我が身だが、これはよい。とてもよい。

 ○QRコードスキャナー
  Androidアプリ紹介サイトでQRコードが表示されていたので、使ってみることにした。
  ちょ~便利。

 ○QR我風
  そーいやdocomoとかは、赤外線とかナントカで電話番号やらメールアドレスやらを交換するのが流法であるらしい。
  調べてみると、Xperiaに赤外線機能はなく、世間一般的にBluetoothではイマイチ手間だそうで、QRコードを晒すのがよいとかなんとか。
  まだ交換に使ってないけど便利そう。

 ○Bump
  異なるプラットフォーム間でも機能するらしい、連絡先交換ツールだとか。
  乾杯の動作(モバイル端末を触れさせあう)で情報交換できるらしい。まだ使ってないけど!
  GPS機能を有効にしないと使えないというのがちょっと怪しげ。

盛り上がってまいりました。

田舎に引っ込んでから、ノートPC、携帯電話、携帯ゲーム機器などモバイル端末にはこれっぽちも興味がわかなくなっていた。PSPも、iPhoneやiPadにも興味がなかった。望んで買ったPS2ですらまともに稼働しなかったのに、これらを積極的に使用するとは思えなかった。電子書籍は専用機器が必要という時点でニーズと異なり、これもまだいいやというカンジだった。

Xperiaを選択した理由は消去法で、やらかしていただいた因縁を持つSBには関わりたくないという一事に尽きる。iPhoneやDesireを選択しなかった理由はキャリアにある。

経営母体が敵になったウィルコムを切る必要がありそうだ、住居の電波状況が悪いという、わりと差し迫った理由がなければ、化石的ガラケーを使い続けたかもしれない。だが、結果的にXperiaは、DataScope以来の衝撃をもたらしてくれたといえよう。
未だ鞭毛が生えた程度の原子生命体だが、とりあえず無線LANルーターを買い、さらなる進化を目指してみる。

それにしてもdocomoの契約形態はよくわからんのである。
販売員もよくわかっていないようだった。

2010年9月28日 (火)

読物 『軍靴の響き』

数え上げれば、なんで読んでこなかったのかという作家は少なくない。

読書にもルートがあるということになろう。小説に目覚めた中二の冬、それは菊池秀行ではじまり、高千穂遥をかじって平井和正へと進んだ。中学では小説の趣味をもつ友人はなく、高校に進んで、栗本薫や新井素子、渡辺由自、清水義範や今野敏を紹介された。他にもあるかもしれないが、覚えているのはそんなところだ。
気に入ったものもあればそうでないものもある。気に入らなかったものを紹介してくれた友人の読むものは、趣味が合わないと忌避したに違いない。

おそらく、そんな理由で半村良を読む機会に恵まれなかった。星新一もそうだ。
読んでみれば、我が身が乗った流れを支流とするなら、本流の一つと思える。

『軍靴の響き』という言葉を、どのようにして耳にしたのか。
文学的修辞としてか、本書のタイトルとしてか、さだかではない。

本書は、架空戦記にカテゴライズされるのだろうか。
ODAや銀行に関するアレコレの読後では、本書のどのへんまでが架空で、どのあたりが現実なのか、気になるところである。

SATAケーブルはトラブルの要因になりうるか

最近、PCの調子が悪い。

まず、引っ越しでPCを移設したところ起動しなかった。

コンセントの問題かと差し口を換えた。NG。
嘆息して構成要素をひとつひとつ試すことにする。手始めにBDドライブを外した。起動した。

SATAケーブルをMB側の他の口に挿してみる。起動したがBDドライブが認識しない。元の口に戻す。起動しなくなる。
先の手順を踏んでもNG。

この時点でBDドライブの不具合が原因かと考えた。BTO品なので、ショップに問い合わせる。保証に入っているので、故障ならば交換は可能であるという。
もうちょっとあがいてみることにして、SATAケーブルを交換してみた。起動した。

今度はHDDダイレクトリムーバブルケースに接続したHDDが認識しなくなった。
なにが!?

SATAケーブルを交換してみるつもりだが、これまでに枝葉となる機器のケーブル接続不良でPCが起動しない事態に遭遇したことはなく、どういうことなのかさっぱりわからない。

2010年9月27日 (月)

映画 『SPIRIT』

しばらく映画ではない気分が続いていて、ようやく観た劇場版『東のエデン』をしてもその気分は改まらず。

「実在した中国武術家の物語であるようだ」
「近代中国が舞台であるようだ(欧米人が中国に租界をおいていた)」
「日本の武術家と対決する」

その気なっしんな低調なメンタルがもちあげられたのはそんなトピックを聞かされたせいで、奇しくも興味のある時代とニアミスすることもあり、観てみようかという気になった。
映画評は避けつつ事前に情報を集めてみたところ、本作品の主人公である武術家は名を霍元甲(かく・げんこう、フォ・ユェンジャア)といい、秘宗拳の達人だったという。秘宗拳という武術は、名を聞いたことはあるがどのようなものであるかはしらない。興味が沸いた。

原題は『霍元甲』。どこをどういじくったら『SPIRIT』になるのか。たぶんラストシーンを強烈に皮肉ったつもりに違いない。だとするなら、我が身には非常に珍しいことではあるが、この邦題には全面的に賛同できる。

映画はあまり観ないのでよくわからないが、『マトリックス』、ジョン=ウー、『タイタニック』らによって映画は画一化されてしまった印象がある。
カンフー映画であるには違いないが、CG補正強度が非常に高いこの映画のカンフーアクションには全く感動を覚えず。アクロバティックなことをやればやるほどしらける。近頃観た『スパルタンX』の格闘シーンに覚えた興奮と比すべくもない。

物語はどうやら史実とは異なるようで、創作であるらしい。
カンフー映画なのでストーリーはあってなきが如きものであるが、争いはなにも生まないという主張は、まあ、伝わる。武術の流派に優劣はない、あるのはそれらを身につけた人物の力量の差である、それぞれの流派(思想)は尊重すべきだ、という主張はよく伝わる。
だが、秘宗拳がどんなものであるのかは、もちろんわからない。

どうでもいいことだが、ジャッキー・チェン初期のカンフー映画に兄弟子役としてよく登場する役者が、乞食の道化まわしとして登場していた。すごく久しぶりに見た気がする。

家電屋の携帯売場に

Xperiaを買う気で見に行って、SBの販売員にDesireを勧められて買わずに帰ってきた。
Docomoの販売員のねーちゃんは、我が身の強面を一瞥して去った。SBの販売員のにーちゃんは控えめに、好感のもてる商品アピールをしてきた。
実情はどうであれ、SBの隆盛は現場の人間力の差にあるのかもしれない。

タイミング的には今、Androidというテクノロジーをデベロッパーとして知りたいという事情からすると、Android1.6であるXperiaでよいという判断がある。
その一方で、デザインが好みでない、SBは敵であるというネガティブな材料を鑑みても、Android2.1端末に心動かされないわけではない。

けっこう買い気なのだが、肯定的な材料が圧倒的に不足しており、あと一歩が踏み出せない。

2010年9月24日 (金)

LOTOで当選

8500円wな日。

住民票の転居を行ったら、住基カードに付帯する公的認証サービスがこれに連動して失効する旨告げられた。
寝耳に水の話であり、印鑑登録証は地方自治体から転出しなければ影響ないのに、なんで同じにならへんのか問い詰めてしまった。窓口の担当者は実情を知ってか知らずしてか、そういうものだと思ってくださいという大人の対応をしてくださったが、どうも使い勝手の悪い印象しかない住基カードのソレコレには閉口させられるばかりである。

運転免許証の転居を行い、気を取り直して再度市役所を訪れ、公的認証サービスの手続きを行ってみて、なんとなくその理由を察した。初めて登録した二年前、それをやったかどうか覚えていないのだが、どうも住基カードに暗号化を施しているらしい。
そのキーの片割れとして住所が用いられているのではないか。そんな印象を得た。

と、思いつつも。
運転免許証の手続きの際、昨年4月から免許証もIDカードになったという告知のポスターを目にして、時代の移り変わりを漠然と感じながらも、住民票、住基カード、運転免許証が非連動な現実は変わらないわけで、公務員が休日働けば経済効果もあがるのではないかとぬりかべってしまった。

どうでもいい話だが、警察署での待ち時間中に、幼児向けの「どうぶつの絵本」的なものがふと目についた。
「どうぶつのオリンピック」的なそのページには、人間を含めた動物のいっぷんかんにはしるきょりが記されていた。それによると、豹がトップで約2km、どべがなまけもので約3m。
つい、笑ってしまった。
余談だが、雪豹は15mの水平ジャンプをこなし、豹は5mの垂直ジャンプをこなすそうである。

2010年9月23日 (木)

読物 『凡宰伝』

今よりもなお政治に無関心だった頃、小渕恵三という人物が、それなりに功績をあげた首相であるとする評を目にした。目にしたのは掲示板的なものだったと記憶しており、その主張するところのソースは明かではないが、あるいは本書がそうなのかもしれないとも思う。

かつてよりやや政治に無関心でなくなったのはその評を目にし、やがて小泉純一郎という人物になんとはなしの興味を覚えたことによる。ここ最近読んだモノ(『われ万死に値す』『黒い手帖』『小泉純一郎―血脈の王朝』)にも若干その影響が見受けられる。

佐野眞一は人物像を探る作家ということらしいが、その評に違わず、よくぞまあ調べ上げたと思わせるほど、インタビューをこなし、資料にあたっている。人物像を描き出すためには、その人格を醸成させた環境を知るべきである。その趣旨に反する意見はもたないが、やりすぎちゃうんちゃうと思わなくもない。

上げて落とす、いささか恣意的である、そんなクセも鼻につきだしたが、題材・内容にそぐわぬお手軽感はあり、リーズナブルといえよう。

2010年9月22日 (水)

読物 『呪縛 金融腐蝕列島Ⅱ』

わりとアレなノンフィクションっぽいもの(『援助貴族は貧困に巣喰う』『甘粕正彦 乱心の曠野
小泉純一郎―血脈の王朝』『東京アンダーワールド』 『田中清玄自伝』『真剣師小池重明』『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』『反転―闇社会の守護神と呼ばれて』『許永中 日本の闇を背負い続けた男』『同和と銀行 三菱東京UFJ“汚れ役”の黒い回顧録』 )を先んじて読んでいたためか、インパクトは強くない。
強くないが、楽しめた。

人のやることだからして、組織というものは、大なり小なり似たような局所解に陥ることを免れられないようである。
そんなことを再確認したというところ。

2010年9月21日 (火)

Xperiaに心動く

独居先の電波状況が悪い。

具体的な不具合が身近になれば、新聞に同梱のチラシに目を惹かれもするものだ。

以前、幾度かキャリア変更を検討しては挫折してきた。
お得ならば標準でつけておけばよいオプションを、いかにも「お得です」と外付けされたりすると、それだけで嫌気がさしてしまう体質らしい。

さておき十五年くらい前にDataScopeというデカルチャーに遭遇した我が身ではあるが、DSやPSPと同様、スマートフォンには興味を惹かれなかった。
電波の通りが悪いという、わりと深刻な事情があれば、ビジネスの種になるかもしれないなどという肯定的心理も芽生えるものらしい。

DesireやWindows Phone 7などがホットな昨今、Xperiaについてはネガティブな材料ばかり集まってくる。
さて、どうしたものか。

2010年9月20日 (月)

DQ開始

3DK。
一番近い施設は葬祭場。徒歩一分圏内に、餃子を食わせる店、焼きそばとカレーを食わせる店、はんこ屋、スーパー、DIY店がある。

PHSの電波状況が悪い。
チラシでXperiaを見かけて少し心が動いたが、弟のDocomoもアンテナ表示が悪いというので、立地の問題か。物件は鉄筋コンクリートの下層で、向かいにはやはり鉄筋三階建ての建物がある。

昨年末に購入したPCの電源が入らない。
昨今話題になったWin2Kマシンを代替としつつ、アレコレして、光学メディア装置を認識していないという問題をのぞいてようやく起動。

計画はかねてよりあったがいろいろあって先送りになっていた。先月中旬から活動を再開し、人が三人くらい死んでいるんじゃないかという格安物件に出くわして計画実行を決めた。
独居に3DKは広すぎる。2DK程度を検討していたのだが、契約した物件はそれらの平均コストより安い。

まだ片付かないが、ようやく人心地。

2010年9月18日 (土)

読物 『援助貴族は貧困に巣喰う』

――「水漏れ」とはトップによる窃盗を優雅にいい表したものである。

P.302

 ここで起こっていることを表す専門用語がある。それは「飛ぶお金」(「キャピタル・フライト」――通常は「資本逃避」の意味で使われる=訳注)というものだ。なにか新しいゲームの名前みたいでわくわくする。ゲームのやり方はこうだ。豊かな国の貧しい人々の税金から徴収される公金が、「外国援助」という形で、貧しい国の豊かな人々の手に移される。貧しい国の豊かな人々は、自分の安全のために、再びこのお金を、豊かな国の豊かな人々に払い戻す。この収奪のサイクルにひそむ真のトリックは、この間ずっと、貧しい国の貧しい人々を助けていると見せかけるところにある。この勝負の勝者は、一瞬も大まじめな顔をくずさず、その間に銀行口座に何十億ドルもため込むことのできるプレイヤーである。

P.313

マザー・テレサの名は慈善という言葉とセットで記憶されている。その人となりをよくしらないが、人生をそのことに尽くした人物であることは記憶に深く刻まれていて、だからそんな人物が援助に否定的な見解をもっていると初めて知ったときにはまず驚き、やがてその背景を勘繰った。そうと知ったとき、それくらいには大人になっていた。

FAO 国連食糧農業機構(機関)
IBRD 国際復興開発銀行*
IDA 国際開発協会*
IFC 国際金融公社*
IMF 国際通貨基金
ODA イギリス海外開発庁
OECD 経済協力開発機構
UNCTAD 国連貿易開発会議
UNDP 国連開発計画
UNDRO 国連災害救済調整官事務所
UNEP 国連環境計画
UNESCO 国連教育科学文化機構(機関)
UNFPA 国連人口(活動)基金
UNHCR 国連難民高等弁務官事務所
UNICEF 国連児童基金
UNIDO 国連工業開発機構
USAID アメリカ国際開発局
WFP 世界食糧計画
WHO 世界保健機構
(*は世界銀行グループの機関)

以上に列挙した組織名は本書に登場するものである。これらについて、幾つかはよく耳目にふれるものであろう。
まだTVをよく見ていた頃、UNICEFやWHOのCMは、日本船舶振興会のCMと同程度には目にしたように思うし、FAOやILO、IMFなどについてはニュースで時々報道されていたように思う。

昨今目にした噂によれば、日本でもアイドルとして活躍した芸能人が募金活動をやっているが、その実態は不透明で、集めた募金のほぼすべては組織活動のための資金とされ、その目的であるはずの援助にはほとんど用いられていないという。
元アイドルの芸能人は豪邸を幾つも所有し、金の家財道具を所有していることが自慢であるトカナントカ。

本書の内容を精査する術は例によってないわけだが、そんな話も目にしてみれば、なるほど援助活動というものが字面のようなものではない可能性もあるかもしれないと思うようにもなる。
もし、この本に書かれていることが事実であるならば、今後、上述の機関名を口にする際には、僭越ながら一文字追加する――あるいは草を生やす――ことを自らに課さねばならないと感じた次第である。

もう随分と前のことになるが、南米の森林資源が危機的状況にあることが大きくとりあげられたことがあった。まだそこそこTVを見ていた頃だったと思う。報道内容の記憶として印象に強いのは、地元住人が焼き畑のためにそうしている、ということだった。
だがこれは、世界銀行が出資したプロジェクトの結果であると本書はいう。
環境がどうとかCO2削減がなんとか声高く唱えられている昨今だが、「エコはビジネス」という言葉を目にしたこともある。

援助もビジネス、エコもビジネス。
世界を動かす血流とやらは、どうやら静脈血らしい。

2010年9月17日 (金)

漫画 『栄光なき天才たち』

YJで『孔雀王』が連載していた頃、唵阿毘羅吽欠蘇婆訶とか九字を一生懸命覚えようとしていた頃のこと。

中二病まっさかりのそんな頃、読みはすれどもほとんど関心を持たなかった作品の一つに『栄光なき天才たち』があった。偉人の伝記に興味はなくもなかったが、タイトルの謳い文句通り失意の内容であること、当時の我が嗜好にマッチしない絵柄には、惹かれるものがなかった。

ふと思い立って旧コミックス版全17巻を通読してみれば、若き日々の感想を苦々しく思い出させられるほどに、面白いものだった。
昨今の興味とクロスオーバーし、しかもダブっていないエピソードも紹介されている。物語作品であるからには脚色もあろうが、ダイジェスト、イントロダクション、インデックスとしてまことに得難いものである。

以下は個人的クロスオーバー分についての、Wikipeidaからの抜粋。

単行本第3巻

    * 鈴木商店(総合商社の源流、戦争成金の代表などといわれる戦前の企業)

単行本第4巻

    * 北里柴三郎(北里研究所を設立した科学者、世界で初めて血清療法に成功した)

単行本第6巻

    * 理化学研究所(日本の近代科学を築いた研究所。3代目所長の大河内正敏と、鈴木梅太郎・寺田寅彦・仁科芳雄らの科学者を中心に、戦前から戦中期の様子を描く)
    * 平賀譲(軍艦設計者。戦艦大和の設計にも携わった。通称「造船の神様」)
    * 立松和博(昭和20年代の読売新聞記者。売春汚職事件に巻き込まれて失職、自殺した)

単行本第10巻

    * 川島雄三(日本映画界の幻の巨匠。代表作『幕末太陽傳』は日本映画史上最高傑作のひとつに挙げられる)
    * 島田清次郎(戦前、『地上』を執筆し空前のベストセラー作家となるものの、文壇から存在を抹殺された小説家)

単行本第15巻

    * 満鉄超特急あじあ(戦前、満州国において世界最速を目指した特急列車「あじあ号」とそれに携わった人達の軌跡)

単行本第16巻

    * 名取洋之助(日本人初の世界的フォトジャーナリスト)

2010年9月16日 (木)

読物 『金融腐蝕列島』

ここしばらく読んできたものが染みている。
読後の第一印象として、そんなものがある。
関連する事柄を知らずに読んだのと、知ってから読んだのでは読後感も大きく異なる物語であろうが、知らずに読んでも面白いだろうとは思える。
我が身の立場としても面白いが、いささかドラマティックでありすぎると感じられる。

親戚の銀行マンに、バブルについて参考文献はないかと、雑談めいて問うたところ、「ちょっと違うけれど」と、紹介されたことをきっかけとして着手に至った。
たしかに「ちょっと違う」が、一次資料へのリンクの役割は果たした。

本書で紹介されている「資産価格変動のメカニズムとその経済効果」は、大蔵省の財政金融研究所が出したバブル経済の発生と崩壊を分析したレポートだという。

発生と経過についていろいろと論述されてられているが、金融について門外漢の身の上としては「さようでござるか」というところ。
リスク管理が不十分であったことは同資料中にも繰り返し述べられているが、それよりも一層根源的なものとして、政治にしても金融にしても、責任者不在のまま、未来にツケを回すことを前提としていることが問題なのではないかと思うを禁じ得ない。
過去の負債というものが、そうせざるを得ないほどに大きいということなのだろうか。

同資料で再三繰り返されているのが、タイムラグ。状態の観測結果と政策実行のタイミングに乖離があるというものである。
乖離が生じてしまうのはやむなきことだが、事後に、第三者を介して事態を俯瞰した立場からすると、「不適切な時期に、不必要に過度に/必要以上に過度に、手が打たれた」という印象は否めない。
巨艦の進路変更は急には出来ないというが、わりとこまめに操船していたようであるにもかかわらず、ここぞというときに必要な操作が行われていない。そんな印象が否めない。

さておき、バブルが発生した歴史的背景は十分に理解できた。同資料から以下に引用する。

1.  資産価格の上昇とその要因
 (1) 80年代後半に生じた資産価格の急激かつ大幅な上昇は,
  ① 85年9月のプラザ合意以降の急激な円高を契機として金利が歴史的な
   
低水準となり,マネーサプライも高い伸びを示すなど金融が緩和し,しかも
   
それが長期にわたったこと,
  ② 金融緩和,大企業の銀行離れ等の金融環境の変化の下で,リスク
   
管理,自己責任原則等の体制整備が不十分なまま,金融自由化が過渡期
   
を迎え,そのなかで金融行動が著しく活発となったこと,
  ③ 長期にわたる景気拡大や円高による国際的地位の上昇の過程で,わが
   
国経済の先行きについて強気の期待が高まり,資金の借り手のみならず,
   
貸手のリスク認識も低下したこと,
  を背景に,企業の設備投資の増勢に加え,大量の資金が株式・土地の市場
  
に流れ込んだために発生したものである。
 (2) この間の経済政策については,以下の問題が指摘される。
  ① 円高の影響については,既に景気後退局面に入っていたため,悲観的な
   
面が強調される傾向が強かった。
  ② 内需拡大による対外不均衡是正,急激な円高・ドル安抑制という政策
   
目標を達成するため,金融政策にウェイトがかからざるを得なかった面
  あった。
  ③ 経済情勢の認識から経済政策の効果が発現するまでのタイムラグの
   
存在は,経済政策を判断する上で難しい問題であり,慎重な情勢判断が
 必要である。
 (3) 今回の景気循環の過程では,わが国経済のストック化の進展を背景に,
  
資産総額の変動がGNPに比肩しうるような規模に達するに至ったことから,
  
資産価格の変動が実体経済の振幅を大きくした点が,通常の景気拡大局面
 と異なっている。ただし,資産価格上昇の実体経済に与える影響の大きさに
 ついては見方が分かれている。

次なるポイントとしては、どうやって膨らみ始めたのか、ということになろうか。

2010年9月13日 (月)

読物 『シベリア抑留』

「昭和十八年四月か五月に西部六部隊に召集され、どうしたわけか夜中に非常召集をかけられて広島駅を出発、貨車に乗せられて下関まで行き、釜山からはずっ と汽車で虎林に着きました。虎林駅の次が虎頭駅で、ウスリー江をはさんでソ連兵と対峙していました。私たちは六百人は全員自動車の運転免許証を持っていま した。満州七一〇二部隊に配属され架橋材料の運搬が任務でした。兵舎は穴グラ――地下陣地でした。双眼鏡で見るとソ連人がしゃがんでおしっこをしている。 女のソ連兵を見た最初です。十八年といえばあまり緊張感はなく、河が結氷すると真ん中あたりに酒保で買った甘味品を置いておく。翌日ウオツカのお返しが あったりして……。国境警備はそんなふうでしたね」

 

 北朝鮮の清津にはソ連極東海軍が支援し八月十三日に先発隊が上陸している。当然日本軍は反撃している。北朝鮮が関東軍の指揮下に入ったのは二十年六月十八日である。中国中部の武漢地区にいた第三十四軍(櫛淵一中将)を引き抜き、主力の五十九師団が咸興に到着したのは八月初旬である。当時直接使用し得たのは永興湾要塞だけ(公刊戦史)という実情で、他の有力部隊は輸送途中であり、北朝鮮の日本軍もまた泥縄式の防備体制しかとりえなかった。
 朝鮮半島が三十八度線で南北に分断された形の線引きになっているのは、北半分が関東軍の指揮下にあったからである。ちなみに朝鮮全土には七十万人の軍人、一般人がいて、南北それぞれ三十五万人ずつ分かれて住んでいた。たしかに三十八度線以北は前述のように六月十八日に関東軍の指揮下に入った。しかしソ連参戦に際して、ソ連軍の占領地域が満州および北緯三十八度線以北に決定したのはW・H・マクニール(現シカゴ大学教授)著『アメリカ、ブリテン及びロシア』によると、ポツダム会談(昭和二十年七月十七日~八月二日)の際の第二回軍事協定で取り決められたという。ポツダム会談と並行して行われた米ソ軍事協定だが、これは純軍事的な会議で、いわゆるポツダム会談とは性格を異にしたものだ。この時点で「北緯三十八度以北」と協定された理由が、同地域が関東軍の指揮下に入っていたからだとする根拠は見当たらないにしても、ソ連が六月十八日、関東軍が北緯三十八度以北を指揮下に入れたという情報を持っていたことは十分に考えられる。
 金日成朝鮮民主主義人民共和国主席は当時ソ連に亡命しており、戦後ソ連の武力を背景に北朝鮮入りしているところからみても、金日成主席がこの情報をキャッチし、ソ連軍部に要請したことは想像に難くない。とすると六月十八日の関東軍の決定が朝鮮分割の原因を作ったことになるかもしれない。
 知日派アメリカ人で国際問題研究家のウィリアム・F・ニンモ氏が、バージニア州ノーホークにあるダグラス・マッカーサー将軍記念公文書館に保存されていた資料を掘り起こして書いた労作『検証―シベリヤ抑留』(加藤隆・訳、時事通信社・一九九一刊)に興味ある記述がある。対日理事会(日本占領後に設けられた米・英・ソ・中華民国による東京での諮問機関)などでの日本人抑留者のソ連からの引き揚げをめぐっての米・ソのなまなましいやりとりが一次資料によって紹介されている。ソ連が北朝鮮を占領した経緯について同書は、
「ヤルタ会談の私的な会合でルーズベルトとスターリンは日本敗北後、朝鮮をソ連、イギリス、アメリカ、中華民国の代表によって統治される信託統治下に置くことにした。この約束は一九四五(昭和二十)年春、サンフランシスコで行なわれた国連の会議およびポツダム会談でも確認されたが、日本の降伏があまりにも突然だったため実現のための具体的な計画にまで話が発展しなかった。ソ連、アメリカの両軍代表は大急ぎで朝鮮での日本降伏を迅速に進めることを決定。三八度線以北の日本軍はソ連軍に、以南はアメリカ軍に降伏することにした。全朝鮮の信託統治は日本の降伏に引き続いて行なわれるはずだったが、しかし、ソ連軍は間もなく北の全領土を占領下に入れ、境界線を確定して厳重な防備体制を敷いた」
 と書いている。引き揚げ者が、満州から朝鮮経由で日本に帰ろうとしても三十八度線で引っ掛かった意味が、時間が経過するとともに解ってきたということであろうか。


 それにしても関東軍はいま少し早く在留邦人に対して手を打つべきであった。朝日新聞記者稲垣武著『昭和20年8月20日=内蒙古・邦人四万人奇跡の脱出』によると、中国での出来事であるが張家口にいた蒙古自治邦政府企画課長勝田千年氏は「引き揚げ命令」だと荷物をまとめるのに時間がかかるとし「一時避難命令」という、いわば「ニセ命令」を出し、ほとんど着の身、着のままで邦人を列車に乗せ南下させている。この中に芥川賞作家の池田満寿夫氏もいた。まことに見上げた、立派な処置である。指揮者の機転によって、人間の運命が左右される典型である。

 

 進駐ソ連兵はドイツを攻略し反転して満州に来た少年のような兵隊たちであった。服装や靴は大変粗末だったが、持っている自動小銃や拳銃はすばらしく、生 活レベルや教養は低かったがドイツ語会話を理解した。私たちもドイツ語を一年半ばかり習っていたのでこれが役に立ち意思を通ずることができた。
 彼らが一番欲しがるものは時計であった。高く売れたが驚いたことには腕時計のネジを巻くことを知らない。ネジが切れて時計が止まると、壊れたものと思っ てすぐに捨ててしまう。だから腕には数個の時計を持っていなければならない。捨てられた時計は、日本人や中国人が拾ってまたソ連兵に売りつけた。うそのよ うな話だが本当である。それくらい第一線のソ連兵は戦争に勝つことのみを考え、兵器には心血をそそいで素晴らしいものを持っていたが、日常生活レベルが低かったのである(略)。
 日本の着物は高く売れたが日本人の持っていた楽器はもっとよく売れた。ソ連人は音楽好きな国民であり、踊りも好きである。印象に残ったのはギターを売っ た時のことであった。彼らも中国人同様、猛烈に値切ってから買う習慣がある。それを見越して最初は倍以上の値段をつけておき交渉を始める。ギターもすごく 高い値をつけ、そして値切られた。私は商売が上手になっており値引きしなかった。有金全部をはたいたが私は売らない、とうとう拳銃に手をかけた。
 私は恐ろしくなり、もう売らなければと考えているうちに、有り金と拳銃を机の上に並べて、ニッコリ笑って黙ってギターを持って帰った。私は実弾の入った拳銃と軍票を持って、この日はすぐに下宿に帰ってしまった。申すまでもない。拳銃を手放してまで自分の欲しいものを手に入れて、笑顔で帰って行ったソ連兵 の童顔は、いつまでも私の頭の中に残った。しかし兵舎に帰って、失くなった拳銃の始末をどうするのであろうか。日本の軍隊ではとても考えられないことをする国民、欲しい時にはどんな事をしても手に入れる粘り強い国民だということを痛感した。

 

 作業にはノルマがあることは前にもふれた。社会主義国の特徴であるが、ソ連の場合は徹底したものであった。研究者によれば作業種別、地域別、季節別などを考えた詳細なもので、百科事典ぐらいの大きさの、数百ページのノルマ表が何十冊もあったという。最も簡単な例を言えば、二人で一日十立方メートルの木材を切り出すのがノルマとすると、それをやり遂げれば達成率は一〇〇パーセントとなり平均賃金が支払われる。八〇パーセントしか達成できない場合は二〇パーセント引き賃金しか払ってもらえない。日本人抑留者の場合は、ノルマの達成率によって黒パンの量で加減した。「働かざるものは食うべからず」を地でいったのである。金本位制をもじって、“黒パン本位制”と称したのは、若槻泰雄玉川大教授だが、なかなかうまい表現である。がこの黒パン本位制がシベリア抑留の悲劇の源泉の一つになったことを思えば感心ばかりもしておれない。

 

「みんな頑張ったが検収員(ソ連人)が意地悪で作業量をノルマの三〇パーセントくらいにしか書かなかった。私たち五人の小隊長は毎晩のようにソ連の大隊長室に呼ばれノルマの督促を受けた。いくら頑張ってもこの検収員ではやりがいがない。しかし収容所におけるストライキは厳しい管理体制で不可能である。
 各小隊長は決死の覚悟でストライキに入った。翌日から伐採の現場には行くが、たき火を囲んで仕事はしなかった。ところが一番初めに困ったのが検収員であったから皮肉である。作業終了後、検収員の書いたノルマ票に日本の小隊長が署名し、事務所に届けることになっている。事務所に届いたノルマ票は小隊長の署名がないので通用しない。従って検収員は仕事をしないことになり食糧の配給が停止された。検収員は困って、寝ている各小隊長に署名するよう依頼に来たが、絶対署名しなかった。ついに五人の小隊長と検収員が山の中で団体交渉することになり、雪の中で相対して交渉した。以後作業量を一〇〇パーセントに書くことで妥結した。その後は日本人も真剣に作業に励んでノルマの完遂に努力した」

 

 場所はチタあたりだったと思います。十一月十一日、私たちは死刑台に登りました。十五メートルぐらいのところからピストルで撃ちます。まず町田が銃殺され次は私です。一発目は耳をかすり、二発目ははずれ、三発目はピストルの故障で鈍い音だけしました。すると射手(執行者)がピストルを投げ捨てて飛んで来て、日本語で言いました。『平本さん別室に行きましょう。ソ連では三発発射して死ななかったら国外追放となります。私は百人以上も死刑執行したがこんな事ははじめてです。第二の人生に乾杯』と言ってブドウ酒をのませてくれました。再びシワキの収容所に連れ戻されたのですが責任者が十日、私が十五日間の減食営倉の処分を受け、平壌に連行されました」

 

 シベリアも六月になると新緑となる。が、このころになって栄養失調患者が急増したという。ビタミンCの欠乏による肝臓疾患で、朝起きてみると隣で寝ていた人が死亡しているといったようなことが度々あった。ビタミンCの補給のため、松葉をスープにしてみたが「飲める代物ではなかった」そうだ。浅本氏も大腿部を両手で握ると指先が交差するほどやせた。山で雑草(多分アカザ)をつみ、飯盒で煮て食べる者が多かった。ところがスーチャン病院で死体解剖したのを見ると野菜のアク抜きをせずに煮て食べたため、腸の内壁にアクがびっしりついていて、栄養の吸収ができなくなっていたという。同氏はケガをして入院し、回復後、軽作業の死体解剖の手伝いをやらされていた。「同じような死体を多く見た」とのことだ。

 

 同じ収容所にいた古田勇氏は坑内労働の苦しさはともかく、日本人収容所の近くにウクライナ人家族の収容所があり、百人か二百人抑留されていて、日本人と同じように採炭作業をやらされていた姿が強烈な印象として残っている。父親は娘の、娘は父親のノルマを気にしながら労働していたという。元来ウクライナは独立連動が盛んであり、独ソ戦の時ドイツ側について戦った部隊もあったし、ソ連からみればはなはだ危険な民族ということになる。ウクライナ人捕虜(というより囚人)がいても不思議はないが、ソ連人女性も坑内で働いており、トロッコが脱線したときなど、若い女が一人で腰を落として持ち上げ元に戻したのには驚いたという。
 抑留生活を語る場合、冬季の便所と夏季のブヨの大群のことは欠かせない。地面に深い穴を掘り、その上に木材を渡し、天井に板を置いただけの構造で仕切りや戸はない。ソ連占領下のハルビンでも、ソ連兵が便所の扉を取り除かせたとの証言もあるから、便所をオープンにするのはソ連流なのだろう。女性の性道徳も乱れており、後藤敏雄氏の『シベリア・ウクライナ私の捕虜記』(国書刊行会刊)には「不道徳と言うよりも無道徳」と書いてある。取材中にもこの種の証言はいくつも聞いた。生まれた子供は「スターリンの子供」であり、妊娠中はそれなりに社会保障が与えられるかららしい。これもソ連流であろう。

 

 シベリア抑留を語る場合、前に事件名だけを紹介したモンゴル人民共和国の首都ウランバートル収容所で起こった“吉村隊長事件”と“ナホトカ人民裁判”を無視するわけにはゆかない。前者は日本人作業隊長の隊員虐待事件で“旧軍将校の横暴”という側面を持つものであり、後者はそれと対極をなす“アクチブ(活動家)”による“左傾化しない日本人(反動)”に対するつるし上げ事件である。まず“吉村隊長事件――暁に祈る”について書く。
 昭和二十四年三月二十三日、元隊員二人の告発によって政治的問題ともなり、同年六月参議院在外同胞引揚委員会は四日間にわたって証人喚問。東京地検は全国三十七地検の協力を得て元隊員を調査し、「遺棄致死」「逮捕監禁」で七月十四日、吉村隊長=本名・池田重善(当時三十四歳)=を逮捕した。同隊長は二十五年七月、東京地裁で懲役五年の判決を受け、控訴審でも懲役三年の実刑を言い渡された。三十三年三月、最高裁が上告を棄却したため刑が確定し、大分刑務所で服役。刑期を一年残して釈放された――という経緯をたどった。
 昭和二十四年三月十五日付の朝日新聞に、吉村隊長を告発した元隊員の訴えが掲載されたのが、社会問題、刑事問題、国会での審議につながる契機となったものだ。朝日新聞の見出しは「同胞虐殺の吉村隊長・生き残り隊員が語る」「外蒙抑留所の怪事」「生身のまま冷凍人間/鬼畜リンチの数々」とセンセーショナルである。もっとも二十三年ごろから、吉村隊長のことは抑留記の中に出ており、朝日新聞の記事が初めてではないが、全国の新聞が競って取り上げるキッカケは作った。
 当時のマスコミは競って報道したから年配の読者なら記憶されていることと思う。雑誌にも隊員の手記が掲載されたし単行本も出された。当時“暁に祈る”という言葉は上司が部下を虐待する代名詞とさえなった。旧軍の体質を暴露する用語ともなった。吉村隊長事件については、二十二年五月、自由出版社から出版された、鈴木雅雄氏の『春なき二年間 ソ連の秘境ウランバートル収容所』の中に紹介されているものが筆者の知る限りでは一番早い。この著書は同じウランバートルに抑留され、吉村隊長と同時期に帰国した小原二郎氏から提供されたもので、同氏は「吉村隊のことはウランバートルでは有名で私も話には聞いています。戦後二年間、収容所内で軍隊の階級章が通用していた文字通りの秘境でした」と語っている。

 

 受刑者には気の毒だが、珍妙な記録もある。満ソ国境の守備隊に配置されていた将校がスパイ行為で調べられた。
 たとえば次のような検察官とのやりとりがある。
問「国境監視部隊を巡視したか」
答「もちろんした」
問「ソ連の方を見たか」
答「無論見た」
問「それは諜報だ」
答「見たどころではない。見えるではないか」
問「国境まではみてもよい。その向こうを見れば諜報だ」
 また、戦闘に関してのやりとりもはなはだ一方的である。
問「戦車攻撃にあたり、前からするか、後からするか」
答「そんなことは、その場の状況による」
問「それなら後からもやるか」
答「むろん、状況上やってよいときはやる」
問(結論)「それは謀略だ」
 もはや五十八条に当てはめるための既定路線を走っているだけの感じである。

 

 ソ連の外交路線決定は党中央委員会国際部が行うのは広く知られている通りで、外務省は党の方針に従って動くだけである。グロムイコ前外相もコワレンコ国際部副部長の強い影響下にあった。NHK元モスクワ支局長だった吉成大志東京外国語大学講師は、雑誌『文藝春秋』(六十年十二月号)に「コワレンコ副部長は、戦後ハバロフスクにあった軍捕虜収容所の係官時代、日本人を手なずけるには暴力、つまりムチとビンタがいちばん効くことを覚えたといわれ、党中央委員会国際部副部長に就任した後、このプリミティブな日本人観をもって対日政策を立案したといわれる」と書いている。
 さらに次のような驚くべき内容の記述がある。
「一昨年(五十八年)私はワシントンにある某大学のセミナーに参加したとき、コワレンコ副部長(党国際部)についてアメリカ人学者から驚くべきことをきかされた。ある年、アルバートフ米国・カナダ研究所長とともにワシントンを訪れたコワレンコ副部長は、アメリカ人を前にして『日本問題については、私が絶対的な権力を握っている。私が党中央委員会国際部の名で立案した対日政策については、ブレジネフ書記長といえども反対できない。ソ連とアメリカが手を握って日本の頭をガツンとたたけば、日本なんか黙らせるのはわけはない』と豪語した」
 当時のグロムイコ外相の、つまりソ連の対日外交姿勢が強硬であったのはそのためであり、ゴルバチョフ政権下の外相として六十年一月十五日来日したシュワルナゼ外相がどのような対日政策の変化を見せるかは興味のあるところであったが、実態はまったく従来通りで変化はみられなかった。

 

 着いた所がマルシャンスクの国際ラーゲリだったわけです。私は大佐を長とする大隊本部の通訳をしていました。到着して当分の間は燃料用の薪の採集など軽作業でした。私の場合、週給五ルーブルぐらいもらったような記憶があります。たばこのマホルカ一箱が三ルーブルでしたから、たいした金額ではありませんが、モスクワに近い国際ラーゲリだったためか、国際監視団もやって来るし、国際法を守らざるをえなかったのかもしれません。ビール工場、たばこ工場に半年ぐらいずつ長期作業に出たこともあります。働いている人はほとんど女性です。第二次大戦に男性を総動員したんですね。いや女性も兵隊として参加していて、ロシアの将校が『ベルリンの空はピズダで覆われた』とベルリン陥落時の話をしてくれたほどです。ピズダは女性性器のこと。女性空挺隊員がベルリンに降下したと言うわけです。

 

 ナホトカ人民裁判が「自然発生的か」「アクチブの仕掛けか」にこだわる理由は、日本人の精神文化と大いに関連するからである。具体的に言えば絶対権力者ソ連に対する迎合か、自らが獲得しようとした民主主義志向かの問題である。この種の問題は実態がドロドロしたもので、一刀両断にできる性格のものではないことは承知の上だが、シベリア抑留を考える場合、絶対に避けて通れない命題である。

 

「日の丸梯団」の出現は、シベリアの民主グループの耳にもすぐに入る。記録によれば、舞鶴での復員係官に対する回答のやり方まであらかじめ訓練するようになった。たとえば次のように、である。
 ――随分寒かったでしょう。
 答 寒い時は零下四十度になります。(この答えはいけない。気象条件は重大な軍事情報である。正解は『寒かった』だけでよい)
 ――体の悪い時の作業は免除ですか。
 答 三十八度以上の発熱の時休みます。(これもいけない。三十八度まで発熱患者を働かせるという反ソ材料の提供になる。正解は『はい』)
 ――ソ連にも泥棒や物もらいがいますか。
 答 そりゃあいます。(これもダメ。泥棒や物もらいは社会主義国家にはあり得ない。われわれはソ同盟の真実を伝える階級的義務がある。『知らない』と答えればよい)

 

 厚生省は「ソ連が任命したように見える指導者(アクチブ)は実際は傀儡であって、真の指導者は陰に隠れている」と書いている。二十四年の引き揚げを終了した時点に書かれた厚生省文書は、今見ると悲壮的でさえある。洗脳された帰国者集団が発するものすごいエネルギーに対する恐怖と、赤化思想に対する警戒心がありありとうかがえる。

 

 シベリアの収容所でドイツ人に接した日本人は多く、そのドイツ人観もさまざまだが、マルシャンスクとかエラブカなどの国際ラーゲリでドイツ人と生活をともにした抑留者の印象は非常に興味がある。個人差はあるが、一般的なドイツ人観は「堂々として、ソ連の思想教育に見向きもしなかった」ということである。民主化運動が高揚し、赤旗を先頭にしてインタナショナルを合唱しながら行進している日本人グループを見たドイツ人の一人が、やにわに赤旗をもぎ取り、地にたたきつけて踏みつけた、という目撃談もある。少なくともドイツ人の抑留者の中には「ソ同盟万歳」とか「スターリンに感謝」「天皇島へ敵前上陸」といったふうな倒錯した精神状態になる人はなかったようである。ドイツ人と日本人の精神文化の差とみるべきであろう。

 

思いがけぬピースを発見した。
そんな思いだ。

社会主義、共産主義が、いわゆる民主主義への驚異と見なされたのは、制度にではなく、主に人に理由がある。そんな印象を改めて抱かされた。
戦後ドイツ』には、ナチスに迎合した大衆・知識人のありようが紹介されていた。
人種、民族、世代、性別、さまざまな区別によって人類はカテゴライズされているが、いずれも結局は「人による」と言わざるを得ない。

ひさびさに、CivIVでもやってみようか。

2010年9月12日 (日)

読物 『コップクラフト』

警官が魔法を使うかどうかは知らないが、国家権力に属する人々がそれをよくすることは知られている。
国会議員は少なくとも戦後継続して使ってきたようだし、最近では検察庁関係者も使うようだ。

タイトルが謳うほど魔法っぽいものは表出していない。
マイアミバイスとサイバーパンクと魔法を足して割ったような案配で、魔界都市を1000倍に薄めたカンジ。完成度は低くはないが、なんか、いろいろと物足りない。
ハートマン軍曹金言集をバイブルとするウジ虫どもには、作中に登場する神父的商人の言動は一読に値するかもしれない。

ともあれ、文筆業界にもジャンプ的編集指導が標準となってきているらしい。

2010年9月10日 (金)

雌獅子珈琲飴

ここ最近読んでいるもののなかに、収監の風景を描いているものが少なからずあった。
そのいずれにだったか、「受刑者には飴は『カンロ飴』しか認められないが、なんだか例外的に所内の売店で『ライオネス・コーヒーキャンディ』が手に入る」云々と記されていた。

これがいけなかった。

少女とリスが登場し、リスがキャンディをカリコリするCMでお馴染みの、あのテーマソングが脳内をリフレインしだした。
そして、しばし。
スーパーやコンビニに立ち寄っては、飴のコーナーを目で探る日々が続いた。

意外にないものである。
とあるスーパーで見かけたのは、どれくらい経ってからのことだっただろうか。

食してみると、記憶にあるとおりの味がする。
件の読物では、「所内ではコーヒーが飲めない(一日一杯だったかもしれない)ので、ライオネス・コーヒーキャンディは、コーヒー好きには福音であった」的なことが記されていた。
コーヒーは通常ブラックで飲むが、コーヒーキャンディの甘さは悪くない。

気づけばむさぼり食っていた。常習性がある。
一日で一袋空になるイキオイだ。

あまりにもやばいので、職場の人々に配布した。
脳内リフレインは鳴りやんだが、思い出してしまった味に若干の戦慄を禁じ得ない。

2010年9月 8日 (水)

読物 『武術「奥義」の科学』

わかりやすいところと、わかりにくいところと、頷けるところと、首を傾げるところがある。

甲野善紀氏は、武術の理を研究する最近の祖として認知されているのだろうか。
すべてを網羅したわけではないが、ネット書店などを俯瞰すると、同氏の著作に類する、あるいは準ずる書籍を散見することができる。ざっと見渡したところ、武術の科学的解釈という、同氏が敢えて避けたところをニッチとする書が増えているようだが、本書もその一種と見受けられる。

さておき。
他者に技術を伝達するとき、感覚的な言葉よりも、科学的な雰囲気をまとわせた言葉のほうが受け取りやすいようではあると実感しているが、それも程度だということがよくわかった。

もうちょっとやさしい言葉を選んでもよかったのではないかと思えなくもないが、やさしいがわけわからん内容の他書に胡散臭さを感じたことを思えば、これはこれでよいのかもしれない。

本書に図説されている技法のうち幾つかはイメージできたし、技量の程度を問わなければ自分でもできそうだと思えた。
本書について、スーガクやブツリを彷彿とさせる図に拒否反応がでるという意見を聞かされたが、記されている記号は無視して、矢印だけ感覚的に受け止めるようにすればよいのではなかろうか。イメージできない場合は、図のとおり真似をしてみればいい。

それにしても、本書で読む「逆小手」の、なんと難しいことよ。
実際に難易度の高い技術だが、これに記されているほどには難しくないような気がする。

余談だが、
やる夫が少林寺拳法部に入るようです
が面白い。未完だけど。

2010年9月 7日 (火)

読物 『戦後ドイツ ―その知的歴史――』

 こうした急速な変化と軌を一にしているのが、アメリカ地区を中心に成された非ナチ化の処置である。これは、住民にアンケート用紙を配り、ナチ時代になにをしていたか、党員であったか、どういう職についていたかなどを申告させ、審査の上で一定の基準以下であれば「非ナチ化」されたとみなされ、一人前の市民に復帰できるという機械的かつ形式的なもので、これによって非常に多くの人々が、過去の心性とは無関係に今日から民主主義者になれた。一種のみそぎみたいなものであるから、有名な洗剤ブランドであったペルジールをもじって、「非ナチ化」の証明書をペルジール証明書などと嘲る冗談も囁かれる始末であった。しかも、一介の市民が熱に浮かされていくつものナチ党組織の下っ端として「活躍」していた方が、実際にナチの軍備拡大に協力した軍需産業の重役より――彼がたまたま党員でなかったらなおさら――損をするという矛盾があった。その意味では、ナチスを運だ過去と決着をつけないで、戦後の再建に走りやすくしたのには、占領軍も逆説的なかたちで一役買っていた。

P.13

(ギュンター・グラスの)出世作『ブリキの太鼓』(一九五九年)は全世界で翻訳も含めて三〇〇万部以上と言われるベストセラーとなった。三歳で成長の止まった主人公、大声を出すとガラスを割れるという特異な能力を持つ主人公が、ナチスに合わせて泳ぐ周りの人々を冷静に見つめる一方で、自分もその芸を活かしてナチスのなかで出世していく様が描かれている。

P.98

 ――ドイツ語でシュピーサーと呼ばれるこのタイプは、自分の生活の安定がすべてで、政治意識はゼロ、経済的にうまくいかなくなるとすぐに犠牲の子羊を探しだそうとする。

P.119

 もうひとつは、五八年に密告によって始まったいわゆるアウシュヴィッツ裁判がヤマ場を迎えたことである。殺人工場の関係者二二人に対して、二〇ヶ月に及ぶ裁判がなされ、三五〇人に及ぶ証人が出廷し、一九人に有罪判決が下された。次々と明るみに出される言語に絶する残虐行為、今でも心の傷の癒えない被害者たちの証言、そしてなによりも、被告人たちが戦後は「カタギの」職につき、誰からも好かれるごく普通の善良な市民として家族、友人、同僚たちのなかで暮らしつづけてきた事実は、「人あたりの良さ」とか「品のいい物腰」とか「物分かりの良さ」というものが、いかなる防波堤でもないことを思い知らせた。むしろ、そうしたものは、社会的適応の産物でしかなく、そのつど強い方につくという権威主義的パーソナリティの現れ以外のなにものでもないのではないかとすら思わせた。多くの裁判傍聴記が書かれ、休憩時間にコーヒーを飲みながら、弁護士と談笑する被告人たちのジェントルマンぶりに対する違和感が主題化された。

P.122

 この戯曲(自らも亡命し、戦後はしばらくスウェーデンで暮らしていた作家のペーター・ヴァイスによる戯曲『追求』)はまた、ドキュメント的な手段を多用し、また誇張を通じて、常識とされていることが実はとてつもない事態であることを暴露するさまざまな手法を用いている。ブレヒト以来、異化効果と言われているものである。文字や写真をスライドで使う手法などもそれであり、方法の面でも、戦後の「大入り満員、中味は空っぽ」と言われた、善良な市民の感動を誘う古典的演劇ではなく、多様な実験の試みられたヴァイマール時代のそれに戻ろうとしていた。

P.124

 ハーバーマスに言わせれば、先進国において変革が可能になるのは、富の増大に伴い、個人個人が今までの盲従的態度を維持できなくなり、欲望の放棄をしなくなった場合である。つまり、内部の自然の抑圧が不可能になった結果として、共通の議論の場を通じて社会的連帯が行われ、価値の設定へのトータルな参加が望まれるであろう。それが許されなければ、資本や国家の体制すら機能しなくなるであろう。そういう経路を通じてのみ変革は生じる、というのだ。

P.160

――知識人の位置、哲学や思想の位置はますます微妙な、危ういものになってきた。誰に頼まれたわけでもないのに、なんのために物を考えなければいけないのだろうか――

P.232

「ドイツの戦後」が知りたかっただけなのに。
サブタイトルをよく読まずに手に取ったのが悪いのだが、サブタイトル「その知的歴史」が示す通り、哲学・思想史としての「戦後ドイツ」が主題であり、歴史というものは切り取り方次第でいかようにも論じられるものだと改めて理解させられた一方で、テツガクというものは、ためのためのためのための学問なんだなあという印象をいっそう深めさせられた。
う~ん。

2010年9月 3日 (金)

読物 『一歩、踏み出せない人のために』

 ――あまり進んで話したくないことですから言いませんでしたが、手首を取られただけで抜けそうになるなど誰も想像はしないでしょう。全身の関節が異常ということを知っている人は少なく、膝に水が溜まるくらいにしか思われていないようでした。

P.111

 私が中学生になった夏、父に向かって「ケンカの仕方を教えて」と、言ったことがありました。いまから思えばバカなことを言ったものだと思います。そのとき父は、唖然とした表情をして冷ややかに「お前は、いったい何をする気なんだ?」と。
 そのとき父が言ったことは「ボタン一つでミサイルが飛んで来る時代だぞ、相手がどんな凶器を持っているか、また何人いるか分からない、そんな状況の中で、無手でできることの限界を知らないで向かって行くことほど愚かなことはない。たとえ有段者であっても過信することがいちばん危ない。護身術とはそういう状況を作らないことが第一番目、次が自分の有利な状態を作り出すこと。どうしても避けられなかった場合に、身が守れるか・・・・・・ということだ」ということでした。

P.196

少林寺拳法にも、いろいろ事情があるようである。
比較的最近の入門者としては、聞こえてくるがなんのことかわからない話もあり、いろいろと難しいものだなと思うのみである。
私は無信仰・無宗派である。宗門を問わず、宗教の教えそのものに思うところは特にないが、宗門を問わず、教団には思うところがある。組織護持が第一になってしまうことに、教えとの乖離が見受けられるからだ。

そのような個人的な事情を主として、第二世宗道臣の著した本書には、特に興味を抱くことはなかった。時折本を貸してくださる同輩から手渡されなければ、読むこともなかっただろう。

私自身のくだらない思い込みに反して、実によい内容だった。組織のトップという立場にあるものが組織護持を主とすることに否定的な見解をもっていることが、特に強く響いた。
また、有段者とはいえ、未熟な身の上のおこがましさを押し殺して、自らに強いるように指導の手伝いをさせていただいているような者には、福音の書といえるのではなかろうかとも思えた。

 

 

本書を読んで、想起されることがある。数年前のことだ。

私がお世話になっている道院に、ある女性がやってきた。
小柄であり、五年のブランクがあるが、すり切れた黒帯を締めており、武専にも通うという意気込みがあることから、それなりに期待してよいのだろうと思っていた。

手首が外れやすいということは、前もって聞いていた。
「でも大丈夫、すぐ入れられるから」
と笑顔でいうので、一年ほど経った頃だっただろうか。「リハビリ」と彼女が自らそう称した期間中は無理をさせぬようにしていたが、そろそろよかろうと、逆小手を共に稽古することにした。
黒帯同士なら試せるアレコレもあるので、ややキツめだったかもしれない。だが、意図してそうしたわけではない。というか、そのような技術は有していない。

ほいっと倒したら、
「手首が抜けちゃったじゃない! 馬鹿ァ!」
と罵倒された。
え? ってなモンである。当初は、冗談で言っているのかと思った。
たとえ女性でも、子供であっても、手首はこんな簡単に抜けてしまうものではない。罵倒しつつも自分で手首をこねこねして、常態に復帰したようだ。「よく外れる」という言葉を裏付けるものだが、初めて出くわした者としてはただ当惑するしかなかった。

逆小手という技は一般部ならば入門後すぐに習得を開始する技であり、黒帯ならば、それこそ無数に稽古していなければならない。黒帯になるためには、逆小手のバリエーションも幾つか習得することになる。どのような「黒帯」なのか、察してあまりあるできごとだった。
他人のことをとやかく言えるほどの技量はないが、稽古の量と工夫にはそれなりに自負するところがある。スマートに決めてみせることはできないが、できなくて悩んでいる相手に似たような悩みをクリアしてきたことを告げることはできる。
以後、彼女に対してはカタチを見せるだけにとどめ、二度と逆技の稽古はしなかった。

さて、開祖自ら公言しているように、少林寺拳法は、武術習得が主ではない。武術は手段であり、目的は人間力の向上にある。その女性には、私が逆立ちしてもかなわないほどの高い対人親和力があり、新しい出会いにおいて、あっという間に輪にとけこんでいく才能があった。
だから、彼女に関して、黒帯という識別子が技術に対するものではないと理解するようになっても、オーバー30という年齢に期待できる振る舞いがあればよいと考えた。俺様何様でいやになるが、自らのレゾンデートルにも関わることであるからして、なんとかして彼女の「黒帯」を肯定したかったのだ。

だが、しかし。
しばらく様子を見ていたが、彼女のその才能は、一般的に大人が小人に対面したときに期待したい社会性には発揮されなかった。端的にいえば友達感覚というもので、いっしょになってふざけてしまうのだ。
いっしょにふざけて、少年たちのテンションをあげてから稽古に取り組ませる方法もある。自らそうすることもある。だが、ふざけることに終始してしまっては、道院に通う意味がない。
指導をしろとはいわない。少年たちに対し注意を払い、大人的態度をとってくれさえすればよい。そういうことが期待できない人物であるとわかってしまった。

 
やがて、彼女は他の趣味に打ち込み始め、疎遠になり、仕事の勤務地が遠地となったため稽古に通うことが困難になり、来なくなった。五年のブランクをおしてまで通う決意を見せた武専も留年し、休学となった。

鬱でひきこもっていた時期があったと、かつて本人は明るく語った。
当初見せた熱意の背景には、それを打破したいという思いがあったのだろう。その意気やよし。だが、燃え尽きてしまったということになろうか。
あるいは私が知らない事情があるのかもしれない。

私自身も仕事やMMOにハマって、通わなくなってしまった時期がある。今でこそ休まず通っているが、当時は先生や先輩の間で「もう来ないな」と言われていたことを、先生自身の口から教えていただいた。
個人的には、やれるならやればよいと考えている。それがまだ許される段階であろうと考えている。組織護持に否定的な見解をもてるのも、このゆえであろう。

少林寺拳法の教えは特別なものではない。社会的に生きる人間ならば、誰もがそう振舞ってしかるべきことがらを気負いなくやろうじゃないかと述べているにすぎない。だが、それを行うことは現代日本社会では難しくなってきており、気負わなければできないと感じている。

修学中という気楽な立場においても、自ら立つ、立ち続ける、ということは、私が思うよりも難易度が高いことなのかもしれない。

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