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2010年8月31日 (火)

読物 『甘粕正彦 乱心の曠野』

 時代は、時として人を選ぶ。甘粕は時代を自分から選択する前に、時代の方から魅入られ、歴史の表舞台に心ならずもひきずり出されてしまった男だった。

P.12

 大正十二年十月八日に開かれた第一回軍法会議で、判士(陸軍法務官)の小川關治郎(おがわせきじろう)は、甘粕に向かってまず、社会主義者に対する一般的な感想を尋ねた。甘粕は昂然と胸を張って、よどみなく答えた。
「思想問題については、以前ちょっと研究したことがあります。この頃は特別研究しておりませんが、今日の思想界がほとんど混乱状態に陥り、刻一刻と危機に瀕していることはいまさら申しあげるまでもなきことで、国家のために憂慮にたえません。かかる危機的状況を何とかして一日も早く救い、ひいては社会の改善をはかりたい希望をもっておりました。
 特にわが帝国は天佑とでも申しましょうか、西洋各国が五、六百年の間に繰り返し繰り返しやっと文明をかたちづくったのに対し、わずか五、六十年の間に建設することができました。この光輝ある帝国に不純なる思想を芽生えさせようとするのは、天と俱に許さざるところであります。
 社会主義の根本は、人間が肉体を離れて霊にならなければできないことですが、よしその根本は間違っていても聞くべきものもあります。しかし、無政府主義にいたっては、国家に対し、国体をと毒し、大和民族の帰結を害うことの甚だしきものであります。
 かかる危険思想は、国家を憂える者が決然と起って排斥すると同時に、建国の大本を無視する獅子身中の虫は、天に代わって制裁を加えなければなりません」

P.85

 この裁判の異常さは、宗一殺害に関与したとして自首してきた東京憲兵隊の三人を無罪にしたことに象徴されている。
 これでは宗一少年は誰にも殺されなかったことになる。
 そもそもこの軍法会議は、審理する時間が極端に短い異例のスピード裁判だった。十月八日に初公判が開かれ、六回の審理を経て、結審したのが十一月二十四日、判決が言い渡されたのが十二月八日だから、審理に費やした期間はわずか二カ月である。
 第一回軍法会議のあと、弁護側の忌避申請によって、判士の小川關治郎(陸軍法務官)が突然解任され、代わって第四師団の告森果陸軍法務官が選任されたのも、不可解である。
 小川忌避の理由は、小川と殺害された宗一少年は縁戚関係にあり、審理に予断が入るのではないかという懸念からだった。だがそれは表向きの理由で、甘粕に対する追求が厳しかった小川をこのまま判士にとどめておけば、やがて軍上層部と事件の関連性も問われるのではないかと、軍上層部が疑心暗鬼にかられた疑いが濃厚である。
 小川忌避の表向きの理由とされた宗一少年との縁戚関係云々にしても、小川が、宗一の父親の兄嫁の妹の夫の祖父の従兄弟の養家先の孫という、一読しただけではとても頭に入らない遠い縁戚関係だったから、こじつけというより難癖以外の何物でもなかった。
 余談ながら、小川はその後、永田鉄山陸軍軍務局長が急進派軍人の相沢三郎に刺殺された昭和十年の相沢事件や、その翌年の二・二六事件の軍法会議の判士をつとめるなど、軍の上層部にからむ厄介な事件ばかり担当させられた。

P.114

(甘粕事件の犠牲者の解剖所見を記した)田中軍医は昭和の初め頃、軍医を辞め、東京・池袋で開業医をはじめた。
「ところが、父は異例にも四十歳を過ぎて召集され、中支で戦死しました。母は生前、クリスチャンだった父が、途中で軍医を辞めた懲罰人事に違いない、と言っていました。私もそう思います。もしかすると、高齢での召集には、アナキストの検死を担当したことが関係あったかもしれません」

P.141

 これは昭和五十三年当時東京帝国大学の史料編纂所に勤務していた森克己が、満州事変と満州建国に関わった五十人あまりの関係者たちを訪ねてインタビューした超一級資料である。関係者が全員物故した昭和五十一年に『満州事変の裏面史』として刊行された。
 昭和十六年に東大から満州の建国大学に移った森は、同書の「はじめに」で述べている。

<おそらく私ほど多くの満州事変関係者に会って、直接腹蔵なく秘められた事実を聞きだした者は、ほかには一人もいないと自負している。私は以上の人々に、「伺った話はここだけの話にして、御存命中は、決して公にいたしません。唯歴史家として真実を何らかの形で後世に残さねばならないと考えますので伺う次第です。また調査の結果が国家に役立つ点があれば、参謀本部にも提出するつもりです」と話して了解も得た。そして今日までその約束を堅く守ってきた>

P.253

 甘粕と親しかった関係者が、満州の甘粕について一様に言い残した言葉がある。それは、ノーブルさを保持したまま、満州の”魔王”になることを覚悟した甘粕の変貌と断念を一言で言い当てて、みごとである。
 甘粕の趣味は、釣りと鴨撃ち、それに謀略だった――。

P.277

 大川周明が主宰した東亜経済調査局附属研究所で、昭和十四年頃、大きなトランクを提げた甘粕を何度か見かけたという同研究所OBの山本哲郎氏の証言は、すでに紹介した。山本氏が入所した同研究所の採用条件と、特務を帯びてアジア各国に派遣されて帰国するまでの話は、甘粕がつくった大東協会の性格を知る上で参考になる。
「私が長野県の諏訪中学に通っていた頃、東亜経済調査局附属研究所から研究生募集の通知が来ました。採用条件に次の条件があったことをはっきり覚えています。
 ①語学、数学に秀でた者
 ②容貌に特徴なき者
 ③係累少なき者
 いかにも怪しい(笑)。学校の先生も『まあ、スパイ養成機関のようなものだろう』と言っていました。しかし、そこで十年過ごせば、一万円の退職金がもらえるという好条件もあって、そこに応募することに決めました。研究所に入れば、入所中でも月に五円支給されるという条件も魅力でした。研究所に入ったのは昭和十四年のことです」

P.307

 満州事変の謀略にあたってはお互いに力量を認めあった石原と甘粕の関係は、東条の関東軍参謀長就任をめぐって冷たいものにかわっていた。甘粕は石原について、親しい間柄の武藤富男にこう語っている。
「石原完爾は私の親しい同僚です。彼は大佐までは勤まる人ですが、将にはなれない男なのです。彼は参謀としては素晴らしいが、衆を率いる男ではありません。石原が満州にいることは、今では満州のためになりません。私は彼に帰れといいました」
 石原は昭和十三年八月、予備役編入願いを関東軍司令官に提出して帰国の途に就いた。満州最大の生みの親だった石原は、これ以後、満州に二度と足を踏み入れることはなかった。
 石原との関係修復を試みようと、”子飼い”の甘粕を媒介役とした東条のトライアングル構想は、所詮は夢想の産物でしかなかった。石原と甘粕は、いつしかお互いのなかに危険な匂いを嗅ぎとるようになっていた。
 それはいうなれば、天才肌の思想家が官僚型の実務家に、官僚型の実務家が天才肌の思想家に感じる危険さだった。
 甘粕は石原を「明後日の計画は素晴らしいが、明日が抜けている」といい、石原は甘粕を、甘粕が兄事する東条にあてつけるように「思想のない実務屋」と呼んだ。

P.332

 ――東条と甘粕は軍事情報をめぐって時に激しく対立した。特に東条が作戦開始を決定した昭和十九年三月からのインパール作戦に関しては、インド方面にまで子飼いの諜報員をもぐり込ませて独自の情報網をもつ甘粕は強硬に反対した。
 結果は甘粕の危惧した通りだった。日本軍は投入した十万の兵力の半分を失い、占領したビルマから撤退する結果となった。そればかりか、インパール作戦の中止決定から二週間後の昭和十九年七月十八日、東条内閣は瓦解した。

P.335

 思想の科学研究会会員の仁科悟郎が『共同研究 転向』(下巻)のなかに、「満州国の建国者」と題して甘粕と石原の比喩論を書いている。本題とは少し離れるが、そこに二人の思想の特質がやや類型的だが、わかりやすく述べられているので、紹介しておきたい。

<石原は人を問題にすれば、甘粕は原理を。それは、石原が、完全な一単細胞動物としての人間が、機構の中では独立体として存在することを目指すのに、甘粕の要求する人間は、組織の中での、部分人、巨大な機械の一つのネジである。
 したがって前者が誠実主義をモットーにするならば、後者は能率主義を、前者が動機を重視すれば、後者は機能を。組織に問題が起これば、前者は人にまず第一に、しかも最大の要因を求め、後者は人にもその一つの原因を探す。
 石原の周辺の人たちは、石原に「何のために」と聞かれれば、その目的を尋ねられたものと考え、甘粕ならおそらく、その理由を聞かれたものだと考えるだろう。
 石原は、甘粕にいわせると「やくざ級」の無名人を関心の中心にし、甘粕は有名な権力者に接近する。石原が人間の類似点を、周辺の人に見出そうとするのに、甘粕は相違点を見る。
 組織の中での位置は、石原はかたわらに居るのに甘粕は裏面に、そして組織づくりの方向は、前者がヨコへ、後者はタテへ。石原が地方分権を目指せば、甘粕は中央集権を。現実にはこれとうらはらに、前者は団体統一が主張され、後者は分散拡大が行われやすい。石原の組織は防禦型で、甘粕のは攻撃型である>

P.336

 武藤は甘粕に会ってから間もなく、芸者のいる料理屋に誘われた。甘粕はその席で、「あなたは日本の歴史上の人物で誰が好きですか。誰が嫌いですか」と単刀直入に聞いてきた。
 武藤が出し抜けの質問に返答に窮していると、甘粕はおもむろに長広舌をはじめた。
「私の嫌いな人物は二人います。その一人は菅原道真です。菅原道真は左大臣まで昇進したが、太政大臣まで出世したくて猟官運動をやった。ところがそれに失敗して藤原時平のために官を追われ、筑紫に流されることになった。道真はそのときも宇多上皇にすがって留任運動をやった。君しがらみとなりて止めよ、というのはそのときの歌です。袞竜の袖に隠れて自分の地位を守ろうとしたのです。陛下を自分のために利用する近頃の政治家によく似ているではありませんか。ところがこれにも失敗して筑紫に流されることになった。そのときも、駅長悲しむなかれ、時の変わり改むるを、と泣き言をこぼしている。筑紫に流されてから詠んだ歌も、国を思い天子を思うより、己を主にしている。秋思の詩篇独り断腸、恩賜の御衣なおここにありなどと、自分中心の態度です」
 武藤が、甘粕がなかなか学のあることと、面白い見方に感心しながら、もう一人嫌いな人は誰ですか、と尋ねると、甘粕は「乃木大将です。あの人はいまの時代なら大佐までしかなれない人物です」とばっさり斬って捨てた。
 ではあなたの好きな人は、という武藤の質問にはまた長広舌がはじまった。
「私の好きな人物は悪源太義平です。彼は人のために尽くして損ばかりしている。人のために損をしつづけて、一生を終ってしまった。保元の乱には待賢門の戦で平重盛を追いかけて、もう一歩で討ちとるところまで行ったのに、自分の家来の鎌田兵衛が敵に捕らえられ首を掻き切られようとしているのを見て、重盛を逃して鎌田兵衛を救った。重盛を討つことはいつでもできるが、自分の愛する家来が殺されてしまったなら、二度と帰ってこない。そこに彼のよさがあります。歴史は決して真実を伝えません。つまらない男が偉大な人間のように扱われたり、本当は立派な人間が名も現れず埋もれたりするのです。歴史の記録は表面的であったり、時々偽りだったりします。真実が埋もれたままで歳月の経過によって忘れられてしまう場合がしばしばあるのです」
 これを聞いて武藤は、ハッと思った。目の前の人物が、本当に大杉夫婦と宗一少年を殺めた下手人なのか。こんな教養の高い人間がそんな大それたことをしたのか・・・・・・。
 武藤はそう記したあと、「自分は大杉事件に疑いをもちはじめ、新聞報道や人の噂で人物を推量していたことの誤りを悟った。甘粕は『人物は来りて見よ』の典型だった」と述懐している。

P.343

「西安で印象に残っているのは、犬です。西安の犬って、みんな赤い目をしているんです。なぜだかわかりますか? 人間の肉を食べているからです。当時の西安は貧しいところで、餓死者がとても多かった。死者は土葬されますが、犬がそれを掘り返して食べるんです。犬は人の肉を食べると目が赤くなるんです。本当です。だから、赤い目をした犬がとても怖かった」

P.424

 甘粕の資金源の大東公司で働いた斎藤俊雄は、大東公司が大量の苦力を口入して完成させた松花江の豊満ダムや鴨緑江の水豊ダムの建設責任者の久保田豊が戦後設立した日本工営に嘱託として身を置いた。
 日本工営は平成十四年二月の衆議院予算委員会で共産党の佐々木憲昭が、北方領土の国後島に鈴木宗男が建設した日本人とロシア人の友好の家、いわゆる”ムネオハウス”の入札にからむ疑惑を告発したODA事業専門の建設コンサルタント会社である。
 日本工営を設立した久保田豊がODA事業を巧みに利用した”政商”といわれるのは、久保田が吉田茂や岸信介、池田勇人などの歴代総理と深く結びつき、日本からビルマ、ラオス、ベトナムなどに支払われる戦時賠償金で現地のダム建設調査等のコンサルタント業務を請け負ったことが、同社の発展の礎となったからである。
 斎藤俊雄の義理の兄の清野剛が、大東公司と大東協会で甘粕の懐刀だったことはだいぶ前に述べた。そんな関係から戦後、斎藤のところによく出入りした清野の長男の清野躬行氏は、日本工営はインドネシア大統領のスカルノと、後にデヴィ夫人を名乗るクラブホステスの根本七保子を最初に結びつけた会社だということを斎藤自身の口から聞いている。
 デヴィ夫人がらみのインドネシア賠償疑惑スキャンダルに関しては、東日貿易の久保正雄や木下産商の木下茂の名前が取り沙汰されることが多い。だが、インドネシア政府と日本政府のそもそもの癒着関係のレールを敷いたのは日本工営だった。ちなみに日本工営がインドネシア政府から排水トンネル工事と河川の総合開発の大型コンサルタント業務を受注した昭和三十四年、根本七保子はスカルノの招きでインドネシアに渡っている。

P.429

甘粕正彦という名を初めて知ったのは『帝都物語』による。
スーパー明治大戦ともいうべき同書は歴史上著名な人物が数多く登場したが、初読の当時は、それらのほとんどをスルーしてすごした。甘粕の名もその一つだが、その特異な名の体そして響きは、鮮烈に記憶している。
そのとき、軍人が、どういう経緯で映画会社のトップになりえたのかと疑問に思ったものだが、理解しないまま過ごしてきてしまった。映画がプロパガンダに利用されることなど露ほども知らぬことの頃である。

甘粕正彦。
主義者殺し。
満映理事長。

大杉栄という民間人のアナキストを殺害した<甘粕事件>の首謀者とされる。
その意味もその内実もこれまでは全く知るところではなかったが、本書ではそれを主に取り上げている。要約すると、個人的な犯罪ではなく国策であり、甘粕はスケープゴートだった、ということになる。

その真偽はさておき、膨大な資料にあたり、数多くのインタビューを情報源としつつも、著者の恣意的な論述展開がいささか鼻につく。
情報の多さは、主張の正しさを必ずしも補強するものではない。

『阿片王―満州の夜と霧』、『小泉純一郎―血脈の王朝』と読んできて、著者の文筆的性癖がわかってきた。

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コメント

映画『ラスト・エンペラー』での坂本龍一の怪演が思い出されました。
あの映画では隻腕のヒトになってましたが、実際そうだったんですか?

>『ラスト・エンペラー』
本書によると、あれは映画用の演出だそうです。
また、本書に添付の写真を見る限りではそのようなことはないように見受けられます。

竹中直人の甘粕よりはマシだとの評ですが、いずれもアレだというのが著者の主張です。

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