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2010年8月

2010年8月31日 (火)

読物 『甘粕正彦 乱心の曠野』

 時代は、時として人を選ぶ。甘粕は時代を自分から選択する前に、時代の方から魅入られ、歴史の表舞台に心ならずもひきずり出されてしまった男だった。

P.12

 大正十二年十月八日に開かれた第一回軍法会議で、判士(陸軍法務官)の小川關治郎(おがわせきじろう)は、甘粕に向かってまず、社会主義者に対する一般的な感想を尋ねた。甘粕は昂然と胸を張って、よどみなく答えた。
「思想問題については、以前ちょっと研究したことがあります。この頃は特別研究しておりませんが、今日の思想界がほとんど混乱状態に陥り、刻一刻と危機に瀕していることはいまさら申しあげるまでもなきことで、国家のために憂慮にたえません。かかる危機的状況を何とかして一日も早く救い、ひいては社会の改善をはかりたい希望をもっておりました。
 特にわが帝国は天佑とでも申しましょうか、西洋各国が五、六百年の間に繰り返し繰り返しやっと文明をかたちづくったのに対し、わずか五、六十年の間に建設することができました。この光輝ある帝国に不純なる思想を芽生えさせようとするのは、天と俱に許さざるところであります。
 社会主義の根本は、人間が肉体を離れて霊にならなければできないことですが、よしその根本は間違っていても聞くべきものもあります。しかし、無政府主義にいたっては、国家に対し、国体をと毒し、大和民族の帰結を害うことの甚だしきものであります。
 かかる危険思想は、国家を憂える者が決然と起って排斥すると同時に、建国の大本を無視する獅子身中の虫は、天に代わって制裁を加えなければなりません」

P.85

 この裁判の異常さは、宗一殺害に関与したとして自首してきた東京憲兵隊の三人を無罪にしたことに象徴されている。
 これでは宗一少年は誰にも殺されなかったことになる。
 そもそもこの軍法会議は、審理する時間が極端に短い異例のスピード裁判だった。十月八日に初公判が開かれ、六回の審理を経て、結審したのが十一月二十四日、判決が言い渡されたのが十二月八日だから、審理に費やした期間はわずか二カ月である。
 第一回軍法会議のあと、弁護側の忌避申請によって、判士の小川關治郎(陸軍法務官)が突然解任され、代わって第四師団の告森果陸軍法務官が選任されたのも、不可解である。
 小川忌避の理由は、小川と殺害された宗一少年は縁戚関係にあり、審理に予断が入るのではないかという懸念からだった。だがそれは表向きの理由で、甘粕に対する追求が厳しかった小川をこのまま判士にとどめておけば、やがて軍上層部と事件の関連性も問われるのではないかと、軍上層部が疑心暗鬼にかられた疑いが濃厚である。
 小川忌避の表向きの理由とされた宗一少年との縁戚関係云々にしても、小川が、宗一の父親の兄嫁の妹の夫の祖父の従兄弟の養家先の孫という、一読しただけではとても頭に入らない遠い縁戚関係だったから、こじつけというより難癖以外の何物でもなかった。
 余談ながら、小川はその後、永田鉄山陸軍軍務局長が急進派軍人の相沢三郎に刺殺された昭和十年の相沢事件や、その翌年の二・二六事件の軍法会議の判士をつとめるなど、軍の上層部にからむ厄介な事件ばかり担当させられた。

P.114

(甘粕事件の犠牲者の解剖所見を記した)田中軍医は昭和の初め頃、軍医を辞め、東京・池袋で開業医をはじめた。
「ところが、父は異例にも四十歳を過ぎて召集され、中支で戦死しました。母は生前、クリスチャンだった父が、途中で軍医を辞めた懲罰人事に違いない、と言っていました。私もそう思います。もしかすると、高齢での召集には、アナキストの検死を担当したことが関係あったかもしれません」

P.141

 これは昭和五十三年当時東京帝国大学の史料編纂所に勤務していた森克己が、満州事変と満州建国に関わった五十人あまりの関係者たちを訪ねてインタビューした超一級資料である。関係者が全員物故した昭和五十一年に『満州事変の裏面史』として刊行された。
 昭和十六年に東大から満州の建国大学に移った森は、同書の「はじめに」で述べている。

<おそらく私ほど多くの満州事変関係者に会って、直接腹蔵なく秘められた事実を聞きだした者は、ほかには一人もいないと自負している。私は以上の人々に、「伺った話はここだけの話にして、御存命中は、決して公にいたしません。唯歴史家として真実を何らかの形で後世に残さねばならないと考えますので伺う次第です。また調査の結果が国家に役立つ点があれば、参謀本部にも提出するつもりです」と話して了解も得た。そして今日までその約束を堅く守ってきた>

P.253

 甘粕と親しかった関係者が、満州の甘粕について一様に言い残した言葉がある。それは、ノーブルさを保持したまま、満州の”魔王”になることを覚悟した甘粕の変貌と断念を一言で言い当てて、みごとである。
 甘粕の趣味は、釣りと鴨撃ち、それに謀略だった――。

P.277

 大川周明が主宰した東亜経済調査局附属研究所で、昭和十四年頃、大きなトランクを提げた甘粕を何度か見かけたという同研究所OBの山本哲郎氏の証言は、すでに紹介した。山本氏が入所した同研究所の採用条件と、特務を帯びてアジア各国に派遣されて帰国するまでの話は、甘粕がつくった大東協会の性格を知る上で参考になる。
「私が長野県の諏訪中学に通っていた頃、東亜経済調査局附属研究所から研究生募集の通知が来ました。採用条件に次の条件があったことをはっきり覚えています。
 ①語学、数学に秀でた者
 ②容貌に特徴なき者
 ③係累少なき者
 いかにも怪しい(笑)。学校の先生も『まあ、スパイ養成機関のようなものだろう』と言っていました。しかし、そこで十年過ごせば、一万円の退職金がもらえるという好条件もあって、そこに応募することに決めました。研究所に入れば、入所中でも月に五円支給されるという条件も魅力でした。研究所に入ったのは昭和十四年のことです」

P.307

 満州事変の謀略にあたってはお互いに力量を認めあった石原と甘粕の関係は、東条の関東軍参謀長就任をめぐって冷たいものにかわっていた。甘粕は石原について、親しい間柄の武藤富男にこう語っている。
「石原完爾は私の親しい同僚です。彼は大佐までは勤まる人ですが、将にはなれない男なのです。彼は参謀としては素晴らしいが、衆を率いる男ではありません。石原が満州にいることは、今では満州のためになりません。私は彼に帰れといいました」
 石原は昭和十三年八月、予備役編入願いを関東軍司令官に提出して帰国の途に就いた。満州最大の生みの親だった石原は、これ以後、満州に二度と足を踏み入れることはなかった。
 石原との関係修復を試みようと、”子飼い”の甘粕を媒介役とした東条のトライアングル構想は、所詮は夢想の産物でしかなかった。石原と甘粕は、いつしかお互いのなかに危険な匂いを嗅ぎとるようになっていた。
 それはいうなれば、天才肌の思想家が官僚型の実務家に、官僚型の実務家が天才肌の思想家に感じる危険さだった。
 甘粕は石原を「明後日の計画は素晴らしいが、明日が抜けている」といい、石原は甘粕を、甘粕が兄事する東条にあてつけるように「思想のない実務屋」と呼んだ。

P.332

 ――東条と甘粕は軍事情報をめぐって時に激しく対立した。特に東条が作戦開始を決定した昭和十九年三月からのインパール作戦に関しては、インド方面にまで子飼いの諜報員をもぐり込ませて独自の情報網をもつ甘粕は強硬に反対した。
 結果は甘粕の危惧した通りだった。日本軍は投入した十万の兵力の半分を失い、占領したビルマから撤退する結果となった。そればかりか、インパール作戦の中止決定から二週間後の昭和十九年七月十八日、東条内閣は瓦解した。

P.335

 思想の科学研究会会員の仁科悟郎が『共同研究 転向』(下巻)のなかに、「満州国の建国者」と題して甘粕と石原の比喩論を書いている。本題とは少し離れるが、そこに二人の思想の特質がやや類型的だが、わかりやすく述べられているので、紹介しておきたい。

<石原は人を問題にすれば、甘粕は原理を。それは、石原が、完全な一単細胞動物としての人間が、機構の中では独立体として存在することを目指すのに、甘粕の要求する人間は、組織の中での、部分人、巨大な機械の一つのネジである。
 したがって前者が誠実主義をモットーにするならば、後者は能率主義を、前者が動機を重視すれば、後者は機能を。組織に問題が起これば、前者は人にまず第一に、しかも最大の要因を求め、後者は人にもその一つの原因を探す。
 石原の周辺の人たちは、石原に「何のために」と聞かれれば、その目的を尋ねられたものと考え、甘粕ならおそらく、その理由を聞かれたものだと考えるだろう。
 石原は、甘粕にいわせると「やくざ級」の無名人を関心の中心にし、甘粕は有名な権力者に接近する。石原が人間の類似点を、周辺の人に見出そうとするのに、甘粕は相違点を見る。
 組織の中での位置は、石原はかたわらに居るのに甘粕は裏面に、そして組織づくりの方向は、前者がヨコへ、後者はタテへ。石原が地方分権を目指せば、甘粕は中央集権を。現実にはこれとうらはらに、前者は団体統一が主張され、後者は分散拡大が行われやすい。石原の組織は防禦型で、甘粕のは攻撃型である>

P.336

 武藤は甘粕に会ってから間もなく、芸者のいる料理屋に誘われた。甘粕はその席で、「あなたは日本の歴史上の人物で誰が好きですか。誰が嫌いですか」と単刀直入に聞いてきた。
 武藤が出し抜けの質問に返答に窮していると、甘粕はおもむろに長広舌をはじめた。
「私の嫌いな人物は二人います。その一人は菅原道真です。菅原道真は左大臣まで昇進したが、太政大臣まで出世したくて猟官運動をやった。ところがそれに失敗して藤原時平のために官を追われ、筑紫に流されることになった。道真はそのときも宇多上皇にすがって留任運動をやった。君しがらみとなりて止めよ、というのはそのときの歌です。袞竜の袖に隠れて自分の地位を守ろうとしたのです。陛下を自分のために利用する近頃の政治家によく似ているではありませんか。ところがこれにも失敗して筑紫に流されることになった。そのときも、駅長悲しむなかれ、時の変わり改むるを、と泣き言をこぼしている。筑紫に流されてから詠んだ歌も、国を思い天子を思うより、己を主にしている。秋思の詩篇独り断腸、恩賜の御衣なおここにありなどと、自分中心の態度です」
 武藤が、甘粕がなかなか学のあることと、面白い見方に感心しながら、もう一人嫌いな人は誰ですか、と尋ねると、甘粕は「乃木大将です。あの人はいまの時代なら大佐までしかなれない人物です」とばっさり斬って捨てた。
 ではあなたの好きな人は、という武藤の質問にはまた長広舌がはじまった。
「私の好きな人物は悪源太義平です。彼は人のために尽くして損ばかりしている。人のために損をしつづけて、一生を終ってしまった。保元の乱には待賢門の戦で平重盛を追いかけて、もう一歩で討ちとるところまで行ったのに、自分の家来の鎌田兵衛が敵に捕らえられ首を掻き切られようとしているのを見て、重盛を逃して鎌田兵衛を救った。重盛を討つことはいつでもできるが、自分の愛する家来が殺されてしまったなら、二度と帰ってこない。そこに彼のよさがあります。歴史は決して真実を伝えません。つまらない男が偉大な人間のように扱われたり、本当は立派な人間が名も現れず埋もれたりするのです。歴史の記録は表面的であったり、時々偽りだったりします。真実が埋もれたままで歳月の経過によって忘れられてしまう場合がしばしばあるのです」
 これを聞いて武藤は、ハッと思った。目の前の人物が、本当に大杉夫婦と宗一少年を殺めた下手人なのか。こんな教養の高い人間がそんな大それたことをしたのか・・・・・・。
 武藤はそう記したあと、「自分は大杉事件に疑いをもちはじめ、新聞報道や人の噂で人物を推量していたことの誤りを悟った。甘粕は『人物は来りて見よ』の典型だった」と述懐している。

P.343

「西安で印象に残っているのは、犬です。西安の犬って、みんな赤い目をしているんです。なぜだかわかりますか? 人間の肉を食べているからです。当時の西安は貧しいところで、餓死者がとても多かった。死者は土葬されますが、犬がそれを掘り返して食べるんです。犬は人の肉を食べると目が赤くなるんです。本当です。だから、赤い目をした犬がとても怖かった」

P.424

 甘粕の資金源の大東公司で働いた斎藤俊雄は、大東公司が大量の苦力を口入して完成させた松花江の豊満ダムや鴨緑江の水豊ダムの建設責任者の久保田豊が戦後設立した日本工営に嘱託として身を置いた。
 日本工営は平成十四年二月の衆議院予算委員会で共産党の佐々木憲昭が、北方領土の国後島に鈴木宗男が建設した日本人とロシア人の友好の家、いわゆる”ムネオハウス”の入札にからむ疑惑を告発したODA事業専門の建設コンサルタント会社である。
 日本工営を設立した久保田豊がODA事業を巧みに利用した”政商”といわれるのは、久保田が吉田茂や岸信介、池田勇人などの歴代総理と深く結びつき、日本からビルマ、ラオス、ベトナムなどに支払われる戦時賠償金で現地のダム建設調査等のコンサルタント業務を請け負ったことが、同社の発展の礎となったからである。
 斎藤俊雄の義理の兄の清野剛が、大東公司と大東協会で甘粕の懐刀だったことはだいぶ前に述べた。そんな関係から戦後、斎藤のところによく出入りした清野の長男の清野躬行氏は、日本工営はインドネシア大統領のスカルノと、後にデヴィ夫人を名乗るクラブホステスの根本七保子を最初に結びつけた会社だということを斎藤自身の口から聞いている。
 デヴィ夫人がらみのインドネシア賠償疑惑スキャンダルに関しては、東日貿易の久保正雄や木下産商の木下茂の名前が取り沙汰されることが多い。だが、インドネシア政府と日本政府のそもそもの癒着関係のレールを敷いたのは日本工営だった。ちなみに日本工営がインドネシア政府から排水トンネル工事と河川の総合開発の大型コンサルタント業務を受注した昭和三十四年、根本七保子はスカルノの招きでインドネシアに渡っている。

P.429

甘粕正彦という名を初めて知ったのは『帝都物語』による。
スーパー明治大戦ともいうべき同書は歴史上著名な人物が数多く登場したが、初読の当時は、それらのほとんどをスルーしてすごした。甘粕の名もその一つだが、その特異な名の体そして響きは、鮮烈に記憶している。
そのとき、軍人が、どういう経緯で映画会社のトップになりえたのかと疑問に思ったものだが、理解しないまま過ごしてきてしまった。映画がプロパガンダに利用されることなど露ほども知らぬことの頃である。

甘粕正彦。
主義者殺し。
満映理事長。

大杉栄という民間人のアナキストを殺害した<甘粕事件>の首謀者とされる。
その意味もその内実もこれまでは全く知るところではなかったが、本書ではそれを主に取り上げている。要約すると、個人的な犯罪ではなく国策であり、甘粕はスケープゴートだった、ということになる。

その真偽はさておき、膨大な資料にあたり、数多くのインタビューを情報源としつつも、著者の恣意的な論述展開がいささか鼻につく。
情報の多さは、主張の正しさを必ずしも補強するものではない。

『阿片王―満州の夜と霧』、『小泉純一郎―血脈の王朝』と読んできて、著者の文筆的性癖がわかってきた。

2010年8月29日 (日)

読物 『小泉純一郎―血脈の王朝』

「恩賜のタバコといっても、全部で十五種類あるんです。恩賜のタバコっていうと、すべて菊の花のマークがついていると思われていますが、茎に葉っぱがついたものもあれば、菊の軸芯のところがちっちゃな桜になっているものもある。これは秘書官クラスがもらえるタバコです。恩賜の賜の字がついていない桜だけのものもある。賜の字に桜がついているやつだけでも四種類ある。菊の花だけの紋章がついたタバコは叙勲者クラスがもらえる」
P.13

 飯島が叙勲制度にこれほど詳しいのは、叙勲を求める有権者の陳情がそれほど多いことの傍証でもあろう。
P.15

著者が本文を記す原動力となったものは怒りであろうか。
初出は週刊誌、ゆえのことであろうか。

小泉政権下にある最中、TVをほとんど見なくなっていた当時、小泉劇場といわれてもあまりピンとこなかったが、ニュース以外、ほとんど見なくなっていたにもかかわらず、それなりに姿を見かけたということは、TVメディアへの露出は大きかったのだろう。

為政者の、リアルタイム性の高いメディアの活用は、それらが登場してからのけっして長くはない歴史の中で幾度も特筆されており、活用する側だけを糾弾するのはフェアではない。
メディアとその利用者を同列に糾弾していたなら、本書に感じる抵抗感も減じたであろうが、それに関しては「気づき」を待っているようなフシがあり、いささか腹に据えかねる。

とはいえ、見識の浅さを反省させられたことには違いない。

2010年8月28日 (土)

読物 『東京アンダーワールド』

 やがて、銀行関係の複雑な書類を偽造するのが天才的にうまい、カナダ人放浪者が仲間入りした。
 白系ロシア人コミュニストの資本家も二人加わった。この二人は一日の仕事が終わると、モウモウと煙のたちこめる向かいのヤキトリ屋で、先輩のレオ・ヤスコフとともにぐでんぐでんになりながら、よくロシアン・エスキモーの歌をうたった。
 寝る時間がくると、レオはよろよろとオフィスに戻り、新しい日本酒の栓を抜いて、二階にあるビニールカバーのソファに、酒ビンを抱えながら寝ころがる。朝になると、ビンは空っぽだ。ザペッティの知っているかぎり、眠りながら酒を飲める人物はレオぐらいしかいない。

単行本 P.33

<やはり日本占領は根から腐っている・・・・・・>ブレイクモアがそんな信念を深めたのも無理はない。
 マッカーサーは日本占領を、「精神革命」と豪語してはばからなかった。あきらかに検閲や差別がおこなわれたにもかかわらずだ。ブレイクモアの報告書は、そんなマッカーサーのイメージをそこなう、と判断した上層部は、報告書を闇に葬り去るようブレイクモアに命じた。するとブレイクモアは、抗議の意味でSCAPを辞めた。
 しかし、彼がなによりショックを受けたのは、調査のためにその売春宿の日本人女将を、三時間にわたってインタビューしたときのことだ。
 女将が上流階級出身であることは、すぐにぴんときた。威厳のある洗練された物腰の中年女性で、なにより、彼女の話すていねいな日本語が、とてもエレガントで美しい。ブレイクモアは、GHQのなかで現地語が話せる数少ないアメリカ人スタッフのひとりだが、その彼が「うっとりする」ほど美しい日本語だ。
 じっさい彼女は、裕福な家庭の娘であることが判明した。しかし、戦争でなにもかも失って一文無しとなった今、生きのびるために、そしてなにより子供たちを養うために、売春という手段にたよらざるを得なかったという。
 ところが、女将が英語をしゃべりだしたとたん、”洗練されたレディ”のイメージはガラガラと崩れた。彼女の口をついて出るのは、GIから知らず知らずのうちに学んだ、おそろしく下品な言葉ばかり。
「おい、どーした、てめぇ?」女将はブレイクモアにそう言った。「てめぇもファックが好きなんだろ、え? このスケベ野郎」
 これがマッカーサーの言う「新生日本」だとしたら、関わり合いになるのはまっぴらだ――ブレイクモアはそう思った。

P.38

 ホテルのアーケードにある宝石店は、ときには客室まで宝石を運んで販売することで知られていた。新米の宝石泥棒たちは、そこに目をつけた。
 ザペッティのシナリオによると、
 ――まず、マックファーランドが宝石店に電話をかけ、商品をプライベートに見たいから部屋まで運んでほしい、と呼びつける。販売員がやってきたら、スーツケースをさっと開けて、びっしり詰まった現金――もちろん、本物の札は一番上だけで、下は全て新聞紙――を見せびらかす。支払い能力があることを証明するためだ。
 つぎに、売買成立を祝う意味で、マックファーランドがグラス入りの飲み物を二つ出す。睡眠薬入りのオレンジジュースだ。マックファーファンドとセールスマンはどちらもこれを飲んで、数分後には床にばったりと倒れる。
 いよいよザペッティの出番だ。ひそんでいた隣室から現れ、ダイヤモンドとスーツケースを持ってズラかる。マックファーランドは、かならず相手よりあとに目を覚まさなければならない。さらにとどめの一発として、「こいつのしわざだ」とセールスマンに罪をなすりつける――。
 そういう筋書きだ。ザペッティは、われながら名案だと思った。
 ところがマックファーランドが、「拳銃が必要だ」と言いだした。
「どうして拳銃なんか必要なんだ?」
 ザペッティがあきれて聞く。「おまえはゴジラみたいにでかいんだ。なにかあったら、そいつの頭をガシッと一発ぶん殴ればいい。だいいち、どうせクスリで気絶させるんだから、拳銃なんかいらないぜ。バカ言うな」
 しかしマックファーランドはどうしても聞かない。
「拳銃がないとだめだ」の一点張りだ。
 マックファーランドとピストルの組み合わせなど、考えただけで恐ろしい。ザペッティはマックファーランドを、普段は頭もいいしまともな男だと思っている。しかし、精神的に”あぶない”面があることも、経験から知っている。
 ある日の午後、この巨大なレスラーを車に乗せ、<ホテル・ニューヨーク>から隅田川を渡って街の中心部まで送っていったときのこと。”ネブラスカの野牛”がとつぜんキレた。車のドアを肘で何度も強打しはじめたかと思うと、狂ったように叫び声をあげながら、ダッシュボードをこぶしで力まかせにタタキはじめたのだ。バン! バン! バン!
 やがてマックファーランドは、始まりと同じくらい唐突におとなしくなった。まるで、貨物列車が通過したあとのように。シートにもたれ、血のにじんだこぶしをマッサージしながら、目的地に着くまでじっと考え込んでいた。
 新しい友人がいつも正気とはかぎらないことを、ザペッティはこのときに痛感した。その後だいぶたってから、マックがロングビーチの精神病院で長期療養した経験があることも知った。
「拳銃が必要だと言いはるなら、おれは手を引くぜ」
 ザペッティは釘をさした。「やっかいなことになるのは、目に見えてるからな」
 マックファーランドは不満そうだったが、拳銃を用意してくれるなら手を引いても許す、と言う。
 しかたがないのでザペッティは、米軍の友人にたのんで、38口径のリヴォルヴァーと、ホルスターと、数発の弾を調達。念のために弾は捨て、拳銃とホルスターだけを、指定されたとおり、マックファーランドの”愛人”の一人である韓国人青年”M”に渡した。
 十八歳になるこの高校中退者は、ラインストーンをちりばめた黒いラテン風の服に、髪は盛り上がったオールバック――当時、日本で大流行していたマンボ・ファッションだ。ザペッティが手を引いたあと、この”M"が強盗計画に引っぱり込まれることになる。

P.66

 合法、非合法グループの集合体は、一九六〇年に運命的な絶頂期を迎えることになる。
 岸信介は一九五七年に、かつての刑務所仲間、児玉誉士夫の応援もあって、まんまと首相の座を射止めていた。その岸が、国民に不人気の日米安保条約を、一九六〇年にむりやり改定させようとした。
 反対の声は高く、街頭には連日、大がかりなデモ行進がくりひろげられていた。学生も、左翼も、一般市民でさえも、日本がこの条約によって真に利するものはないし、アメリカは日本を核攻撃から守れるわけがない、と確信していた。国民がとくに怒っていたのは、アメリカのバックアップによって命拾いした元A級戦犯、岸が、条約の改定にたずさわっている事実だ。
 一九六〇年五月十九日の深夜から二十日の未明にかけて、新安保条約は衆議院で強行採決された。その間、社会党議員たちは、抗議のために議長室前でピケを張っていたが、自民党の要請で議事堂内に入った警察の手で、ゴボウ抜きにされている。
 この日から、国民の抗議運動は、ますます規模と激しさを増した。数十万の怒れる市民が、連日、街頭でジグザグデモをくりひろげた。
 ドワイト・アイゼンハワー米国大統領(通称アイク)の、条約改定を記念する訪日が決まったのは、まさにそのさなかのこと。大統領が天皇と肩を並べ、羽田空港から都内まで、オープンカーでパレードする計画も練られていた。
 ところが、日本政府はパレードを見合わせざるを得なくなった。反対派の勢いが並大抵ではないうえに、警備のために動員できる警官は、せいぜいい一万五千人しかいないからだ。
 ここで児玉が、自民党に助け船を出した。およそ三万人のヤクザ、右翼から成る「警備隊」を結成したのだ。その中には、東声会および、横浜、横須賀を根城とする稲川会のメンバーが入っていた。
 この奇抜な警備隊は、出動命令の内容からしてふるっていた。
 ――”思想倒錯者たちを成敗する”ために、棍棒(長さ一メートルほどのステッキ状の武器)を持参のうえ、明治神宮に結集せよ。参拝後、空港と都内中心部とを結ぶ要所要所に待機し、トラブルが発生したらすぐさま現場に急行し、警察を援護すべし――
 のぼり、プラカード、チラシ、拡声器、バッジ、腕章などが準備された。トラック、救急車、ヘリコプター六機、セスナ八機も用意された。自民党が準備に費やしたのは、しめて二百万ドル。
 年老いたテキヤの親分やヤクザの組長のなかから、五名が名誉ある代表団に選ばれ、アメリカ大使館に派遣されもした。元SCAP(連合軍最高司令部)司令長官の甥にあたるアメリカ大使、ダグラス・マッカーサー二世への表敬訪問のためだ。
 代表団のなかには、年老いた新宿の親分、尾津喜之助の姿もあった。かつて占領軍に、「東京でもっとも危険な人物」としてマークされた男である。
 会合の際に杯が交わされたどうかは、記録に残っていない――ヤクザのあいだでは、兄弟関係をむすぶときに、酒杯を交わす習慣がある。しかし、マッカーサーがその後、国務省に外電でこう伝えたのは事実だ。
 ――いざとなったら、さまざまな”体育会系の組織”から三万人の若者たちが、警察の応援に駆けつけるであろう――
 ”大統領びいき”のヤクザ軍団は、けっきょく出動にはいたらなかった。デモがますます過激になるにつれ、アイゼンハワーの訪日は中止されたからだ。
 しかしその発想は、少々乱暴なたとえかもしれないが、一九六八年の民主党大会で、秩序を保つためにクック郡警察に手を貸した、シカゴの暴徒たちのそれに似ていなくもない。アメリカ人の神経では、とても考えられない発想だ。ところが、日本のチンピラヤクザたちの自負心には、これがしっくりくるらしい。
「おれたちはマフィアとは違う」
 それが彼らの口癖だ。「マフィアは、金のために犯罪を犯す。一番多く金を出す人間のために働く。しかしおれたちは昔から、社会の救済のために働いている」
 すべてが終わったとき、暴力団組長の町井はこう言った。
「汚れた沼にも、ハスの花は咲く」
 アメリカの利権がからんだ、もう一つの”町井・児玉プロジェクト”があった。日韓正常化協定の基礎作りである。
 日本軍による戦時中の残虐行為のにがい記憶から、韓国人のあいだには反日感情が根強く残っていた。しかしアメリカ政府は当然のことながら、両国を結びつけたがっていた。共産圏からの脅威に備え、日韓両国に数十万の兵士を駐留させているからだ。
 児玉と朋友たちは、政府から支払われる準備金のうまい使い道を、あれこれ考えた。目の前にぶら下がっている金もうけのチャンスを、目いっぱい活かさなければ、と。
 町井の親友の中に、韓国CIAの幹部がいることが幸いした。米CIAの支援のもと、親米派の軍事独裁者、朴正煕を擁立するため、一九六〇年にゴリゴリの反日家、李承晩追い落としを工作した人物だ。これによってアメリカは、太平洋地域にNATO軍事同盟を築くことができた。
 力道山が新たに手に入れた東京のペントハウスが、韓国や自民党の高官、児玉、町井、さらにはKCIAの幹部などの、極秘の会合場所として利用されはじめるのは、このころからだ。そして会合の締めくくりには、みんなで六本木にくりだして、ピザを頬ばった。
 東京の暗黒街の連中が、このような形でアメリカのアジア政策に貢献していたとは、考えてみれば驚きである。しかし、アメリカ政府はどうとらえていたのか。のちに町井のオフィスの壁には、日韓正常化に貢献したことへの感謝状が、うやうやしく飾られることになるが、その内容から判断するかぎり、アメリカ政府にはまったくの罪の意識などなかったらしい。
 日韓基本条約は一九六五年に締結された。準備金として八千億ドルを託された児玉と町井は、朝鮮半島のためにそれを費やした。韓国にカジノや、ホテルや、キャバレー、その他のベンチャー・ビジネスをオープンするという形で。

P.102

 何が原因であるにせよ、リキは突然、二度目の手術を余儀なくされた。執刀は、聖路加病院というアメリカ系の病院からやってきた外科医チームが担当した。そしてオペが終わった三、四時間後、リキは帰らぬ人となった。
 その後、医者たちの証言によって、力道山は麻酔でショック死した、という説まで飛び出してきた。普通の日本人よりはるかに大きな体格だから、当然、麻酔の量も多くなるが、なんらかの計算ミスによって大量投与されてしまったのではないか、と。
 村田との喧嘩が偶発的なものだった、と考えている人間はほとんどいない。日本の週刊誌も、この事件については数々の不穏な推論を並べている。
 北朝鮮との関わりを重視する一部ジャーナリストたちは、力道山は米国CIAの陰謀によって消された、と信じて疑わない。――CIAが、もちろんホワイトハウスの命を受けたうえで、ヤクザの”鉄砲玉”を雇い、刺し殺させようとしたのだ、と。リキが刺されたのがCIAのたまり場であったこと、さらに彼の手術をアメリカ系の病院の外科医が担当したこと、さらに死因が麻酔の過剰投与とみられることは、単なる偶然では片づけられない――陰謀説の信奉者たちはそう主張する。
 日本の知識人のあいだでも、この説を信じる者が多い――CIAは、保守政権である自民党につながりをもっている。その保守党のリーダーたちにとって、日本の国民的ヒーローが北朝鮮の出身であり、しかも共産主義のシンパであることが発覚するのは、なにより都合が悪いはずだ――、と。
 真珠湾攻撃の記念日に、アメリカから復讐されたのだ、と主張する人々もいる――リキが刺されたのは、一九六三年一二月八日。真珠湾攻撃も、二十二年前の十二月八日(日本時間)。力道山がリング上でアメリカ人をバカにするのを、大喜びで見ている日本人たちに、アメリカがこういう形で思い知らせたのだ、と彼らは主張する。
 とはいえ、どの説にも確たる証拠があるわけではない。
 懐疑論者たちは、リキの私生活を指摘して疑問を投げかける――刺される半年前の六月に、茅ヶ崎警察署長の娘と祝言をあげ、レジャーカントリークラブの開発にのりだしたばかりではないか。北朝鮮に亡命するつもりの人間が、はたしてそんな行動をとるだろうか・・・・・・。
 日本の検察は検察で、リキはヤクザ抗争に巻き込まれて殺された、と結論づけている。住吉会と東声会のあいだで進行しているナワ張り争いの犠牲になったのだ、と。
 村田自身は、あれは単なる事故であり、誤解が生じたのであって、自分のとった行動は正当防衛だ、と主張した。しかし、検察側は村田を殺人罪で起訴。裁判の結果、懲役七年の判決が下っている。
 葬儀には、自民党の閣僚を含む各界の名士数百人をはじめ、数十万人の一般人が参列した。そのあと、力道山の亡骸は、東京都大田区にある池上本門寺の、五重塔を仰ぐ墓地に埋葬された。
 墓石にはブロンズ製の等身大の胸像が刻まれ、その下には<百田光浩>と、日本名が記されている。「金信洛」という名前はどこを探してもない。北であれ南であれ、朝鮮出身であるという記述も見つからない。
 リキの墓は、幾層もの嘘の積み重ねを、永久に保存する記念碑として建っている。「新しい日本」の基礎づくりに貢献した、嘘の積み重ねを。

P.136

 このクラブが諜報活動の温床となったのは、当然の帰結だったといえよう。
 有名な例がある。コパカバナでホステスをしていた通称「デヴィ」(本名は根本七保子)のケースだ。一九六六年の『週刊現代』によると、彼女は<東日貿易>の”秘書”に仕立てられて、スカルノに接近したという。東日貿易は、児玉誉士夫が指揮をとる日本の商社で、インドネシアへのさらなる進出をめざしていた。彼女はみごとに使命を果たした。最終的には大統領の第三夫人におさまって、スカルノの末っ子を産んだほどだ。偶然かどうかは知らないが、東日貿易はその後、スカルノが六七年に失脚するまで、ジャカルタで荒稼ぎしている。
 とはいえ、スパイ活動の大半を産み出したのは、芽生えたばかりの軍用機、民間機産業だった。
 コパカバナは、日本の大手商社が、グラマンやロッキード、マグドネル・ダグラス、ノースロップなど、大手航空機会社の重役たちを、何の疑いもなく連れていける場所とみなされていた。数十億ドル単位の契約が、こともなげに成立する場所だった。そのために、後年、驚くべき事実が判明している。日本の商社に雇われたエイジェント、すなわち、航空機買い付けの仲買人が、米国航空機会社の重役のガールフレンドとなったホステスに、こっそりと金をにぎらせ、彼女たちの目の前で展開されるビジネス交渉に、しっかりと耳を傾けさせていたのだ。
 エイジェントは彼女たちを募集し、契約にこぎつけるためのありとあらゆる情報を手に入れるよう訓練をほどこした。彼らがとくに重視したのは、燃費やメンテナンスなどの情報と、ライヴァルの大臣や防衛庁人事に関する情報だ。
「グラマン社の航空機は特定燃費に問題がある、というのは本当か?」
「大蔵大臣はXに肩入れしてるのか、それともYの方か?」
「MITIは非公式にはどんな立場をとっているのか?」
「日本の防衛庁のだれそれは、××プランに賛成しているか? △△戦略を支持しているか?」
 実際、航空機についてかなりの知識を身につけ、腕利きの産業スパイになったホステスもいる。もちろん、クラブを訪れたアメリカ人たちは、疑いのかけらさえ抱いていなかった。一九七〇年代の半ばに、<航空機販売合戦、夜の舞台裏>などと題した、コパカバナに関するスキャンダラスな雑誌記事が、駅の売店をにぎわせるまでは――。

P.145

<ニコラス>の店頭には、巨大な看板がかかっている。大きな団子っ鼻のシェフが山積みのピザを抱えている絵だ。「横に暴力団のマークを入れるべきだ」常連がそんな冗談をいった。
 東京のゴロツキ集団を、ザペッティほど間近に見たアメリカ人はおそらくいない。
 折しも東映映画が、戦前と現代の暗黒街を舞台にしたロング・シリーズで、ヤクザを礼賛しはじめていた。筋骨隆々の体に念入りに入れ墨をほどこし、カラフルな着物をまとって、長い日本刀を手にした、見るからにヒロイックな人物が主人公だ。シドニー・ポラックの一九七四年の映画『ザ・ヤクザ』も、このイメージを採用している。
 しかし、<ニコラス>に毎晩出没した連中は、ヤクザ映画とは似ても似つかない容貌をしていた。まず服装が違う。どちらかというと、一九六四年に大ヒットした映画『殺人者たち』のリー・マーヴィンに近い。黒いスーツに、黒い帽子、真っ黒なサングラスをかけて、髪は角刈り、肩から掛けたホルスターには、38口径をしのばせている。
 いずれもぞっとするほど不健康だ。朝から晩まで、安酒とフィルターなしのタバコと興奮剤にひたっているせいで、体はガリガリだし、顔色はやけに青白い。糖尿病を患っている者も多く、虫歯や痔の治療の話題が”日常会話”。ヤクザたちの大半は遅かれ早かれ刑務所のやっかいになるが、服役中、虫歯と痔は治療の対象外なのだ。
 ヤクザのふりをして覆面捜査官が潜入しても、簡単に見破られてしまう。私服警官は一様に血色がよく、千六百メートルを四分足らずで走れそうな元気者ばかり。暗黒街では、私服警官を「桜田組」と呼んでいる。すぐに握手をしたがるのも、見破られる原因だ。本物のヤクザなら、ただ頷いて、暗い目でじっと相手をにらみつける。
 当時のヤクザは、たしかに不健康ではあったが、勇気だけは並外れていた。
 東京のヤクザには、小指の先がない者が少なくなかった。ヤクザの風習にしたがって、なにかの罪滅ぼしに指をつめるからだ。
 町井親分も例外ではない。一九六三年、町井が大阪の暴力団と手を結んだばかりのころ、子分の一人が相手の暴力団の顧問格である重要人物を、カッとなったはずみに拳銃で撃ってしまった。
 その直後、東声会の町井親分は、落とし前をつけるために、みずから小指の先を切断した。銀の果物ナイフを使って、”儀式”は厳かにおこなわれた。関節部分にうまく刃を食い込ませ、ざっくりと切り落とす必要がある。身の毛のよだつような肉片をホルマリン漬けにして、相手のボスの家に届けなければならないからだ。
 こんな壮絶なことができる人間は、ザペッティの故郷プレザント・アヴェニューに、そうざらにはいない。

P.158

 しかし、コカコーラ社のように資産に恵まれた企業が、そうざらにあるわけもない。
 アメリカ企業がこれほど不利な状況に置かれていたのには、わけがある。
 ひとつには、占領直後に合衆国が日本と交わした、暗黙の「冷戦協定」のせいだ――アメリカは日本を、アジアの主要な反共拠点にする。そのかわりに日本は、アメリカの豊富な市場に無条件で参入できるし、自国の産業から外国勢を排除してもかまわない――そんな無言の取り決めがあった。
 日本市場へ進出したがるアメリカ企業には、米国国務省が釘をさした――あそこは厳しいと思ったほうがいい。日本の経済成長を妨害してはいけない。輸入には一〇〇パーセントの関税をかけさせてやること。彼らには製品よりむしろ技術を売ったほうがいい。わが国は安全保障の面で、”強い日本”を必要としている――。
 この暗黙の協定のせいで、IBMは日本での製造許可を得るために、ライバル企業に五パーセントという法外な安値で、特許を認可せざるを得なかった。富士通やNECが、やがてコンピュータ市場で”ビッグ・ブルー(IBMのあだ名)”を追い越すことになったのも、それを思えば不思議はない。

P.167

 トマス・ブレイクモアの例もある。外国人商業弁護士界の長老ともいえるブレイクモアの顧客リストには、アメリカ産業界の紳士録並みに、数多くのメンバーが名を連ねている。しかしその彼でさえ、外国人が日本で商売することに、基本的には賛成しない。障害があまりにも多すぎるからだ。
 日本への進出を計画するクライアントに、彼はこう警告する――日本人は経済のさまざまな分野で門戸を閉ざし、外国人を中に入れようとしませんよ――。アドバイスを求めて彼のもとにやってくる初めての投資家たちに、彼は自分自身の体験を例にあげ、日本市場への参入がいかにむずかしいかを説く。
 その体験とは、日本にフライフィッシングを紹介するために彼が悪戦苦闘した、「養沢川計画」だ。
 ブレイクモアは、故郷のオクラホマでは熱心なアウトドア・タイプを自認していた。その彼が、一九五〇年代半ばに、養沢川という日本の河川に惚れ込んだ。彼を魅了したのは、東京から電車で西へ一時間ほど行ったところにある、周囲を美しい木立と小さな山村に囲まれた、全長数キロにわたる谷あいの河川敷だ。
 この川に一つだけ問題があった。魚がいないのだ。いるのはせいぜいミノウなどの小魚ばかり。
 マス釣りが大好きなブレイクモアは、村のリーダーを探し出し、自分のアイデアを伝えた。マスの稚魚を養沢川に放流し、村にフライフィッシング施設を作るという計画だ――費用はすべて自分がもつ。軌道に乗ってきたら、釣り人から入場料をとり、村の収益にすればいい――。
 ブレイクモアはすでに大金持ちだし、公共心にみちあふれているから、私腹を肥やそうという気持ちはこれっぽっちもない。自分がここで魚釣りを楽しめればそれでよかった。
 村のボスは、このガイジンは頭がおかしいのだと思った。日本人は魚が大好きな国民だが、フライフィッシングなどというものは誰も聞いたことがない。
「虫ではなくて、ニセの餌で魚を釣るだと? しかも、せっかく釣った魚を、川に返しちまうのか?」
 村のボスは疑り深そうに聞く。
「そうです」とブレイクモア。
「おまけに、釣りたければ金を払えってか?」
「そのとおり」ブレイクモアが、オクラホマ訛りの日本語で言う。「一種のスポーツですからね」
 男は頭をかきむしって、ブツブツつぶやきながら立ち去った。「なーに言ってんだか、変なガイジンめ。こんなバカげた話、聞いたこともないぞ」
 ブレイクモアは地元の数人に計画を話してみたが、誰からも相手にされなかった。持って帰れないとしたら、誰が魚など釣るものか、と。
<全国釣り愛好家協会>に行ってみたが、ここの役員でさえフライフィッシングなどと聞いたことがないという。釣魚規約をめくってもみたが、やはり何の記述もない。
 やむなくブレイクモアは、自分が目をつけた長さ四、五キロにわたる河川敷沿いの村々を、一つひとつ訪れて、説得と交渉にあたることにした。
 村人を一箇所に集めるために、大映映画会社から最新のスリラー風チャンバラ映画を取り寄せ、地元の学校の校舎で映画大会を催した。費用は彼が負担した。この特別ショーを行うためには、トラックで自家発電装置を運び込まなければならなかった。
 日本人は肩書を気にする国民だから、「先生」という言葉に弱い。そこで彼は、知り合いの日本人外交官に頼んで、フライフィッシングというスポーツについて講演してもらうことにした。この外交官とは、海外でよく一緒に釣りを楽しむ仲だ。釣り関係の執筆をしている著名な日本人ライターにも声をかけた。彼もこの企画には大賛成で、やはり快くスピーチを引き受けてくれた。
 映画は大好評だった。血しぶきはたっぷり飛び散ったし、思い切り刺激的なレイプシーンも盛り込まれている。しかし映画のあと、ムードはみるみる盛り下がった。
 まず、外交官がフライフィッシングの喜びを語り、釣り作家がテクニックを説明した。そのあと、ブレイクモアが立ち上がり、聴衆に企画をアピールした。
 どのように操業を始めるかを説明し、川に稚魚を補充する費用は自分がすべて負担する、と請け合った。現存するダムと、流れの途中に二箇所あるよどみを、フルに利用することを強調した。入場料をとることも伝えた。フライフィッシングのルールには違反するが、村人たちに免じて、一匹か二匹だけ持ち帰ってもいいことにした。残りはもちろん、川へ返さなければならない。当分のあいだ、村は利益だけを受け取り、商売として成り立つようになった時点で、それまでブレイクモアが負担していた出費も、村が引き受けるようにすればいい。
 聴衆は見るからに怪訝そうだ。村人たちの多くは、フライフィッシングの愛好家が村の外部からどっと押し寄せるのを恐れ、たちまち反対した。若い世代は、泳ぐ場所がなくなる不安を訴えた。女たちは、立川や府中の米軍基地が近いことを指摘した。基地のGIたちは、喧嘩やレイプ事件など、年がら年中トラブルを起こしている。あの連中が集まってきて、このへんをうろつくようになったら・・・・・・? 詐欺ではないかと疑っている村人も、一人や二人ではない。このガイジンはいったい何をたくらんでいるのだろう・・・・・・?
 ブレイクモアはのちに語った。
「プランを持ち込んだぼくを、火星人かなにかのように見つめていたよ」
 ほかにも問題があった。この川での釣りを、本当の意味で監督する立場の人間や組織が、どこにも存在しないのだ。事業を始める許可を求めようにも、その相手がいない。川の二十五キロにわたる一角を、誰が所有しているのかと聞いてみても、はっきりした答が返ってこない。そんな質問などされたことがないからだ。地元の役場に行っても、釣り関係の部署すらない。誰もこんなところで釣りなどしないからだ。
 妙なことが判明した。川に魚がいないにもかかわらず、<釣り同好会>なるものが存在するらしい。とはいえ、釣りは一度もしたことがないという。年に一、二度、飲み会を開くためのグループなのだそうだ。
 それでもブレイクモアは、ものは試しとばかりに、釣り同好会を訪れ、流れの一角を使う許可を出してくれたら収益の一割を渡そう、と提案した。許可する権限などまったくないくせに、同好会は喜んで同意した。こうしてようやく、計画は実行に移されることになった。
 法律上、何の権限もない組織が、受け取る権利のない金と引き替えに、与える権利もない許可を与えたことになる。
 バラバラだったものが、ようやく一つにまとまり始めた。
 川沿いにある五つの村がそれぞれ代表者をたて、フライフィッシングという真新しい事業を統括する組織を結成した。
 とはいえ、つぎつぎに追加されるさまざまな出費は、あいかわらずブレイクモアが負担せざるを得ない。チケット販売員の給料、夜警やガードマンの給料、トラックで運び込まれる一週間分の魚を荷下ろしする、村の若者たちへのアルバイト料・・・・・・。
 五月から九月までの釣りシーズンが終わったら、年に一度の「釣り祭」を催すことにした。ブレイクモアはそのスポンサー役もつとめなければならない。参加者にさまざまな賞を出すことにしたが、賞品を買い集めたり代金を支払うのも、もちろんトム・ブレイクモアだ。
 どんな賞品がいいだろうかと、あれこれ考えてリストアップし、村人たちに見せたら、それでは少なすぎる、全員に何かを出してやらなければかわいそうだという。リストはどんどん長くなった。「女性最年長大賞」や、「目隠し大賞」といった、妙ちくりんな賞まで考えだされた。全員に賞品がゆきわたるまで。
 さらにブレイクモアは、トイレを設置し、新しいチケット売場を建設した。資金が円滑に運用されているかどうか確かめるために、正式な会計士を雇い、帳簿をチェックさせ、報告書のコピーを各村に送らせもした。
 やがて彼は、この事業のために自分がいくら金を使ったか、いちいち数えるのをやめた。実現しさえすれば、それでいい。
 数年かかったが、養沢川計画は成功した。一九六〇年代の終わりには、ブレイクモアは地元の名士となり、「青少年の非行防止に貢献した」として、内閣総理大臣から特別賞まで贈られている。
 いざふたを開けてみたら、彼の釣り場にはGIたちがどっと押し寄せたが、意外なことに、立川や府中近辺の犯罪やトラブルが、驚くほど減少したのだ。性病の発生率もぐんと減ったという。授賞式でそう知らされた。式に列席した立川空軍基地の軍曹は、こんなジョークで彼をねぎらった。
「ミスター・ブレイクモア、君のおかげでうちのGIたちも、性病を釣らずに魚を釣る場所ができたよ」
 ブレイクモアに言わせれば、今回の教訓は明らかだ。
「困難を乗り越えたかったら、こちらから何かを提供することです」新しいクライアントに自分の体験を話し終えたところで、彼はいつもそうつけ加える。「日本で商売をするのがどれだけ大変か、これでおわかりでしょう」
 ハーヴァードのビジネススクールでも教えてくれない、貴重な教訓だ。

P.174

 CIAが合衆国政府にかわって、自民党政権に月々百万ドルの資金援助をしていたことは、<ニコラ>の一部常連客のあいだでは、いわば公然の秘密だった。資金援助は、日本の対米貿易黒字が深刻化するまで続いたという。
 自民党の政治家たちが選挙の際に、その金で有権者の票を買っていたことも、みんな知っていた。総選挙では、一票あたり一万円が相場だそうだ。
 もう一つの”常識”は、自民党、およびCIAや大企業内部の自民党シンパたちを、暴力団が支援していることだ。とりわけ、政府の公共事業や建設工事に依存している大企業に、暴力団の息がかかっていることが多い。まさに鬼に金棒の”連合政権”である。
 政府と企業のあやしげな癒着を、浜田幸一という人物が象徴している。この強面の自民党国会議員は、夜の赤坂、六本木界隈でよく目撃された。
 浜田は、日本で三本指に入る暴力団組織、稲川会系の元組員で、暴行と傷害で服役したあと、もっと実入りのいい政治の世界に転向した。過去にCIAとのつながりが噂され、政治フィクサーとしても知られる児玉誉士夫とは、師弟関係にある。その児玉は、稲川会の組長、稲川角二と密接な関係にある。そして浜田はこの稲川角二を、誰よりも尊敬している、と言ってはばからない。
 浜田は、選挙運動の期間中、昔の仲間たちからさまざまな援助を受けたという、もっぱらの噂だ。
 一九七二年十月、その浜田がさっそうとラスヴェガス旅行に出かけた。そして、<サンズ・ホテル>のカジノでバカラ賭博に興じ、百五十万ドルもの大金をすった。ところが幸運なことに、”旅行仲間”が借金をそっくり肩代わりしてくれたという。その旅行仲間とは、小佐野賢治という、ホテルと運送業界の大立て者である。
 小佐野も児玉の仕事仲間で、日米両政府の首脳に顔がきく(一九七二年八月、日本の新首相、田中角栄とリチャード・ニクソン米大統領がハワイで顔を合わせた日米首脳会議の際に、田中角栄は小佐野の経営するホテルを宿泊先に選んだほどだ)。当然のことながら、日米の暗黒街にも広くて強力なコネクションを持っている。
 小佐野は、稲川会の石井進という理事長とともに、金持ちの日本人を対象にしたラスヴェガス・ギャンブル・ツアーを主催していた。ラスヴェガスの<シーザーズ・パレス>が、六本木の商店街に借金取り立て用のオフィスを開設すると、一九七五年には、借用証書の金額が、東京だけで合計一億五千万ドルを超えた。やがて、シーザーズ・パレス極東支部の日本人従業員三名が、支払いを滞納した客を「アメリカのマフィアにぶっ殺されるぞ」と脅迫しはじめた。借金取りのテクニックの一種だが、結局は恐喝で警視庁に逮捕されている。
 証拠はないが、浜田のバカラでの損失は、日本が合衆国からの援助金、すなわちCIAを通じて投じられた選挙資金を返済する、極秘の手段だったのではないか――と、もっぱらの噂だった。
 このような憶測が生まれるのも無理はなかった。なにしろ、関係者の経歴がやけにカラフルなのだ。たとえば、カジノの経営者はハワード・ヒューズであり、彼の右腕に、ボブ・マヒューという元CIA部員がいる。
 おもしろいことに、浜田のギャンブルの損失補填に使われた裏金のうち、二十万ドルが、アメリカの航空機製造会社<ロッキード>から出たことが判明している。CIA向けU2偵察機を製造している会社である。しかし、この件にはのちに触れることにしよう。

P.219

 その後二年間、TSK・CCCは東京一の人気社交場になった。毎晩、政界のリーダー、ビジネス界の重鎮、芸能人、外交官、米軍将校など、各界のVIPを乗せたリムジンが、つぎつぎに玄関前に到着。六本木の<ニコラ>の向かい側に最近オープンした、アメリカ資本の粋な十階建ての殿堂<プレイボーイ・クラブ>よりも、はるかに多くの客を惹きつけたものだ。
 ところが、じつはその裏側で、まったく別のことが進行していた。
 TSK・CCCのラウンジでは、角刈りにサングラスといういでたちの、見るからに屈強そうな男たちが、やわらかい革の肘掛け椅子をしばしば占領し、トラブルはないかとロビーの方をじっとにらみつけている。裏のオフィスでは、年をとった右翼のボスたちが、鉛色のデスクに座って、割り箸の注文といった退屈な仕事をこなしながら、けだるそうに来訪者たちをチェックする。
 社長自身は、要塞のようなペントハウスに住んでいる。外部の人間は、厳重にガードされたゲートを通過し、鍵付きの専用エレベーターに乗らなければ、社長に面会することもできない。
 ザペッティがあいさつに立ち寄るときも、消火栓のような首をした二人の屈強な男に出迎えられたものだ。口をきりりと結んだその用心棒たちは、まず来訪者が武器を隠していないかどうかボディチェック。それからおもむろにエレベーターの鍵を開け、階上へと案内する。踊り場に着くと、先に立って案内する。やがて真鍮製のライオンの頭がついた、重い金属製のドアに行き当たる。内側からドアを開けるのは、またしても別の用心棒たちだ。彼らはスリッパを用意し、テニスコートに隣接した屋上のテラスへと、ニックを導く。大親分はここにいて、ニックにコーヒーをいれてくれる。たいていは着物姿だ。上空から狙撃されないように、六本木の空をにらみつけている子分たちもいる。

P.229

<TSK・CCC>の顧問格、児玉誉士夫は、とらえどころのない人物である。裏方に徹しているらしく、ピザもめったに食べにこない。ただし、怪しげなもうけ話には、たいてい町井と一緒に関わっている。
 たとえば、那須などの土地開発。このプロジェクトでは、土地を手放したがらない農民たちを、暴力団が”力ずく”で説得する必要がある。朝鮮半島のカジノ、ホテル、キャバレーといった、さまざまなベンチャー・ビジネスにも首を突っ込んでいる。彼の暗黒街仲間たちの得意分野だ。
(警察の調べによれば、TSK・CCCグループの所有する関釜フェリーが操業を始めたとたん、「シャブ」と呼ばれる麻薬の使用者が急増したらしい。シャブの七〇パーセントは韓国で製造され、日本に持ち込まれていた。使用者は、勉強しすぎて疲れた学生、タクシー運転手、サラリーマン、退屈している主婦などで、その数は百万人近かった)
 しかし、児玉が航空機製造会社<ロッキード>に雇われて、ふたたび”ロビー活動”に従事していたことは、ごく一部の人間にしか知られていない。

P.233

(政治献金について)
 日本の学生は、この悪しき現象の原因を、封建制が長く続きすぎたせいだととらえている。封建的な社会では、国民が政治家を選ぶとき、国に対する忠誠心を何よりも重視する。政治倫理や、選挙法の一字一句や、社会的義務感は二の次だ。
 戦前からずっと小選挙区制を続けてきたからだ、と解釈する学生もいる。大都会よりも田舎に比重が置かれるこのシステムのものとでは、政治家が有権者に金をばらまいたり、個人的なアピールをしやすいのだ、と。
 アメリカの悪影響だ、と受けとめる学生もいる。地方の議席を大幅に増やしたことで、政治家になりたがる野心的なゴロツキが、政治の世界に入りやすくなった、と。
 原因はどうあれ、この国の政治は、”国民への奉仕”ではなく、まぎれもない”マネーゲーム”になり果てた。資金集めにたけた人間が頂点に立つのは、当然の帰結だろう。
 かくして、「金権政治」という言葉が誕生した。

P.238

 いまだに謎なのは、ロッキード社が児玉誉士夫と小佐野賢治宛てに発行した、百六十万ドルの無記名小切手の行方である。
 小切手は、ロッキード側がキャンセルする前に、すでに現金化されてどこかへ消えていた。
 児玉は、自分が持っていたが誰かに盗まれた、と説明。これを聞いたロッキード社は、そこまで親切にする必要があるとも思えないが、ふたたび小切手を発行している。児玉は、この二度目の金を手に入れた。
 いったいなぜ? そんな疑問が怒るのも当然だ。
 消えた最初の百六十万ドルは、リチャード・ニクソン再選のための選挙資金にあてられたのではないか、という説がある。かつてニクソンに倒産の危機を救われたロッキード社が、彼の再選キャンペーンに協力しようと、巧みな裏金工作によって選挙資金を捻出した、という推論である。
 この説を信じる人々は、奇妙な”偶然の一致”を理由にあげる。百六十万ドルといえば、ヤクザから政治家に転向した浜田幸一が、ラスヴェガスの<サンズ・ホテル>で賭博に負けて失った金額と同じではないか。しかも、小切手が紛失したのと、時期までぴったり一致する、と。
 おもしろいことに、東京高等裁判所は一九八四年四月、小佐野賢治が<ロッキード>の金を、浜田のギャンブルの借金返済にあてた、と認定している。それによれば、小佐野は一九七三年十一月三日午後五時に、ロッキードの重役からアタッシュケース入りの現金を受け取った。そして、一時間以内に飛行機でラスヴェガスに飛び、<サンズ・ホテル>のスタッフに、浜田に代わって借金を返済したという。
 その金は、小佐野がANAに、ロッキードのトライスターと、(時期はややあとになるが)オリオン対潜哨戒機P3Cオライオンを買うよう説得するための、最終的な謝礼だったとされている。
 この事件関連の書物としては、『ロッキード裁判傍聴記』(朝日新聞社)がもっとも信頼がおける。この本を書いたジャーナリストの立花隆は、全四巻に及ぶその著書のなかで、二十万ドルの重要性に着目した。
 円=ドルの変動相場制によって、金額にズレが生じたことは間違いない。最初の”盗まれた”百六十万ドルは、一ドル=三百円のレートにしたがって支払われ、二度目の百六十万ドルは、一ドル=二百六十円のレートで支払われている。ロッキード社は、小佐野がまだP3Cオライオンの説得の仕事を済ませていないこともあって、その差額を小佐野に渡したのではないか、と立花は分析する。
 小切手が紛失したり、またたく間に現金化されたりと、いくつかの不可解な点があるにもかかわらず、ロッキードの裏金が選挙資金として使われたという説は、その後何年間も消えなかった。

P.243

 一九八〇年代の初め、「怪物日本」という言葉があちこちで聞かれるようになった。車やオートバイ、テレビ、半導体、ヴィデオ・カセット・レコーダーなどの世界市場を、日本がみるみる席巻しはじめたからだ。
 海外では市場確保のために安く売り、国内では高値を維持するという、じつに効果的な販売作戦と、よく訓練された労働力がものを言った。それまでは、アメリカに追いつくために悪戦苦闘していた日本が、追いつくどころか、各分野で今にも追い越しそうな勢いだ。生産性、一人当たり所得、経常収支黒字その他、多くの複雑な経済指数が、はっきりとその兆候を示している。
 一方、一九五〇年代、六〇年代の黄金時代に、世界経済の半分近くを担っていたアメリカは、今や悪評と闘っていた。デブで怠け者、アメリカ製品は高くて壊れやすい・・・・・・。
 世界中の人々が、口角泡を飛ばして語るのは、あふれんばかりの製品を世界にまき散らす、恐るべき東アジアの”輸出マシン”のことだ――あの国は、いつになったら力尽きるのだろうか――
 日本の爆発的な経済成長による悪影響を、少しでも緩和するために、先進五カ国代表者会議がニューヨークの<プラザホテル>で開かれた。その結果、主要通貨に対する円の価値を引き上げて、バランスをはかることで合意が成立。日本からの輸出品の値段をつり上げ、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ諸国の製品を安くするのが目的だ。
 二年間で、円の価値は二倍にはね上がった。一九八五年の一ドル=二百四十円が、一九八七年には一ドル=百二十円だ。ところがそれと比例して、世界に対する日本の貿易黒字も急上昇。たとえばアメリカの対日貿易赤字は、二百五十億ドルから六百億ドルへとはね上がった。
 日本の製造業者は円高をフルに利用して、コストの安い海外に工場を建設し、原料を安く輸入して、国内生産の合理化に励んだ。<日本銀行>は、国内需要を高めるために、金利を大幅に引き下げた。安い金利で資金を得やすくなった国民は、株や不動産投資のために、積極的にローンを組んだ。必然的に、株や土地の値段はうなぎ登り。投資家は、値上がりした持株を担保に、ますます投資に精を出す。財産は膨れ上がる一方で、一夜にして億万長者になった人々は数しれない。
 こうした相乗効果は絶大で、「バブル」と呼ばれる日本経済のピーク時には、世界中のキャッシュのほぼ半分を、日本が握るようになっていた。ある経済学者はこの現象を、「人類史上最大の富の移動」と名づけている。
 東京は、見苦しいほど金に汚染されはじめた。

P.263

 谷という名の幹部は、ハーヴァード大学を卒業したと言っても通用するだろう。フランス語、英語、中国語がペラペラで、書の達人だから名刺は自筆だ。肩書は<副社長>。クラシックからロックンロールまで、音楽の知識も幅広い。好きなのは、クロード・ドビュッシーとミック・ジャガーだ。
 四十代前半の谷は、長身で身だしなみもいい。趣味は天体観測と車。賃貸料が月に二万ドルもする六本木の赤レンガ造りのマンションで、バルコニーに大きな天体望遠鏡を据えている。愛車は、カルマン・ギア、ベンツ、車体の長い黒のキャデラック。
 そんな彼の専門は、「総会屋」と呼ばれる企業相手のゆすりだ。まず、脱税、経費の水増し、不正な株取引、政治家への極秘献金など、法律を犯している企業を探し出して、恐喝する。そして、口外しない代償に大量の株を要求し、あとで売りさばくのだ。そのためには、商法をせっせと勉強し、一流紙や経済誌を片っ端から購読しなければならない。昔のヤクザが、漫画や競馬新聞ばかり読んでいたのとは、好対照である。
 さらに、ゆすった企業内部に「名誉理事」として居座り、自分のようなヤクザに二度とゆすられない方法をアドヴァイスする。企業に長居すればするほど、当然のことながら、不正の証拠をたっぷりつかむことができるから、将来のゆすりのネタにも困らない。
「腐敗は人間の常さ」
 谷はニックに、人生哲学を披露する。「企業に何の秘密もなければ、俺たちみたいなヤクザ稼業はあがったりだ。日本のビジネスマンの弱点は、会社のためなら何でもやることさ。法律違反や刑務所行きも辞さない。動機は、会社への忠誠心や、干されることへの恐怖だったりする。その弱みにつけ込めばいいんだ。アメリカのビジネスマンは、私利私欲のために法律を犯すから、シッポをつかむのがむずかしい。そこが基本的に違うな」

P.276

 たえ子はこう答えた。
「日本人の西洋化には限界があるのよ。占領後、日本人は食生活にパンやミルクを採り入れたし、日常生活にも思いきった変化を受け入れてきたわ。アメリカ人にその真似ができる? 毎日毎日、お刺身にご飯という食生活を、受け入れることができる? 洋服の代わりに着物で通すことなんかできる? 日本人には柔軟性があるわ。アメリカ人よりずーっと。でも、いくら日本人だって限界があるの。そのへんをあなたも理解しなくちゃ」

P.313

=ヤクザの性格について=
『任侠大百科』によれば、高利貸し、売春、麻薬密売といった活動は、戦前の真っ当な bakuto(博徒)のそれと比べると、威厳がなさすぎるという。博徒やヤクザ一般の掟(pp.62-82)を要約してみよう。
 ――親分や兄貴分の命令には、ぜったいに従え。警察にたれこむな。ヤクザの礼儀礼節(仁義)は固く守れ、命を懸けて守れ。朝早くから、道場での柔剣道で、凍傷の手や足を叩かれても、泣かずに辛抱せよ。ケンカをするなら大物とやれ。いったんやるからには、命を懸けてやれッ! 敵は一人、味方が十人というような、多勢に無勢のケンカはするな。堅気の女には絶対に手を出すな。仲間の女を寝とるな。女がほしかったら買うがいい。たとえ酒の席でも、突き箸をするな。立てひざはしてはならない。お客の上げ下げに手ちがいをしたら、口で謝るな。躰で謝れ――
 同百科には、ヤクザの合い言葉や掟も記されている。

 恥を知れ、恥を知って面を守れ
 恥を知れ、命を懸けて面を守れ

 恥を忘れ面を汚がした者は
 男の仲間入り今日限りの事

P.364

=売春について=
 この世界最古の職業は、日本ではつねに合法的とみなされてきた。実際、日本ほど売春が広くおこなわれていた国は、世界でもあまり例がない。毎年、数千人もの若い娘が、貧しい両親によって人買いに売られた。ときには、十二歳程度の幼い少女でさえ身売りされた。戦前の記録によると、日本の売春宿の労働人口は、五万二千人を超えていたという(ジョン・ガンサー著 Inside Asia 参照)。売春は一部のあいだで、一種の芸術とさえみなされていたフシがある。”夜の女”たちは、好きな客の名前を太股に入れ墨したものだ。西洋諸国では不名誉の烙印を押されていたこの商売が、日本ではれっきとしたビジネスとみなされていたことも見のがせない。
 この国で売春が違法となったのは、アメリカ人たちが上陸して以降のことだ。一九五六年に売春禁止法が成立したものの、五八年までは実行に移されていない。それどころか、”代用品”として「トルコ風呂」や「お触りバー」といったセックス産業が大流行。一九八〇年代終盤には、日本のトルコ大使館からの度重なる抗議に応えて、「トルコ風呂」という言葉だけは、漸次「ソープランド」に切り替えられていったが。
 RAAの施設が、いわば、”機会均等の快楽提供所”であったことは、特筆に価するだろう。ここでは人種、宗教、肌の色に関係なく、誰にでも平等にサーヴィスが提供された。経営者たちがやがて人種的偏見をもつようになるのは、白人のアメリカ兵たちから人種差別を教わったあとのことだ。日本の米軍基地の外では、「白人専用」や「黒人専用」のバーが、何年にもわたって日常的に存在した。

P.366

 ニック・ザペッティは個人的な思い出をこう語っている。
「力道山はいいやつだよ。いったん知り合いになると、本当にいいやつなんだ。世界一いい友だちさ。何だってやってくれる。ただ、酒が入ると人が変わる。とんでもないクソッタレになっちまう。もちろん問題は、しらふのときがほとんどないことさ」

P.386

『New York Times』は、一九五五年から五八年にかけてCIAの極東政策を担当していたアルフレッド・アルマー・ジュニアの言葉を引用している。「われわれはたしかに資金を提供していた。自民党からの情報が欲しかったからです」
 彼はさらに、CIAが自民党に発足当初から資金を提供したのは、党を支援するためばかりでなく、党内部に情報源を獲得するためでもあった、と述べている。
 ケネディ政権のころ、国務省諜報局の局長をつとめていたロジャー・ヒルズマンによれば、自民党と自民党議員への資金援助は、一九六〇年代の初めには「あまりにも定着し、日常的におこなわれていた」ために、極秘とはいえ、アメリカの対日政策の基本とみなされていたという。
 極東政策担当の国務次官、ヒルズマンは、『New York Times』一九七六年四月二日号のなかで、次のように述べている。
「わたしから見れば、その方針は完全に納得のいくものでした」
 これを受けて、日本研究の第一人者であるマサチューセッツ工科大学のジョーン・ダウワー教授はこう語った。
「政府内でも民間レベルでも、アメリカ人がいかに戦後日本の構造汚職を助長し、一党独裁による保守的な民主主義を促進する手助けをしてきたがが、この発言によって露呈されました。これは新事実です。・・・・・・われわれは自民党を見て、腐っているとか、一党独裁の民主主義はよくないとか、あれこれ批判をしている。しかし、その間違った構造を作り出すのに、われわれアメリカ人が一役も二役もかっているわけです」

P.395

本編が終了し、エピローグ、謝辞、執筆ノートが続く。
むしろ、本編以降が本題げな印象であり、翻訳者が冗談めかして「一生かかるところだった」と記していることに同意できるものがある。
翻訳の助けとするために自力で資料を集めようとしたがあまりにも困難で、やむなく原作者に資料提供を依頼したところ、原作者は「トラック一杯分ある」と答え、その中から段ボール二箱分を選んでくれたという。

いずれ、本書の内容を個人的に精査する機会もあるかもしれないが、現時点で語れることは一つしかない。

この本は、間違いなく、面白い。


バッシング気味ではあるが。

2010年8月24日 (火)

セキュリティとユーザビリティとモラル。

昨夜ふと脳裏に蘇った超人の言葉、そして今日、この記事を目にして、先日、盆休みに訪ねてきた甥の言葉を思い出した。
「情報漏洩に対するいい対策はないか」
警備会社に営業として勤務する彼は、概ね、そのようなことを言った。

彼はITと呼ばれる分野については門外漢である。
システムの利便性とセキュリティの強度は反比例する関係にあることを説き、ゆえに「めんどくさい」などを理由にセキュリティレベルが低下してしまうなどの例を語ってもよいが、結論に至るまでの道のりが遠くなるだけで益はないと判断したため、
「従業員が満足できるような給料が与えられれば、漏洩は減るだろう」
と簡潔に回答した。
同席した、親戚の銀行マンも概ね同意した。

これまでの個人的な経験から、いかに優れたシステムを導入しようとも、それを運用する人間次第であることは痛感している。システムを構築する側が様々なケースを想定しても、ルール違反――使用者が面倒くさがって省略してしまうような事態――には対応できない。
結局はモラルなのである。

引用した記事は、「人を作る」ことでセキュリティの強化を図ることを論旨としているが、半ば同意で、半ばは同記事が列挙した悪例と同列の空論であるのではないかと思うを禁じ得ない。
社会からではなく家庭から、というなら全面同意なのだが、サイトの論旨から外れることゆえいたしかたなし、か。

読物 『よくわかる現代魔法』

全く興味がなかったのだが、知る必要があった。

た。た。た。の、る。る。る。で、文章の好みは合わない。
DTとか秋山とかそんなカンジがしないでもないが、まあどうでもよい。

どうもやけにヒロインdisってんなと思ったら、あとがきでナットク。
続きは読まないだろう。間違いなく。

2010年8月23日 (月)

読物 『田中清玄自伝』

 陸路を通って行くルートがあり、それまでにも何名か送ったが危険だというので、別のルートを使った。ロシアの貨物船が東京・芝浦から出てウラジオまで行く。その石炭倉庫に乗せる線があった。これを扱っていたのがオムスです。そのルートはほんらい俺が使うはずだったのだが、俺はソ連へ渡航する気などまったくなかった。それで野坂にこれで行けと言ったんです。小便が大事だぞと。小便はビール瓶にいれて捨てろと。それから向こうへ着いたら、迎えが来るまで動くな、出てはいけないと、そこまで教えたんだ。

P.63

 外務省とは別ルートです。この問題の解決は外務省じゃとてもできませんよ。相手国から信頼されていないんですから。それで池田さんに言われて、空手とタイ拳の交流という名目で行ったのです。

P.211

 ダンスも終わって、さあグランドホテルへ行って休もうと玄関まで出てみたが、車は一向に来ないし、案内の者が変な顔をしている。どうしたって聞いたら、車が盗まれたと。警察を呼んで、いろいろ調べたが、ホテルの守衛の言いぐさがいい。「ここまでが私どものホテルの責任になる管轄下で、その境界からあなたの車は一メートル出ていましたから、我々の責任ではない」って(笑)。立派なもんだ。これがスペインに着いた、まさにその日のことですよ。

 ――犯人は捕まらなかったんですか。
 出てくるもんですか。ジプシーの国ですよ。昔は馬泥棒というのがあった。馬泥棒は三十分もたてば、自分の馬かどうかまったく分からなくなってしまうぐらい、次々と人から人が乗り換え、鞍や馬車の造作はもちろん、毛並みや色つやまですっかり塗り替えてしまうので有名な国だ。馬が車に変わっただけの話で、今でも変わりありません。

P.263

 欧州では知らん者はない。ナチに対する最大のレジスタンスをやった人物だ。ドイツ占領下のフランスで、ナチの軍隊が列車でトンネルに入ったところを見計らって、トンネルの前を爆破して立ち往生させ、列車が後ろへ下がろうとすると、今度はトンネルの後ろを爆破して、ナチスドイツ軍の兵隊を蒸し殺しにするなんてことをやってきた。何回もナチは手ひどい目に遭わされている。年は俺よりも若いね。
 荻原大使から名前を聞いて知っていた。大使は、
「ボーメルは日本でいえばやくざ者だが、これ無くしてフランスはナチのくびきから脱却できなかった。ド=ゴールはよく使った。国が滅びるかどうかという境目には、ああいう人物が必要とされるんだな。だからものごとは一面だけで見てはいけない」
 と言っていたが、その当人だ。

P.271

 あらゆる物質は核、つまりケルンがなければ結晶はしない。真珠がそうだ。あこや貝に小さな粒を入れるから、その周りに分泌が始まって、あんなに綺麗な真珠の玉ができる。それから子供の頃に食べたコンペイトウというお菓子がありますね。あれはただ砂糖を入れただけでは、固まりません。小さい芥子粒を入れるから、結晶ができるんです。人間だって同じ。哲学のある人、信念を持っている人とそうでない人とでは、大変な違いがある。民族だって同じです。天皇制や王政がなぜ何百年、何千年たっても人類社会で続いてきたかを考えれば、私はまさにそれではないかと思う。民族にはバックボーンが必要なんだ。日本でもごく一部の人間が、共和制にするために、天皇制を除外するというが、できはしませんよ。やったら大変な混乱が起こるし、日本は壊滅します。
 私は「自分は自由を愛するロイヤリストだ」と言っているんです。「アブソリュート・ロイヤリスト」ではありませんよ(笑)。これが平和を保つには一番いい政治体制なんです。自由主義や民主主義が共産主義に取って代われるという妄想は止めた方がよい。これは頭の悪い欧米の連中の考えだ。なぜなら現実はそうはならないじゃないか。国には中心となる核が必要なんだ。二千年たとうが三千年たとうがそうだということは、歴史を見れば分かるじゃありませんか。

P.273

「葡萄の中に生まれ、葡萄とともに育ち、葡萄の彼方へ去って行く カスパー・エサー」

P.278

「わが国は驚くほど広大だし、驚くほど貧乏だ。現在進めている四つの近代化は、絶対にやり抜かなければならない。それには平和が必要だし、この平和は最低でも十五年は続けさせなければならない。だからといって我々を軽く見て、理不尽なことを押し付けてくるものに対しては、断固としてこれを排除する」
 このように中国の基本的立場を説明した鄧小平さんは、続けてこうも言った。
「覇権主義で我々を支配しようとするならば、自国のためにも、また太平洋諸領域のためにも、我々は敢然として立つ。なにしろ我が国は、世界で初めて虎の尾の上に腰をかけた国だ。ソ連という国は、デタントなどと大騒ぎをしては、池の水を掻き回して濁らせ、水が澄んできれいになった頃には、池の魚は取り尽くされて一匹もいないというようなことをやる国だ」
 私に言わせれば、この鄧小平さんの一点の曇りもない対ソ認識は、戦前、まだ中華人民共和国が成立する以前からの民族的な体験に基づくものである、一九六〇年代に起きた中ソ対立よりもはるか以前からの問題だからです。中国が国共合作で抗日戦争を戦っていた頃、スターリンは国民党の蒋介石には、いくらでも武器援助をしたが、中国共産党にはどんなに「援助してくれ」と頼まれても、与えなかった。鄧小平さんは「スターリンは、中国では共産党よりも蒋介石の政権が成立するだろうと見ていたのです」と、ズバリ言われた。
 このあと何回目かの訪中の時に、中国各地を案内して一緒に回ってくれた人に、中日友好協会の李福徳さんという方がおりました。日本語が非常に上手で、周恩来さんの秘書もやったことがあるとかで、こんな面白いエピソードを教えてくれました。長江の川下りを楽しんだときの船の中で聞いたのです。
 周恩来さんがある会議に出るため、中ソ決裂後のモスクワを訪れたときのこと。当時のソ連共産党第一書記はフルシチョフだったが、レセプションの席上、各国共産党幹部に周恩来さんを紹介したフルシチョフは、続けてこう言ったというのです。
「彼も私も現在はコミュニストだが、根本的な違いが一つだけある。私は労働者の息子でプロレタリアートだが、彼は大地主の家に育った貴族である」
 フルシチョフという人物は、だいたい国連総会での演説の最中に、靴を脱いでそのかかとで演壇を叩いて、米国への抗議と怒りを表すような傍若無人の男だから、満座の中で周恩来さんに恥をかかせ、自らの優位さを思い知らそうとしたのでしょう。しかし、その直後、顔色ひとつ変えずに立ち上がり、壇上に立った周恩来さんは、こう言ったそうだ。
「お話のように、確かに私は大地主の出身で、かつては貴族でした。彼のように労働者階級の出身ではありません。しかし、彼と私には一つだけ共通点があります。それはフルシチョフ氏も私も、自分の出身階級を裏切ったということであります」
 満場、息を飲んで声もなかったそうです。

P.285

宇宙に広大な版図を築き上げ、三千年という長きにわたり平和を打ち立てたのは、未来を予測する、不死の皇帝だった。彼は、人々から暴君と呼ばれた。

宇宙に進出した人類が、経済格差などから、いずれ惑星間戦争を起こすであろうと予測した天才科学者は、文明の一時後退をも辞さず限定的戦争を起こさしめ、人工知能による人類統治を目論んだ。
疑問を持ちながらもこれに同調し、やがて袂を別った超人は、長き放浪の果てに「人類を救うのは、英雄やシステムではない」と断ずるようになる。

なぜ、名も知らぬ人物の伝記を読むつもりになったのか。
どこぞで、たぶん、格闘技関係の情報を漁っている際に、アレコレに触れた折のことであろう。哀れむべき主記憶装置を装備する身の上として、いつしか読んだ本を記録することを覚えたが、読むに至った理由も記録すべきなのかもしれない。

間違いなく95パーセントに属するために、著述の内容について語る術は持たない。
直感的に思うところがあるとすれば、この人物がいかにして財を成したかというところに尽きる。ここのところが曖昧なために、本書については当座、フィクションとして扱わねばならないということになる。

ここ数年、あれこれ読んできたが、埋まるどころではなく。
1000ピースだと思っていたら10000ピースでした、みたいな。

次に読むべきは、安保闘争、ベトナム戦争あたりか。

2010年8月21日 (土)

読物 『フルメタル・パニック!12 ずっと、スタンド・バイ・ミー(下)』

予想は外れた。

とにかく畳もうという意気込みを感じるを禁じ得ず、また、なんかムキになってアンチテーゼを盛り込んだような印象を拭いえないが、大団円といえよう。
物語は、終わってナンボだ。

めでたし、めでたし。

2010年8月20日 (金)

ハレの日々。

5日夜、足が疼いていた。
前日の稽古で歩法をハードにやったので、多少キているのだろうと受け止めた。

6日朝、まともに立てないくらい腫れた。足の甲と、アキレス腱のあたりに激痛がある。
それっぽい腫れ方をしていたので、持病の高尿酸血症の発作が出たかと仕事を休み、取り置いていた痛み止めを飲み、湿布を貼って安静にしていた。医者にかかっても痛み止めと尿酸値を下げる薬と小言をもらうだけだとわかっているので、湿布を貼り、保冷剤で冷やして安静を保つ。
絶え間ない激痛のまま休日を過ごし、9日になってもまだ痛い。せざるを得ず、病欠。

10日、なんとか痛みが引いたので出勤。
差し支えありすぎなので、昼休み、心を入れ替えて初診の内科に行く。あらかじめ高尿酸血症を持病にしていることを告げると、医者も得心したのか、血液検査をして、薬を処方してくれた。盆休みに入るというので、結果がわかるのは週明けとなる。
しかし、退社時にはまた、まともに歩けないくらい痛みがぶり返していた。

11日、病欠。
そこの壁の斧で俺の足を断てッ!
激痛もここまで続くといろんなことを思い始める。もういいや、的な。
ここで、ふくらはぎに腫れがあることを認めた。昨日まではなかったように思う。
妙なしこりがあり、その中心に虫に刺されたような跡があるが、刺された覚えはない。
これまでにない症状で、そうと思えば足の甲とアキレス腱というのも、個人的には滅多に症状の出る箇所ではない。
高尿酸血症ではないのかもしれないが、結果は17日にならなければわからない。

幸いなことに職場は12日から夏休み。痛いまま過ごし、14日、ようやく快方を自覚する。痛いが、なんとか普通を装って歩くことはできる。

17日、痛み止めを欠かすとまだ痛いが、妙な腫れはおさまりつつある。
初診の内科にて血液検査の結果を確認すると、尿酸値は高いまま。高尿酸血症の発作が発症したあとは尿酸値はさがるといわれている。ということは、同発作ではないのかもしれない。
医者はこの方面の病状に弱いことを吐露し、症状がピークを過ぎていることから、診断を保留するという。心を入れ替えているので眉をひそめたりはしないが、セカンドオピニオンを何科に求めるべきか考え始めた。

週末に外科にかかろうかと考えていたが、症状は次第に軽減してゆき、いまさら外科でもないのかもしれないとも思う。
19日、湿布を貼りまくっていたためか、腫れのためか、ふくらはぎと足の甲の皮膚がしわしわになっており、日焼けのあとのように皮がむける。
皮膚科なのだろうか。

20日、これまでに稽古日を二回休んでいるので、今日はなんとしても顔を出したい。
無理をしないようにしつつ稽古に参加する。腫れた足を送り足にすると痛い。

久々にKing of Painな日々を送っていた間、いろいろ調べてみたが、蜂窩織炎という症状や、虫さされの症状に似ていると思われた。
その他にも、原因もよくわからず腫れたりというケースがあることや、皮がむけるのは毒素や老廃物が皮膚から抜けていくためだという記述も目にした。

結局、なんなのかよくわからないまま、とりあえず晴れとなりつつあるようだが。
さて、どうしたものか。

2010年8月19日 (木)

読物 『ヘーシンクを育てた男』

 へーシンクの勝利の瞬間、オランダ選手団は喜びのあまり、手に手を取合って、畳の上のへーシンクに駆け寄ろうとした。
「この時、一万五千人の観客は、へーシンクとは何者かを見た。へーシンクは右手をかざした。畳に駆け上がろうとするオランダ青年を制したのだ。武道館に衝撃が走った。
『負けた』
 と日本人のだれもが思った。正しい柔道を継承し、力や技だけではなくその心まで会得していた者は、へーシンクその人だと観客は知った」(馬場信浩「へーシンクが”日本”を押さえ込んだ日」『スポーツ・グラフィック・ナンバー』昭和五十八年十月二十日号)

P.216

――ジャイアント馬場は、「柔道着を着て押さえ込まれたらあんなに強い男はいないが、裸になったらあんなに弱い男はいない」といっていた。所詮、へーシンクはコンデ・コマではなかったのである。

P.228

現代、武術の、試合による弊害というものは、確かに存在するようである。
スポーツ観戦全般に興味がないものであり、また門外漢でもあるが、ごく希に見る柔道の国際試合は、これをよく現しているようだ。

高専柔道というものを初めて知ったのは『新・コータローまかりとおる! 柔道編』で、以後、格闘技系のアレコレで目に留まるようになった。それらはいずれも「寝技に特化した云々」という特徴を、どちらかというと賛美するように描いていたように思うが、本書が述べるところによって、その「特徴」とは弊害そのものであるという印象を新たに得た。

少し前は、身につけたものを試してみたいという思いを年甲斐もなく抱いたものだが、よくよく考えて思い直し、競技化を起因とする弊害というものに強い共感を覚えるに至った。
おおよそ寿命の2/3ほどを消費してきて、「機会」がどれだけあっただろうかと考れば、ほどほどで十分ということにもなる。
だが、この趣味は個人的に今ホットなもので、追求して止まないほどにハマってもいる。回復力の衰えを自覚する昨今ではあるが、度が過ぎないように自戒しつつ、ハマり続けていたいものである。

読物 『真剣師小池重明』

 約束の場所に姿を見せないので不審に思った彼女がアパートへ来てみると、関と小池が徹夜で黒ずさんだ顔を突き合わせて盤面を睨み合っている。頭にきた彼女がヒステリックな声をはり上げる。
「私と将棋とどっちが好きなのよ」
 関は盤面を凝視しながら、唸るように答える。
「そんなわかりきったことはいうな」
 小池が、将棋が好きに決まっている、と盤面を睨んでいえば関も、そう、将棋のほうが好きなんだ、と盤面に視線を向けたまま口ずさみ、彼女は、ワッと泣いて部屋から飛び出していく。そのあと二人は差し手を続けて、小池が、「女を泣かせちゃいけませんな」といえば関が、「そう、女を泣かせちゃまずい」と受け答えする。

P.104

「お前な、可愛い娘のことを思って、これからはチンチロリンだけはやめろよ」
 と、私が思わず声をつまらせていうと、小池は、
「あれから、改心してチンチロリンなんて一回もやっていません。ドボンだけにしています」
 と、すすり上げながらいった。
「ドボンて、何だ」と聞くと、「ちょっと、チンチロリンに似た面白いバクチなんです」というので私は受話器を耳に当てながら尻餅をつきそうになった。バカの番付ができればお前は大関、間違いなしだ、と怒鳴って私は電話を切った。

P.277

 とにかく、面白い奴だった。そして、凄い奴だった。

P.321

将棋の天才、化物、魔剣使いと呼ばれ、プロをして異様な特殊感覚の持ち主といわせた男。
だが、ロクデナシの人生を歩んでしまった男。

夢枕獏が、なにかの短編かエッセイか、あとがきだかで、その死を嘆いた人物がいた。著述に名を出すことは避けていたが、間違いない、小池重明のことだ。
感想は、

 とにかく、面白い奴だった。そして、凄い奴だった。

最後の、この一文に尽きる。

団鬼六の著作を読むのは初めてのことだが、コクがあって良い味わいである。ピンクな作家、としか印象がなかったが、つきあってみようと思う。

2010年8月18日 (水)

情報の使い方。

すうせん件のデータ整理について、当初思い描いていたストーリーはこうだ。
・オフコンからデータを吸いだし、データを整理する(当方作業)
・整理したデータをもとに、オフコンのデータを補完していただく(顧客作業)

これを繰り返すことによってデータの精度は向上していく。
しかし、オフコンの登録操作がダルいということで、整理したデータをインポートすることを顧客は選んだ。現在はマスタデータをインポートする仕組みはなく、システム会社へ新規発注するという。これはいい。

いずれにせよ、当方で整理したデータを顧客側で精査する作業は必須であり、その作業は各部門に割り当てられた。これもいい。

だが、元となるデータは、部門別に分割されずにまるごと渡され、どのデータに手を加えたか識別不能な状態で取りまとめ役にリターンされた。
具体的に言うと。
7500件あまりのデータがある。それらは5部門が管理している。
部門をまたがる顧客データは存在しないため、総計で7500件あまりとなるはずが、7500 x 5 = 37500件となって帰ってきたということになる。部門によっては削除したデータもあるようで、しかしながら他部門から提出されたデータには削除されたデータが残っていたりするわけで、もう、なんというか、わや。
これを再度、整理せよという。

エントロピーを減少させたデータが、見る影もなくカオスとなる。
どの部門が管理するデータであるか識別する項目を設けてデータを渡したのに、なんでこういうことになるのか。

データの形式はコンピュータ利用をにらんだものだが、要は顧客一覧である。
情報の効率的利用というものは、普段意識することなく人類があたりまえに行っていることで、たとえば裏道を利用して目的地へ向かうこともそうだ。情報分野でいえばルート探索などという専門用語が割り当てられているが、日常的に行われていることである。

なにがいいたいかというと。
専門家じゃないからできない/思いつかない仕事じゃないだろっ!
ということだ。

項目として部門名が存在するので、7500件あまりのデータを部門毎に分割するのは、せいぜい10分程度の作業となる。長く見積もっても1時間。データはエクセル形式で、「フィルタ」もつけさせていただいた。
1990年代ならまだしも、日常的にPCを使う企業人の業務の知恵の範疇に収まるものと受け止めていたのだが。

当然、当方に発生した負担は費用として請求することになるが、「SIerに騙された」的な事情の一背景として、これに類することはわりとよくあることなのである。

読物 『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』

 東郷局長の仕事スタイルは小寺課長と対照的だ。極端な能力主義者で、能力とやる気のある者を買う。酔うと東郷氏がよく言っていたことがある。
「僕は若い頃、よく父(東郷文彦、外務事務次官、駐米大使を歴任)と言い争ったものですよ。父は僕に、『外交官には、能力があってやる気がある、能力がなくてやる気がある、能力はあるがやる気がない、能力もやる気もないの四カテゴリーがあるが、そのうちどのカテゴリーが国益にいちばん害を与えるかを理解しておかなくてはならない。お前はどう考えるか』とよく聞いてきたものです。
 僕は、能力がなくてやる気もないのが最低と考えていたのだが、父は能力がなくてやる気があるのが、事態を紛糾させるのでいちばん悪いと考えていた。最近になって父の言うことが正しいように思えてきた。とにかく能力がないのがいちばん悪い。これだけは確かです」

単行本 P.66

 鈴木氏がここまで言うのならと、私も腹を括ることにした。そして、紙を取り出し、相関図を描き、一九四一年初頭の国際情勢について、説明し始めた。
「現在の状況は、独ソ戦直前の国際情勢に似ています。以下のアナロジーでいきましょう。
 田中眞紀子ヒトラー・ドイツ総統です。
 外務省執行部はチャーチル・イギリス首相です。
 小泉純一郎はルーズベルト・アメリカ大統領です。
 そして、鈴木先生はスターリン・ソ連首相です」――。
 鈴木氏は「俺はスターリンなのか」と怪訝な面もちで問いかけるので、私は「そうです」と言って説明を続ける。
「ドイツとイギリスは既に戦争を始めています。イギリスは守勢なので、アメリカの助けが欲しいのですが、アメリカは当面、動きそうにありません。そこで、決して好きではないのですが、ソ連を味方に付けようとしています。外務省執行部は、鈴木先生と田中大臣が戦争を開始すれば大喜びでしょう。
 対田中戦争で外務省執行部は鈴木大臣と同盟を組むでしょう。しかし、これは本当の同盟ではありません。戦後に新たに深刻な問題が生じるでしょう。それに外務省内では田中大臣の力に頼り、権力拡大を考えている人たちもいます」
 鈴木氏は私が描いた相関図を手に取り、「あんたはどこにいるんだ」と問う。
 私は、「当時、チェコスロバキアの亡命政権は、ロンドン派とモスクワ派に分かれていました。モスクワ派首班のゴッドワルド・チェコ共産党書記長といったところでしょう」と答えた。
 すると、鈴木氏は、「外務省は勘違いしないことだな。俺は今のところスターリンだが、もしかするとムッソリーニ(イタリア首相)になり、ヒトラーと手を結ぶかもしれない」と冗談半分に微笑んだ。

同 P.74

 科学技術庁ではそれができたかもしれないが(田中女史は村山富市政権時代に科学技術庁長官をつとめたが、その時に官房長官を更迭したことがある)、うちではそうはいかない。これで組織全体を敵に回した。新聞は婆さんの危うさについてきちんと書いているんだけれど、日本人の実質識字率は五パーセントだから、新聞は影響力を持たない。ワイドショーと週刊誌の中吊り広告で物事は動いていく。残念ながらそういったところだね。その状況で、さてこちらはお国のために何ができるかということだが・・・・・・

同 P.76

「僕は元気だ。世の中の政治家は、とてもよい政治家とよい政治家に分けることができる。橋本龍太郎、森喜朗はとてもよい政治家で、僕はとても尊敬している。フリステンコもとてもよい政治家で、僕はとても尊敬している。鈴木宗男もとてもよい政治家で、僕はとても尊敬している。それに較べて田中眞紀子はよい政治家だ。だから何も問題はない。よい外相に巡り会い、人生にはいろいろなことがあると思っているだけだ」
 ロシア人はみんな大笑いした。「嫌い」という言葉を一言も使わないで、私の気持ちを率直に伝えることができた。

同 P.102

間違いなく95パーセントに属する身の上としては、著述に対してアレコレナニすることはできない。意志の問題ではなく、能力の問題で。
この手の読み物は、どこかにテンプレートがあるんじゃないかと思えるくらい、雰囲気が似通う。文調、構成、手法など。編集者の指導なのか、良き協力者に恵まれているということなのか。似たような才能をもっているということなのか。どういうことなのだろう。

さておき、ナニすることはできなくても、感じることはできる。読み物としては抜群に面白い。
なぜだかはわからないが、本書にエーコの翻訳本の味わいを感じ取ってしまったのは、著者のレトリックに少なからず魅せられてしまったからに違いない。


2010年8月16日 (月)

読物 『狼と香辛料 ⅩⅢ ⅩⅣ』

たんぺんしうと本編。

次々と若い娘ばっか新登場するのは著者の趣味か出版社の意向か。
世界は悪意で満ちていることを謳いながらの片手落ち。できの悪いTRPGシナリオにそう感じさせられるように、いびつさを感じるを禁じ得ない。

14巻は、資金繰りの話になるのだろうか。
本筋といえば、わりと唐突に結末への序章的なフリがなされて、これまでのおつかいクエストはなんだったんだというような印象がなきにしもあらず。

本作品には幾つかの主題があるが、その一つ、滅びしものへの哀歌には、どんなフィナーレを用意しているのだろうか。
おそらくはそれが気になるために、ぶつくさ言いながらも読み続けているのだろう。

唐突に、『龍哭譚紀行』を再読したくなってしまった。

2010年8月15日 (日)

読物 『反転―闇社会の守護神と呼ばれて』

東京地検特捜部の検事は、捜査結果から事件の「ストーリー」を作る。
概ねそれは上司の好みが反映されることになり、その意味でリテイクが繰り返される。学士論文を作成した経験があれば、「教授の指導」を思い浮かべればよかろうか。
承認されると、「ストーリー」通りの調書を取ることになる。事実を「ストーリー」に合わせるように。

著者によると、そんなふうらしい。大阪地検はそうではなかったらしい。
ここでいう「ストーリー」とは、「事実の積み重ねから浮かび上がる概略と、不明な点を想像で補完したもの」であり、我が身のような凡俗の身からすれば、事実が明らかになれば「ストーリー」は修正されてしかるべきだと考えるのだが、エラい人はそうではないらしい。承認した「ストーリー」は覆されることはないという。
犯罪者は嘘をつくものとしているからか。検事が引き出した証言は信じるに足らないということか。著者が記すような「役人根性」のみならずという印象もあるが、いずれにせよ、慣習的なことであろう。

著者の前半生たる検事時代の、そんなエピソードがまず語られ、後半生たる弁護士時代の末期、当人が無自覚な犯罪によって起訴され、かつての同僚たちに追い込まれていくさまが描かれている。
説得力があるととらえるべきか、恣意的ととらえるべきか。

許永中 日本の闇を背負い続けた男』の森功が編集協力しており、構成などになるほどと思える部分がある。インタビューを元に小説のようにシーンを描く手法はジャーナリストには基本スキルとなるのだろうか。著者の場合はインタビューではなく実経験を元にしているが、その手法を巧みに取り入れている。
著者は文筆家ではないはずだが、文章はこなれている。前半生のストーリー作成スキルの賜物であろうか。

総括すると、カネにきれいもきたないもない、とも読める。
面白い本ではあるが、一昔前の格闘家の自伝的なナニが感じられる。正直ととるべきか、品がないととるべきか。

2010年8月14日 (土)

読物 『羆嵐(くまあらし)』

 Mixiの秋山瑞人コミュ、その名も『渇き』でご紹介いただいた。
熊撃ち、いわゆるマタギの話といえば、個人的には矢口高雄が原体験であろうか。
好んで蒐集するほどではないが好きだ。

物語はごっつい地味で、クライマックスに至るまでは若干辛いものがある。クライマックスに至ってからの爽快感はおそらくそれに反比例したものであろう。

楽しめた作品だが、一つだけ気になったことがある。
本作品は大正三年を舞台としているが、その頃、民間で入手可能な猟銃はどのような性能のものであったのかということだ。
1) 鉛を溶かして弾丸を作る描写がある。
2) 空薬莢を拾い集める描写がある。
これらから類推できるのは、空薬莢に火薬を詰め、自作した弾頭をねじこんで弾丸を再生利用していたということになろう。不発弾が多いのもむべなるかな。
似たような光景を、西部劇で見たような気がする。
物語の前段では 1) の描写しかなく、先込め銃を使っているものと認識していた。結局、明確な描写はなされなかったが、どうでもいい個人的なことである。

2010年8月13日 (金)

読物 『許永中 日本の闇を背負い続けた男』

許永中という名を初めて目にしたのは、格闘技関係の情報に触れている時のことだった。
ゴッドハンドを支援した在日のアウトロー、そんなふうに記されていたように思う。

そのときには特に強い興味を喚起されることもなかったが、幾度かその名を目にし、先だって読了した『同和と銀行 三菱東京UFJ“汚れ役”の黒い回顧録』にも記述されていたことを縁にして、着手に至る。

要約すると、不平等な法に吊るしあげられたスケープゴートを主題とした、亀井静香と住銀を告発する書、ということになろうか。

本書によって、三島由紀夫が『あしたのジョー』の愛読者であったことを知り得たのは余談である。

2010年8月12日 (木)

アニメ 『閃光のナイトレイド』

頭山満とか石原莞爾とか登場する。
主人公サイドが道化回しというFFタイプのストーリー。やや残念なラストではあるが、総じて良であろう。

最近、日中戦争頃のキーワードがヒットするようになったが、なにか流行りでもあるのだろうか。

2010年8月11日 (水)

読物 『同和と銀行 三菱東京UFJ“汚れ役”の黒い回顧録』

なにか調べ物をしていて、戦後混乱期の日本では、国家権力機構のみでは十分にあれこれを為し得ず、ご当地のその筋の方に協力を求めていたことを知った。
そしてまた、バブル経済が計画的なものであったこと、政権の紆余曲折から計画的終熄をなしえなかったことを知った。
そんななかで偶然に本タイトルの存在を知り、着手に至った。

記載内容をはかる素養は例によって持ち合わせていない。
これがフィクションであろうとも、十分におもしろいということ以外は。

2010年8月 9日 (月)

読物 『マップス・シェアードワールド 2』

手に入れたのはずいぶんと前のことだが、読みすすまなかった。

だって、つまr(ry

あろひろしの漫画『アマニさん』だけが抜群にイけてる。
そんな印象しかなかった。

いつまでもほったらかしじゃ寝ざめも悪いので、どうにか読み進めてみた。
最後に納められていた二作、

  • 『生者の船』 新城カズマ
  • 『四枚目の星図』 笹本裕一

が、シェアードワールド作品群の中で抜きんでて面白く。
すげえ罠だった。

2010年8月 8日 (日)

読物 『平和の失速(三)』

 じつは、一行が汽車でブレスト・リトウスクにむかうべく、ペテルブルクのワルシャワ駅に自動車を走らせた段階では、随員スタスホフは存在しなかった。
 すると、誰かが、農民代表が参加していないのは手落ちではないか、と発議した。もっともだが、ひき返して人選する余裕はない。
 車が街角をまわると、雪道をとぼとぼ歩く老人の姿が見えた。一見して貧農民と判定できる風体である。
「立派な農民だ。彼にしよう」
 主席委員ヨッフェが車を止めさせ、駅にいくところだ、という老人をのせた。
 老人はやがてワルシャワ駅に向かうのに気づき、自分はモスクワに行くためにネフスキー駅に行くのだ、と抗議したが、方向転換するわけにはいかない。
 委員カーメネフが、質問した。
「同志、あんたの所属政党はどこかね」
「旦那、いや同志。むろん、社会民主労働党です。私の村全体がそふですよ」
「ボルシェヴィキか、メンシェヴィキか」
 委員カーメネフの鋭い眼光に気づき、老農スタスホフはボルシェヴィキだと応え、これからドイツと和平するために一緒に来てくれ、お礼はする、という委員カーメネフの言葉にうなずいた。
 農民代表随員スタスホフ――の誕生である。

P.16

 この「戦争決意」の背景には、参謀次長田中義一中将の判断が位置する。
 中将は陸軍きっての「知露派」であり、日露戦争前にロシア軍隊に入隊し、自身と父親の名前をつらねて「ギイチ・ノブスケヴィチ・タナカ」のロシア名を名乗って、ロシア事情を探査した。
 革命家V・レーニンにも会ったといわれる。

P.25

「ヤポンスキー(日本人)よ。われわれは国旗を失つた。レーニンの赤旗なんか樹てられるか!ヤポンスキーよ、国旗を失った悲しみをわかってくれるか」
 民兵長は、日ロ戦争前にブラゴエシチェンスクで発生したロシア軍による中国人虐殺事件にふれて、歎息した。
「ロシアの神はロシア民衆に贖罪を求めている・・・・・・歴史は公平だ。われわれが苦しむのは当然の裁きかもしれない」
 そして、別れを告げた民兵長は、少佐に述べた。
「ヤポンスキーよ。革命を起こしてはならぬ。いや、革命が起こるやうな政治をしてはならぬ」

P.36

 じつは、米国の上層部は、これまでに述べたように、民主政体を求めるロシア革命には同情しながら、レーニン政府にたいする見方では二派にわかれていた。
 その一派は、「無知無能な大衆」におるボルシェヴィキ政府は、いくら独裁体制を打倒したといっても、まともな民主制を成就できるものではない、とみる。
 いわば「精神病院の悪夢」にひとしく、米国としてはその自滅を期待すべきだ、という考え方であり、国務長官R・ランシングに代表される。
 この”心情派”にたいして、大統領顧問E・ハウス大佐を中心とする財界有力者たちの「実利派」は、ボルシェヴィキ政権も民主化革命の「必然的産物」であり、米国の国益を考えれば、同政権を育成してロシア市場への足場を確保すべきだ、と、主張する。

P.48

 ところで――
 急ピッチで進められたシベリア出兵は、予想外の国内騒擾と同時進行の形をとっていた。
 いわゆる「米騒動」――である。
 騒動は、この日八月三日、午後七時ごろ、富山県中新川郡西水橋町の海岸に集まった約百七、八十人の漁師の女房たちによって発起された。
 これまでに述べたように、世界大戦は日本に好景気をもたらしたが、同時に金融緩慢、インフレもまねき、物価の騰貴のために米の生産コストも高くなり、地主の米の売りおしみと米の投機熱もさそい、米価はじりじりと上昇していた。
 前年までは一升二十銭未満であったものが、今年(大正七年)にはいると二月には二十五銭台、六月には二十八銭台になった。
 そして、七月中旬にシベリア出兵が「本決り」だとの噂が流れると、軍隊の需要で米不足になるとの思惑から、米価は三十銭台に突入し、たちまち四十銭の声を聞くようになった。
 米一升四十銭は、一般市民の家計に大きくひびく。
『国民新聞』がつたえる栃木県喜連川町の小学校長夫人「打明け話」によると、夫君の月給は二十九円。
 夫妻と子供五人が必要とする飯米は、一ヶ月に「五斗一升」なので、一升四十銭であれば米代だけで月約二十円の支出になる。残り九円で副食物、光熱費、生活用品、教育費などをまかなわなければならない。
 毎月二円の赤字は必須であり、「一汁一菜はおろか塩をなめるだけ」の日々をかさねざるをえない・・・・・・というのである。
 米価は七月末には、一升五十銭をこえはじめた。

P.108

 浅草公園組は、上野公園にむかうものと吉原遊郭に進むグループにわかれた。
 上野隊は、広小路に充満して警官隊と対峙しつつ、付近の建物「三十二軒」を破壊した。
 吉原隊は、道に積みあげてあった土管、煉瓦を八方に投げ、「角海老楼」、「大文字楼」その他妓楼六十軒、料理店三軒、民家六軒、計六十九軒に被害を与えた。
 妓楼・海老屋では、娼妓川島サダによると、若い暴徒が乱入して、同女の「二円八〇銭入り蟇口」を強奪し、さらに遊客片岡秀一を追い出してその羽織を持ち去ろうとした。
「お客の羽織だから、それだけは堪忍してくれろ」と、娼妓サダが「哀訴」したが、男はサダを「蹴倒し」たうえ、サダの腰帯も奪い、それで襷がけして飛び出すと、近所の酒店で「四合入正宗一本」を盗み、お前も呑め、と群衆の一人に手渡したところ、相手が私服刑事のため逮捕された(註・同人は鼻緒職人金子太吉と名のった、と警察記録はいう)。

P.132

「いかなる退位勧告も拒否する。皇帝の義務は帝位に留まることである」
 閣議がひらかれたが、多くの閣僚は、帝制の維持の必要や皇帝への忠誠を説くだけで、そのための対策は述べない。
 首相は、この日朝に予定した大本営行きを中止したことを悔やむとともに、あらためて退位を勧告する決意を固めた。
 午後十時少し前、首相は皇帝に退位をすすめるべく、大本営に電話したが、取次ぎ役の侍臣は、皇帝はすでに就寝した、と応えた。
 首相は、皇帝を起こしてくれ、といい、叫んだ。
「もし明朝の新聞で退位が発表されなければ、もはや叛乱の防止は不可能になる」
 これは「仮説でも誇張」でもない、「冷厳な事実」だ、と首相は強調し、皇帝の起床を要望したが、侍臣は静かに返事した。
「陛下はおやすみです。陛下をお騒がせすることは出来ませぬ」
 受話器を置き、天井を仰いで、首相はうめいた。
「歴史は、皇帝に眠りを与へ、ドイツに死を与へた」

P.248

 十一月十日――
 皇帝退位のニュースは、ドイツ全土にひろまった。
 戦場の野戦病院に収容されている伍長A・ヒトラーも、従軍牧師に教えられた。
「私は泣いた。母親の墓前で流したときいらい、二度目の涙であった」
 伍長ヒトラーは、のちに著書『わが闘争』で、そう回想するが、涙のあとに悲憤がおそってきた。
「兵士たちは、祖国の敗北のために死んだのか・・・・・・旧いドイツはかくまで無価値なものであったのか・・・・・・我々は我々の歴史に義務を負ってゐないのか・・・・・・このような事実をどうして未来に引渡すことができやうか」
 伍長ヒトラーは、ドイツを敗北に導き帝制を崩壊させたのは、「マルクス主義者」と「ユダヤ人」だと判決し、彼らの打倒とドイツの復活のために身を捧げる決心をかためた。
「私は、政治家にならう」
 伍長ヒトラーの決意と参謀次長グレーナ―中将の「論理」とを結合させると、戦後のドイツの行方がおぼろげな姿を見せるような感じをうけるが、伍長ヒトラーがその想いどおりに政治家になり、国家をどのように指導していくかは、後年のことである。

P.252

 既出した命令の撤回または修正をすると中央の「面子」が損われる、という「官僚根性」に由来するのか・・・・・・現実認識の「脳力」を欠くためなのか・・・・・・。

P.670

 第三巻にてようやく、伊集院少尉が派兵された軍事行動の場面となった。
 第一次世界大戦を直接の起因とするシベリア出兵は、日露戦争が十数年前、満州事変が六年後となる時期に発生した。
 政変と敗戦でどん底に墜ちたドイツは十数年で失地回復の実力を蓄え、ソビエトはそれを迎え撃つ政体を確立する。
 時代の流れが、やけにはやい。

読物 『平和の失速(二)』
読物 『平和の失速(一)』

2010年8月 7日 (土)

読物 『魔法戦士リウイ』

ふと、『ロードス島戦記』を読み返してみる気になった。
ずいぶんと長いこと読み返していないし、未読の続刊を読むには、忘れてしまっているストーリーを思い出しておく方がよかろうと思ってのことだった。

すごい悪文だった。
未熟というべきなのかもしれない。
かつて読んだときにはまったくそんなことは思わなかったと記憶しているが、どうにも読み進めることができず、第一巻で放棄してしまった。

それはさておき。
SNEワールドには頻出する語句だが、「魔法戦士」という言葉の響きが嫌いである。
その他にもいろいろあるが、とにかく、名は体を表していない命名にはどうにもなじめない。
ついでに、キャラ命名も好きになれない。

以上のような事情をもちながら、しかし、本作品は面白かった。
記述の通り語感がまずアウトなのでこれまで触れようともしなかった作品だが、とりあえず続刊が気になっている。

2010年8月 3日 (火)

読物 『狼と香辛料 ⅩⅡ』

『聖女の遺骨求む』という作品があったなあと、ふと。
好きな作家が愛読しているということでシリーズ一巻だけ読んでみたけれど、ミステリーなのであわなかった。

ごく狭い範囲で耳に届くアレコレからすると、「ラノベの愉しみ」というものはどうやらキャラクター同士のくだらん掛け合いにあるようで、TRPGリプレイが流行った頃、TRPGはやらないがリプレイは楽しく読むという層があると知ったときのことが思い出される。

個人的には、この作品に求める主たる楽しみは「商材」。
方向性が見つからなくて無理やりひねりだしたかに見えるクエストに、サブクエストを強引に挿入してやりくりしているという構図は楽しめていない。
どのような着地をするのかと見守ってきたが、もういいかなと思わなくもない。

読物 『他力』

 彼は究極のマイナス思考から出発して、最終的に人間の存在を肯定し、ブッダ(悟った人)と呼ばれるにいたったわけです。彼の言葉が人々の心を打つのは、究極のマイナス思考から確かなプラス思考をつかみだしたが故ではないでしょうか。
 これまで言われていたプラス思考と呼ばれているものは、じつは安易な楽観主義であり、漠然とした希望であって、本当に生きる力になるようなものとは思えません。本物のプラス思考は、究極のマイナス思考と背中合わせなのではないか。

P.82

「人が社会で生きていくには、愛が必要である」
 とある思想家が語っているのを本で読みました。では、どうすればその愛を獲得できるのか。
 彼は、「愛はナルシズムから始まるのだ」と言います。私たちはナルシズムを自己愛と翻訳していますから、何か自分だけが可愛いというエゴイスティックな愛がナルシズムだと思いがちですけれど、その著者は「自分を愛せない人間は、他人をも愛せない」と言っています。さらに、「自分を肯定できない人間は、他人も否定する。自分を愛せない人間は、他人をも嫌い憎悪する」、だから「我々はナルシズムという幼い愛からでも出発し、それを社会的な愛に発展させていくしかない」と語っているのです。

P.112

 本格的な無常観、本当の意味での無常観が出てきたのが中世でした。津本陽さんの『夢のまた夢』が吉川英治文学賞に決まったときの選考会の席上で、ある作家が、秀吉のような世俗の成功者が、心の中に無常観を抱いているのが面白いと言ったら、別な作家がこう言った。あのころは、「あすはないもの、ただ狂え」というような意味の唄が一世を風靡した時代だった。秀吉だけでなく、つまり世間みなが無常観の中に生きた時代だった。

P.128

 奈良の法隆寺に、近代から現代にかけて傑僧と謳われた佐伯定胤という高僧がいました。その佐伯さんは、雨の日も風の日も、とにかく時代の流れに関係なく、学問の府、法隆寺の伝統を守って、自分のセミナーを開き、講義をしてきました。その弟子のひとりに、田舎から出てきた若い真面目な学僧がいて、彼は予習も復習もし、講義も一言一句漏らさずに聞いて努力してきたのですが、ほとんど佐伯さんの話が理解できません。このため、絶望して、ある日、佐伯さんのところに相談に行き、私は才能がなく、先生の講義が理解できないので田舎へ帰りますと言った。
 そのとき、佐伯さんはその学僧にこう言ったそうです。
「千日聞き流しせよ」
 千日とは約三年です。佐伯さんは何を考えてそう言われたのでしょうか。
 それは、ただ一言一句聞き漏らさないように聞いても本当のことは理解できないし、そんなことには意味がない、と言いたかったのだと思います。意味がわかろうがわかるまいが、ただその肉声を聞け、そうすれば、消そうと思っても頭の中に入ってくるものがあるだろう。信仰の尊さとは、なにも文字からだけではなく、肉声を通じて、毛穴からしみこむように、必ず何かは伝わるものであり、それこそが大事なことだというわけです。
 ぼんやりと自分の意識の外を流れていくような聞き方をしながらも、なお心に残るものこそ忘れないし、これこそ大事なものであるということではないでしょうか。つまり、イージー・リスニングの中で、おのずと心に残るものこそ本当に大事なものなのです。

P.137

48. 自分をはるかに超える仕事をするために

 前に映画のアカデミー賞のデザイン部門で賞を受賞した石岡瑛子さんという、非常に優れたグラフィックデザイナーがいます。その石岡さんがどうしたことか、日本ではあまり旺盛に仕事をしない。それはなぜかと石岡さんに訊いたとき、石岡さんはこう答えました。
「私たちの仕事は、たとえばデザインを考えるだけではなく、写真家とも印刷の現場の人とも仕事をしなければならない。日本で仕事をすると、いろんな事情で、五人のスタッフですと、どうしても仕事のできないだめな人がふたりぐらい加わってくるんです。すると、の凝りの三人が非常に優秀だったとしても、結局、すべてがだめになってしまう。本当にいい仕事をするためには、ジャンクがまじってはだめなんです」
 その点、アメリカで仕事をするときは、彼女は自分でスタッフのオーディションをしますから、本当にやる気と才能のある人たちばかりが揃う。ですから、出演女優がフェイ・ダナウェイのような大物女優であろうと、照明がハリウッドの歴史をつくったよう偉大な人物であろうと、石岡さんが部屋に入ると、全員が石岡さんの一挙手一投足、表情に真剣に気をつかう。「エイコはこのライトは気に入らないのではないか」「あのメイクは完璧か」「ヘアーはあのスタイルでいいのか」ということを全スタッフがプロとして考えて行動するわけです。
 ですから、石岡さんがいちいち指示しなくても、彼女の視線の行方までを注視していて、あっという間に仕事が進んで行くという。ところが日本だとそうはいかない。これが日本で仕事をしない理由だということでした。それで私は言いました。
「その方法でやっている限りは、自分ひとりの才能を超えられないんじゃないでしょうか」
 石岡さんは一種の天才だと思いますが、じつは本当に大きな仕事というのは、石岡瑛子の才能を超えたときにしか出てきません。ですから、だめな人間と仕事をする。そのだめな人間、ジャンクが入ってなければ、本当に大きな仕事はできません。これは直感です。
 これは組織論と結びついてきますが、人材を集めて精鋭部隊をつくり、物事を進めていくときに、変な奴とかやる気のない奴とか、そうした連中が仲間に加わっているほうが人間的な組織になるのです。そういう人間的な状況の中で、やる気のない奴が偶然に仕事の手を抜いたため、思わぬミスが起きたが、それが結果的にすごくよいものに変化したり、思いもかけない成功につながることだってあるのです。

P.146

 ガンにかかったあるおばあさんは、とても気丈なかただった。そして病院に行くことを拒否して、死ぬ直前まで家の中で立ち働いていたそうです。そして死ぬ三日ほど前に家族が集まってきて、三日後に「それじゃあね」と言って亡くなった。それまで、そのかたの身の処し方を家族や周りの人が見ていたから、息絶えたときにみんなが思わず拍手を送ったという。
 立派な死に方だった、素敵だねえと拍手で送られる死に方というのは見事です。
 もうひとつ、私の友人の祖母の臨終のときの話ですが、息が絶えたときに、死に水を取ろうとした。周りの人が「脱脂綿どこにあるのかな」と言ったら、「タンスの上から三番目」という声がした。その声の主は、死んだはずの祖母だったそうです。
 みんなが「えっ?」と驚いたそうですが、いろいろな死に方があるものです。
 周りの涙を誘う死に方だけでなく、笑いを誘うような死に方もあっていいんじゃないかと思います。
 よく死んだ、と言われるのも、往生のひとつの形です。
 ただ、どうもいまの時代はよくないと感じます。というのは、私が家にいて話をすると、すぐに「よかったなあ、おたがい歳をとって先が長くなくて」という会話になる。「自分がいままだ二十歳くらいで、この先六十年も生きていかなきゃいけないんなら、気が狂うかもしれないね」と語り合うのですが、これは正直な実感です。
 歳をとって、先が長くなくてよかったなあ、としみじみ幸せに思うような世の中は、やっぱりどこか変な世の中なのではないかと思われてなりません。

P.220

 数年前、多田富雄さんの『免疫の意味論』が大佛次郎賞を受賞しましたが、このことは、科学がストーリーの分野へ大胆に踏みこんできたことを示しています。異色の物語作家だった大佛次郎氏を記念する賞が、免疫論の新しい考え方を示した書物に与えられたことは極めて印象的なことです。
 かつての免疫論は、自己と非自己を識別し、非自己を排除して自己を確立する働きとして、免疫現象をとらえていました。これに対して、新しい免疫論は、非自己の延長線上に自己があると考え、自己と非自己の共生の可能性を探ろうとするものなのです。
 ですから、ナショナリズムやPKOといった、一見生物学とはまったく関係のない問題も、この考え方からアプローチが可能になるように思われます。
 親鸞の『歎異抄』は、彼の思想の書として読まれることが多いのですが、この本は弟子の唯円が書いた親鸞の言行録なのです。唯円という個性を通しての一篇のストーリーと言ってよいでしょう。
 歎は「嘆ずる」、異は<異安心>、つまり正しい他力思想に対して異端の誤った理解が横行しているのを嘆いて、それを正すために言ったことを集めた、というふうに普通は受け取られています。
 しかし、新しい免疫論の光にすかしてみると、念仏の正統を確立するためには異端を排除するのではなく、異端が正統に対して光と闇のように存在し、正統は異端の艶やかな黒い光に照らされて立ち顕れてくる、というふうになるのです。
 ですから、親鸞は「間違った、念仏の教えでない考えが横行しているけれども、あのものたちの存在によって自分たちの考えが正しいことが証明される。何という不思議な矛盾であろうか」と、溜息をついたのです。

P.240

 ペシミストだと自己評価していたが、いつごろからだろうか、ひょっとしたらオプティミストなんじゃないだろうかと思うようになった。そんな個人的経緯はさておき。
 先頃、五木寛之氏の講演を拝聴する機会があり、家中から著作を発掘する縁を得て着手に至る。講演においては腑に落ちた氏の論も、文章であるためか反論も覚える。氏の語り口調を脳裏に思い浮かべながら解釈を試みるが、容易には成し難い。
 ともあれ、かりそめとはいえ、仏弟子の一人として、響くものがあることは確かだ。

2010年8月 2日 (月)

星のあかり/しらさぎ邸

7/31、8/1のこと。

那須高原へ。
避暑地というけれど、暑い。地元よりは心もち涼しいが、すごしやすいほどではない。

南ヶ丘牧場
かつて訪れたと記憶していたが、記憶にある光景とは全く異なり、どうやら別の牧場と勘違いしていたっぽい。
ハンバーグ、黒パン、ボルシチ、ペロシキ、ソフトクリーム、牛乳などを食す。
牛、馬、ロバ、ウサギ、アヒル、ガチョウ、チョウザメなどを見る。
観光客多し。

旅館、星のあかり
那須の名勝・殺生石のしばし手前、メインストリート?からはやや奥まった場所にある。
客室に温泉があり、これが選んだ第一のポイントだった。すごしてみて、部屋に露天風呂があるというのも悪くないものだと感ずる。一階の客室はちょっとした庭もあり、秋はさぞかし人気であろうと察する。とはいえ、当日も満室のようだった。
ディナーは若干量が多いと感じた。お品がきに「強肴」という項目があり、初見で読みがわからず、察するところはあれど、意味も確信に至らなかった。読みは「しいざかな」、意味は「メインディッシュ」とのこと。ブツは「とちぎ和牛溶岩焼き」、大変おいしゅうございました。

那須チーズガーデン、しらさぎ邸
御用邸とのことで、食さねばならぬという使命感に駆られ、赴く。
激混みだが、タイミングがよかったようで、待たずにランチ。カレーとキッシュ、プレミアムチーズケーキ「しらさぎ」と桃のデザート。
なぜにカレーを食したかといえば、「御用邸のカレー」というものに興味をひかれたからな訳だが、美味であったにせよ、フツーでもあった。ビーフシチューに入るような肉が入っていたのが特徴で、この肉は特筆に値する。
チーズケーキは苦手で、長らく自ら食べたいと思うものではなかったが、何年か前からおいしいと感じられるものを食する機会がたびたびあり、いつしか苦手ではなくなった。やや酸味がきいた「しらさぎ」は好みの味で、おいしゅうございました。

大麻博物館。
那須に大麻?が来訪の発端となった。小さな私的博物館。「大麻」という言葉から連想されるナニのではなく、繊維としての「麻」の博物館である。
博物館のオーナーが、日本の麻がいかに優れたものであるかを力説してくれた。曰く、麻とは古来より神道に深く関わりのあるもので、玉串であるとか、注連縄であるとか、力士のまわしであるとかに必ず使用されているものだとか。
日本では大麻の栽培はほとんど行われておらず、加工できるところは国内にわずか二カ所、栃木県でも大麻の栽培はしているが、加工は福島県で行っているという。
いわゆる麻製品の手触りというと堅く強い印象だが、オーナーが力説するところの麻は柔らかいものでイメージを一新させられた。
麻のふんどし、「退魔」とかけたストラップなどが販売されていた。

道路は激混みというほどではないが車両は多い。観光スポットは駐車スペースが混雑気味で、殺生石などは駐車が困難だった。晴れの予報だったが山頂部は濃霧で、ロープウェイは雷を警戒して一時的に運行休止となっていた。

さて。
久々に車を運転した。
四輪のアクセルとはリニアに効いていくものだと覚えていたが、そうではない車がレンタルされ。
AT車は、坂道でノーズを下りに向けてバックに入れたとき、ブレーキを離しても動くものではなく、せいぜいゆるゆるとくだっていく程度と認識していたが、借りた車はまるでMT車のごとく、おいおい;というくらいくだっていってしまう。左足はブレーキに使用するべからずと教習したが、この車両は左足ブレーキ前提仕様という ことなのだろうか。教習を受けたのはAT免許のない時代のことだが、AT車でも左足はブレーキに使用しないという認識でいる。
さておき、踏み心地と進み具合の不一致に、最後まで慣れることが出来なかった。
その車種がダメなのか、その車両の整備が問題なのか。えきレンタカーに問い詰めたい。

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