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2010年1月

2010年1月28日 (木)

読物 『夏のロケット』

イキナリ成層圏突破な印象を与えられた序盤、しかし突然爆発事故な印象を味わう。

なんとか読み進めるうちに再びロケット発射なカンジの盛り上がり。読後感はまあ、悪くない。

しかし。

エスエフの人は、現代のコンピュータにはあまり詳しくないのだろうか。そんなローテクには興味がないということなのだろうか。ガジェットに使うのは、仕方ないからなのだろうか。

『神様のパズル』や『神は沈黙せず』でも感じたことなのだが、なんかもう、その業種の片隅に生息している身の上としては、なんかちょっと我慢できないカンジがする。

きっと、その辺が「まあ、悪くない」理由なんだろう。

2010年1月27日 (水)

Oblivion of first その2

道端や廃墟、家の中などには、さまざまなObjectが配置されている。そして、それらの多くを拾うことができる。特定の場所でのみ可能な行為ではない。どうでもよさげなものまで、実にさまざまなものを拾うことができる。

Own Viewで見ると、他者に属するObjectに対してはマウスカーソルが「赤い手」の形に変わる。Side Viewでは、これがわからない。
なにも知らない初心のころ、クエスト関連の人物に会い、その人物が起居する建物でいくらか食料品を拾っていた。その後、避難民のキャンプで装備品といくばくかの食料を拾った。
そういえば、「赤い手」カーソルがどうとか言ってたなとOwn Viewで見てみると、テントの中のものを指すと「赤い手」になる。当初は愛想がよかったテントの住人が、急に怒り出した。

・・・あれ?
もしかして犯罪やっちゃった?

その後、先に大きな障害と感じたクエストパートは、順をとばして先走ったことが原因であると明らかになり、順当に進めばなんら問題なく。目的の人物を救出し、その人物を伴って、次の目的地へと向うこととなった。

その道すがら、街道警備員らしき武装騎士と出会う。
往路では、彼らの同輩と気軽に挨拶を交わしている。その同輩から、道を歩け、荒野は避けろとアドバイスを受けた帰路、街道を歩いていたときのことである。

警備員いわく、「牢に入るか、抵抗するか、選べ」

テントでの盗みが、懲役刑に!?
武装を盗んでしまったのがアカンかったのだろうか。
ポートレイトを見れば、賞金額が2000となっている。

盗みは科といえど、密命を帯びた身。ここで捕まるわけにはいかぬ。

まだおぼつかないヒット&アウェイの戦闘で、辛勝。

すまん、この身に大義がなければ・・・

刹那、同行者の刃がfirstを貫いた。
同行者は聖職者。法に反する行為は、たとえ大義のためでも見過ごせないらしい。

・・・かような事情で、firstは大義のため荒野をひそみ進むようになった。
どうにか警備員に見つかることなくクエストを進め、ついには乗馬を獲得。途中、寄り道したダンジョンで有用なマジックアイテムを発見し、逃げる鹿を追跡できるほどの脚力を獲得した今では、馬の操作性と速度に対して、いまいち快適性を見いだせずにいる。

2010年1月25日 (月)

読物 『狼と香辛料 ⅩⅠ』

主役二人のどうでもいいナニはおいといて。

中世っぽい世界の貴族の服、その入手方法はいかなものだったのだろうか。
江戸期を舞台にしたドラマなどでは、呉服屋が顧客に生地を見せる風景を見かけることができる。針子という存在は既知としていても、そういえば、仕立て屋的なものは見たことがないような気がする。
庶民は、安い生地を求め、あるいは生地も自作して、自ら仕立てたのだろうか。わからないが、古着以外は、身分を問わずすべてオーダーメイドではなかったのだろうか。
既製服的な概念はあったのだろうか。

そんなことを考えつつ。
短編三作のうち二作は「激甘」とかぬかす非俺様仕様。
一作は、没落貴族にして同世界の修羅を一身に背負う女商人エーブの過去話。服を売る話だが、大前提に?がついちゃった次第である。

2010年1月24日 (日)

読物 『忍びの国』

このタイトル、サムネイル化されたカバー装丁画像が、第一印象として牧歌的なものを我が身に植え付けた。

その内容はあにはらんや、忍術ならぬ忍略なるものを無情に描いたもので、直前に読んだ『柳生兵庫助』の一時代前となる舞台設定であることに奇しなる縁を覚えつつも、喜び狂いながらむさぼるように読んだ。

ほぼ同年代の著者がもつ、忍者というものに対するイメージはたぶん、我が身がもつそれと大きく異なるものではない。狂気から覚めさせられた終盤、そんなことを思うようになった。

嗜好の作品となりえたかもしれない。

戦闘描写に終始した終盤の展開が、非常に残念な作品だった。

2010年1月23日 (土)

読物 『柳生兵庫助』

津本陽という作家の作品は『薩南示現流』『人斬り剣奥義』『武神の階』『大谷光瑞の生涯』『明治撃剣会』『幕末剣客伝』と読んで、いずれもカタいという印象をもっていた。読みにくいということではなく、考証を第一義とする、という印象である。
ゆえに、本書にはいささか驚かされた。かつて「SF小説に萌えいれんなや」というキれ方を目にして、なにをそんなに目くじらを立てるのかと思ったものだが、本作にはそれと似たような感慨を抱くを禁じ得ない。ただし、ジャンルに対してではなく、作家に対して、だが。 無理しなさんなよ、というか、執筆時、念頭にあったのは吉川英治だったのだろうか、と思うを禁じ得ない。

 

かつて剣豪小説は、頭脳で咀嚼していたような気がする。
乏しい知識を糾合してはTRPGで実践するという、良くいえばイメージトレーニング、悪くいえば妄想をしか経験のない身の上としては、そうするしか術理を解釈する術がなかったのだろう。

たしなむようになって七年、かつて「習い覚えたこの技は、いざというとき使えるものなのか」と疑うしかなかった未熟者はいま、「いざというとき、行えるかもしれない」という程度の未熟者になりおおせている。手足に染み込みつつあるということなのだろう。

そのような変化を経て久々に読む剣豪小説は、かつてとは違った響き方をする。
頭脳ではなく、身の内にあるなにか芯のようなものに感応するとでもいえようか。

「鳥飼い」「間切り(ひきり)」という言葉は、特に響く。同書の言葉を借りれば、「刃引きを用いる一刀流の組太刀稽古が、ともすれば舞がごとく終始してしまう」こととともに、強く響く。

 

頭脳でのみ理解していた折、それを披露する機会があった。
関西在住のとき、当時まだ国内では学術分野にのみ公開されていたインターネットを通じて知り合った方々と、"Act wit Tarot"(AwT)という同人TRPGシステムを用いたセッションに参加した時のことである。

AwTでは、プレイヤーはアクターと呼称され、マスターはディレクターと呼称される。ディレクターは基本的にアクターの行為を良い方向に解釈し、ともに物語を作り上げていくというスタンスを持つ。アイテム獲得やレベルアップは、プレイヤーすなわちアクターの目的になり得ない。
悪しざまに解釈すればゴッコ遊びとなるが、ともすればマスターvsプレイヤーという図式に陥ってしまう可能性を孕んだ従来式のTRPGの一つの解決方法といえよう。とはいえ、GGという団体に所属していたことで既にその解決方法に辿りついていた我が身には、このプレイスタイルそのものには目新しいものはなかった。だが、システムがそれを推奨するということが当時としては珍しいものであった。
背景世界としては、スチームパンクをガジェットとした"Steam Britain"、現代にオーバーテクノロジーと魔法と超伝奇を加味した"Deamon Japan"、江戸期の日本に怪しげなテクノロジーを混入させた"Ethereal Japan(EJ)"などが有志によって作成された。
今振り返ってみれば、1990年代初頭のエンターテイメント、TRPGの流行を読み取ることができる。ギブスンや麻宮騎亜、士郎正宗が余熱をもった時代であった。

AwTはロールプレイ重視――という概念もGGというサークルの外で初めて耳にした言葉であった。そうでない遊び方がTRPGにあるとは考えていなかった――であるが、同システムの語用をしてアクト、すなわちプレイすることがただのゴッコ遊びに陥らぬための工夫として、乱数要素となるタロットカードを用いていた。キャラクターメイクも、行為判定も、タロットカードを用いる。
ただし、キャラクターは能力値は持たず、身分と特殊能力、スキルのみがデータ的キャラクターを表現するすべてとなる。行為判定は、数値による達成度判定ではなく、行為の結果をタロットで占うというものである。

ともあれ、EJでAwTデビューを果たした我が身は、カードの導きによって幕末薩摩の武士を作成した。剣技に非常に高いスキルを獲得した我が分身は、導入にてチンピラ町人数名に絡まれるという事件に遭遇する。
当時の我が知識においても、剣技に精通するものは無手でもかなりの戦闘力を発揮するという認識を抱くに至っていた。そのような知識を糾合し、手刀などで軽くあしらったのだが、ディレクターにはそれが物足りなく感じられたのか、唐突に、その中の一人が柔道を身につけているということになる。
幕末に柔道が存在したかどうか、当時は知識をもっていなかった。また、幕末とはいえ、町人に軽んじられることは武士として士道不覚悟であるらしいという認識を有していた。

そのときのディレクターが格闘技に対して知識が絶無だったことはさておき、ひどく高い剣技スキルを有する我がキャラクターは、「柔道の心得のあるぽっと出の町人」風情にたやすく襟を許してしまう。行為判定はない。その「ぽっと出」が高位の柔道スキルを有しているwということで、そうなった。

「つかまれちゃったのかね?」

と、我が身が問えば、

「つかまれちゃったよ」

と、ディレクターは応じる。その「事実」を譲る気はないらしい。つまりは、相当できる奴であると、我が身は解釈した。

襟をつかんで、即座に背負い投げをするという。襟をたやすくつかませてしまったという「事態」には目をつぶっても、さすがにそれは許せない。仕方なく、「背負いをするというからには、相手は身を入れてくる必要がある。それを半身になってこらえ、抜かず柄頭で水月を打つよ」と行動宣言をした。そこで卓のメンバーが「おお」とどよめく。なんの気なしに、自然に口をついて出た、実現可能かどうかわからない格闘の所作表現が、それなりの感銘を与えたらしい。

ディレクターも感銘を受けたようで、「君、それをルールにしたまえ」とのたまう。

AwTのルールはあってなきがごとしものだったが、アクトの参考資料として背景世界(というか時代)の風俗やテクノロジーについて有志がテキストを作成していた。格闘術について、それを作れということらしい。

答えて曰く、「無理」

時代は、"GURPS Martial Arts"が発売される直前のことであった。
格闘ゲームと『ベルセルク』を筆頭とする漫画、いくばくかの時代小説とTRPGで培った「戦闘経験」のみが、当時の我が知識の全てだった。その程度の知識なら、ルールとやらができあがるのを待つより、各位が読むなりして精進する方が早い。それくらいの努力ができないなら、その方面においてTRPGでカッコつけようとすんな。当時はそんな風に考えていたように思う。

そもそも戦闘のバリエーションなどルール化するのが野暮というもので、シチュエーションとサイコロの目を読んで、それなりの演出を互いに交換する程度でないと、ゲームは回せない。濃いルールは、ゲームのプレイアビリティを著しく低減させる。余談だが、1990年終盤から2000年代のTRPGシステムは、そのような考えを念頭に、戦闘は軽く激しく楽しくなるよう、作られているようである。

そのあと、その「ぽっと出の町人」を斬ってしまい、セッションが思わぬ方向に転がってしまったことはさておき。

以上は、知識だけでもある程度のことはできることの一つの実体験であるが、格闘技術をある程度身につけた今なら、もっと別のアクション、別の結果を出すことができるに違いないと思う。
この小説が、かつての我が身にはなかった部分で感応したように。
たいていの小説は戦闘シーンなど斜め読みしてしまうのだが、本作品においてはわりと熱心に読ませられ、考えさせられた。至らぬ身ゆえ誤解の可能性もあるが、我が身が学ぶところの技術や概念に対するヒントがあったように思うのである。

以下、余談であるが。
このとき、AwT EJのディレクターを行った人物は院生であり女性で、「~かね」という話口調を有す眼鏡人であった。同じ時期、所属していたTRPGサークルには高校生だか高卒後無所属だかの女性がいたが、「ボク」口調であった。
未だ世に「萌え」という概念が登場する前の時代のことである。

2010年1月22日 (金)

読物 『化物語』

あわないと思われるものは極力摂取しない。
とりたてて、あわないものを積極的に批難したいわけではなく、叶うならばktkrとしたいものだがそうもいかず、だから、あいそうにないものを避けるようになった。不運にして回避しえなかったものは、反省の個人的マイルストーンとして記録する。
その考えに従うならば『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズなど既知とするはずもなく、ましてやほどほどにFavoriteとなるはずもないことで、そういう経験が基底となって『化物語』というシリーズを身の糧にすることもなかったはずなのだ。

あいそうにないからといって触れないことを選択するようになった背景には幾つかの事情があるにせよ、まったく触れずにはいられないし、たまには冒険もする。
ささやかな冒険の一つとして、非表紙買いで知りえたのが『辺境警備』であり、紹介されて懐疑的ながらも「よしみる」という懐かしい名前をよりどころとして(『亜空転騒フィクサリア』が好きだったという程度にすぎないが)着手した『E.G.コンバット』を経て、冒険の範囲と難易度を高める必要性を感じつつも、その気になっては地雷を踏んで経験値と金を失って教会からやりなおしというありさまではレベルが上がろうはずもなく、いらんスキルとFactionばかりが身についていた。

さておき、ハルヒシリーズと本シリーズについて、我が興味が傾倒していく様がほぼ同一であり、またいずれもかつての我が身であったなら間違いなく触れることはなかっただろうと思えば、それなりの感慨を得ないでもない。傾倒というと語調が強いが、最低限一通り作品群に触れたという程度にすぎず、まずアニメを観賞して、しかるのち文章作品を試したにすぎない。
ハルヒシリーズについては「ああなるほど」という感慨から「詰みぽ?」という印象に移行して、おそらくという思いはあるものの、穏やかに終焉を待つ心持である。

本シリーズについては。

『化物語』
アニメ作品では下巻のエピソード「つばさキャット」の中途まで展開し、以後、配信が滞っている。アニメで鑑賞した個所までは楽しく読めたが、以後は。
筆舌に尽くしがたい。

『傷物語』
アニメ作品で90秒ほど映像化されている。小説作品を読んでみようかという気になったのは、この部分を補完したくなったためであり、それは果たせた。
楽しい作品である。

『偽物語』
『化物語』と同様、下巻の中盤までは楽しい。マイク・オールドフィールドのアルバム"Amarok"を思い出させた。
クライマックスおよびエンディングは、筆舌に尽くしがたい。

続刊が二作予定されているが、著者の言葉遊びには付き合いきれんという印象だけは拭い得ず、プラスだけどマイナスということろで、特に強く渇望するところではない。知りたいことは知ったし、小説作品を読み捨てるという心境も手に入れたし、流れに身を任せてみようと思う。

PS.実は一度アニメ版鑑賞を挫折している。主人公?阿羅々木暦のビジュアルがR・田中一郎と重なったことがおそらく潜在意識を刺激し、とりあえず鑑賞を続けるきっかけとなったに違いない。

2010年1月20日 (水)

Oblivion of first その1

キャラクターネームはfirst。

動作保証もない試験的な状況であったことから、キャラクターを再作成するつもりで臨んだことを、ネーミングのいいわけとさせていただこう。

ストーリーとよべるものはあるらしいが、それに沿うことは必須ではないゲーム。わりと長い時間をかけてクエストの目的地へ到着し、そこでこれまでにない恐るべき敵と遭遇し、死亡。こういう時に限ってセーブをしていないという法則を見事に体現して、悟った。

寄り道をしよう、と。
ウィルダネスを徘徊するうちにダンジョンに出会う。片っ端から、それに潜ろうと。

メインストーリーは権力者のアレコレに関わるためか、はじめてのお使いを達成した時点で装備品の支援を受けることが出来た。なかなかよい武装を手に入れ、姿ばかりは立派な騎士となったが、目的から外れて戦いに興ずるうちにそれらはぼろとなり、今では上半身裸、ハダシの落武者の体を示している。ぼろでもまとっていれば絵にはなるが、重量制限があるために、いらんものは捨てた方が吉。かくして我がPCは、ガッツに一刀両断されるために登場する有象無象がごとき様相を呈することとあいなった。

片手武器+盾をほどよく併用すれよかったのだろうが、両手武器の爽快感にかまけているうちに鎧の破損が著しくなってしまったということなのだろう。
このゲームには鎧のスキルもあり、スキルが上昇すると、損耗率が低下するようになっている。温存してもなんなのだが、代替品を見つけられない状況が続くのは困ったもんであり、魔法の武器を手に入れ、スキルやレベルも上がったものの、装備的にメインストリームへ戻れない感がひしひしと募っている。

2010年1月18日 (月)

1st Impression of "Oblivion"

年明けの第二週目のこと、『ベヨネッタ』を遊ばなくなって、そういえば『オブリビオン』を遊ぼうと考えていたことを思い出す。

PS3版かな。かな?といろいろ調べてたら、"Game of the Year"版が近々発売されるという。なんじゃそりゃ。キーワードを変えて調べてみたら、PC版のそれはすでに発売済みで、価格は最安値で2980円だという。コンシューマ版のおよそ半額程度である。

ただし、日本語ではない。

しかし、日本語表示にする方法はある。

全訳ではないが、Oblivionを愛する同好の士のボランティアによって、日本語化パッチが開発され、遊ぶに支障のない程度に日本語化されているという。多少の英語なら、かつてEQを米鯖で遊んでいた身の上としては、華麗にスルーすることができる。問題はない。

どこで買えるのかと調べてみると、タイミングが悪いのか、コンシューマ版しかヒットしない。アレコレして輸入ゲーム取扱店を二店舗見つけ出した6日の時点で、一方では13日再入荷、もう一方では9日に再入荷となっていた。
「輸入ゲームの小規模店舗における通販」にいわれなき敷居の高さを感じたためか、なんとかして地元で手に入らないかとアクションを起こしてみたが果たせず、9日に再入荷とあったIFeelGroovy.netに注文することにした。よくよく調べてみたら、Oblivion.wikiに購入方法の一択としてリンクがあったことは余談である。

受注確認のメールを受け取り、wktkと入荷状況の更新を待ったが、ない。メールで問い合わせたら、16日入荷分を16日に発送するとのことである。即時対応が気に入ったので待ってやることにし、17日夕刻、ヘロヘロになりながら帰宅したところ、着荷していた。

日本語化wikiの手順に従って、インストール、同梱のパッチインストール、起動――

トラブル。
「Win7は動作するという報告もある」「Win7でも問題なく動作する」という情報は事前に確かめており、構成次第では動作しないかもしれないということはあらかじめわかっていた。公式ホームページには動作環境をチェックする機能があり、これもまた事前に調べておいたところ、OS以外はクリアだった。

特に情報なしで思いつくことといえば、マルチディスプレイをシングルディスプレイに変更すること。Oblivion異常終了時の挙動から、そう察せられた。もう一つ、オプションでフルスクリーンモードからウィンドウモードに変更すること。理由は同じである。さて、どうか。
――起動確認。

手順の続き、チュートリアルをちょっと遊んでみる。問題ない。
この時点での印象は、3Dの『ブランディッシュ』というところ。

しばらく遊んで、日本語化の手順に着手。その第一歩、日本語化パッチのダウンロードがうまくいかない。本文中のリンクから辿り着くDLサイトが超絶ムカつく仕様で、どうやってもDL開始しない。アレコレ試して、左側メニューの「日本語化パッチ」からダウンロードできることがわかった。

HPの手順とパッチに同梱のReadmeに差異があるが、なんとか読みこなしてパッチを当て、MODを適用し、表示確認、OK。とりあえず日本語化完了。ゲーム続行。

途中、星座を選んだり、クラスを選んだりするが、よくわかんない時は戦士系をやっときゃ間違いないという経験則により、星座はWarriorの星座、クラスはKnightを選択する。初期ダンジョンを進むうち、Sneakやら射撃やら、調合やらできることがわかり、慣れないながらもそう簡単に死ぬようには作られておらず、特に難はなく突破。
この時点での印象は、Own Viewではない『キングス・フィールドⅣ』。

屋外に出て、第一の印象はやはり『EverQuest』である。これはもう、我が身には致し方のないことであろう。
ナビゲーションが表示されるものの、よくわからんままに進んでいくと、人影を認めた。ストーリーとは無縁の、初めての遭遇である。ちょっと嬉しくなりながら、しかし警戒しつつ接近したら、射かけられた。どうやら盗賊のねぐらを発見してしまったらしい。この辺、やっぱりEQを思い出させられる。カラナ平原をひたすら斜め走りで逃げ続けたあの日々、懐かしい。
射手を追いかけていくと、斧をもったねーちゃんが突貫してきた。操作はまだおぼつかないが、ポーション飲みまくりの適当に防御しつつ攻撃ーので、ハリネズミのように矢を受けながらも撃退。いくばくかの戦利品と、休息所を手に入れる。

このゲームの大きな要素としてRadiant AIというものがあり、これはナニかというと、NPCもなんらかの行動基準をもち活動するというもので、やはりEQのFactionによるMobの挙動を思い出させる。EQでは単純に互いの属する派閥(おおまかにいえば善悪であるとか、対立する勢力であるとか)間の関係(良好、ふつう、攻撃的など)に従って、NPCは行動していた。NPC同士で戦うことも日常的なことであるが、デフォルトでそうはならないように配置されている。 さておき、短いプレイ時間(といいつつもいつの間にか2時間を超えていたわけだが)の間にもRadiant AIが垣間見せる「ドラマ」の一片を垣間見た。
とある廃墟にKhajiitの追剥がおり、Sneakで接敵、射かけてみたところ、思わぬ難敵で、楯を巧妙に使用しつつ、強撃でこちらのブロックをやぶりダメージを与えてくる。なるほど、そういう戦い方をするのかと得心しつつ、入手していたWar Hammerに持ちかえ、ブロックしつつ強打を見舞う。片手剣ではなしえなかった、楯ごと相手をぶちのめす手ごたえがあり、勝利。
廃墟を探索したところ、宝の周りにゴブリンの死体があり、こいつは仲間割れをしたのだろうか、それとも追剥にやられたのだろうかと状況を詮索してみたり。

開始直後のつかみはおっけ~とは言い難い作品である。洋ゲーであるからして、キャラメイクに期待してもいけない。
このゲームが合うか合わないかは、開始二時間後にはおそらく結論が出ているであろう。

まとめ:

  • OblivionはWin7でも起動する。
  • 起動しない場合、マルチディスプレイをやめてみる。
  • それでも起動しない場合、ウィンドウモードに設定する。(デフォルトはフルスクリーン)
  • 日本語化パッチ、ModはWin7でも動作する。
  • 臆せず進め。

2010年1月16日 (土)

漫画 『超人ロック 凍てついた星座』

まさか『神童』に絡むエピソードが描かれるとは。

たしかにオト・ペテルセンはロックの登場人物としてはユニークな存在だし、アリかなと思うけれど、メジャーな人物とは言い難い。押し所としては弱いと感じるのだが、人気キャラなのだろうか。

レオン、ライオット、ダークライオン、クーガー。そしてレオノーラ。猫科の猛獣の名を与えられたキャラクターはいつも不遇である。

漫画 『超人ロック エピタフ』

個人的には、『聖者の涙』以来の大当たり。

ロックはやはり帝国時代の話が一番面白い。

本編エピタフは、『永遠の旅人』『魔術師の鏡』にて印象に残る名脇役として登場したド・ラージュを主人公としている。いささか既存エピソードと不整合を起こしているが、ロック特有の「アレがココに!」感を堪能することができる。

短編『カル・ダーム一世』では、いかにしてトレスが服毒するに至ったのかが描かれている。当時は皇族の若返りというものが周知されてはおらず、いささか早すぎる帝国の失墜と受け止めたものだが、『メヌエット』で初めて補完され、本編でさらに充実したことになる。

この楽しみは、やめられんのう。

2010年1月12日 (火)

ALICE、V-MAX発動!

読むまでもないと一度はケリをつけたものの、やっぱ読まにゃケチもつけらんよなと思い直して、3巻まで読んだ。我慢して読んだ。

もうダメだ。

どうやら全10巻で完結したらしい。挫折したゆえその物語運びをしかとは知らないが、3巻までのペース配分を見てアレコレ妄想するに、まず10巻というノルマありき、という疑いを抱いてしまうを禁じ得ない。

『機動戦士ガンダム UC』

一言でいうなら「既存の正史ガンダムを全て因数分解して、特殊部隊を足し、修行不足のトミノ節とヤスヒコ調で呻吟してみた」という印象である。

プロ作家の筆致はさすがというべきであろうが、細かい映像描写をイチイチ文章にしたようなストーリーテリングは、あまり乗り気でない読者向けではないと強く感じられる。なによりも、正史に消えない足跡を刻んでやるぜ的な野心がとにかく鼻につく。

アレコレ突っ込んでられないくらいに、あわない作品であった。

2010年1月10日 (日)

アニメ 『ミラーリング』

『超人ロック』映像化第四弾。

『魔女の世紀』『ロードレオン』と並ぶ人気エピソード『光の剣』の映像化のために、まずランとニアのことを説明する必要があるだろうということで『新世界戦隊』との二部構成が企画されたが、尺の都合から『新世界戦隊』単独での実現となったらしい。その後、なんだかよくわからんが『ミラーリング』を作ることになったらしく、しかし企画が頓挫し、ようやっと完成にこぎつけたというが。
コミック版もいきなりな展開だったんだから、アニメもいきなりでいいじゃんかよっ!と思うのだが、余計な事をしたために未だに『光の剣』映像化が実現していないという体たらく。南無。

かつて我が身は月刊『超人ロックSpecial』を購読していたが、『ミラーリング』は正直、第一印象は悪かった。単行本ではなく、連載で追っていたためであろうか。『新世界戦隊』が好きでないためであろうか。
あるいはランというキャラクターのためかもしれない。後に光の剣を抜いてオイシイところを全部持ってく男となるが、その出自はおそらく漫画文化的に嚆矢たる妄想系ヒッキーで、そのためか、作画グループ版『新世界戦隊』は読まなきゃよかったという印象がなきにしもあらず。『光の剣』のままのランでいて欲しかったよと、当時は思ったものである。

正史としては、作画グループ版『新世界戦隊』、『ミラーリング』、『光の剣』となる。『ミラーリング』は蛇足的エピソードではあるが、新登場のヒロイン二人がなかなかよく、物語の座りもよい。
エレナをライガー1のプロトタイプと見なすこともできるし、なかなかくすぐる出来栄えである。

そんなことがわかってみれば、旦那、一本取られましたヨってなもんで印象は裏返る。思い返してみれば、超人ロックはそんなんが多い。聖センセ、たいしたもんです。
とはいえ、当時、映像化の広報を見ても期待の持てる作品とは思えず、『新世界戦隊』も『ミラーリング』もスルーしていた。『ロードレオン』にがっかりしたせいでもある。

『ロードレオン』にはしかし、映像特典ともいうべきOP映像があり、(ほんのちょっとだが)動いているニケやらナガトやらを見ることができる。それだけで評価を上げてしまうのもなんだが、たまに見たくなることは事実で、見ているうちに未見の作品を観賞する義務があるのではないかと思えてきちゃったというわけだが。

さて。
超人ロックの映像化作品は、ひょっとすると第一作目の『魔女の世紀』が最も良い出来なのかもしれない。次が『ロードレオン』。現時点で最新作たる『ミラーリング』は個人的には最下位である。
『ミラーリング』のナニがあかんかというと、映像作品単体でストーリーを語る努力を放棄しており、原作を読んでいることが前提のつくりとなっている。どんだけ低予算なんだと。
男前なニアを見るためだけに我慢して見ました! といっても過言ではない。
『新世界戦隊』は好きな話ではないがゆえに後回しにしたのだが、見るべきか否か、義務とはいえ、ちょっと迷う。

ともあれ、しばらく放置している間に『エピタフ』『凍てついた星座』が完結し、『ライザ』が未購入(とはいえ作画グループ版は所有している)であることがわかり、新エピソード『ニルヴァーナ』が開始していた。『エピタフ』一巻から二年未満で、単行本六冊分の仕事をしてしまうのはスゴい。

2010年1月 7日 (木)

漫画 『王様の仕立て屋』

なにを隠そう、服屋のせがれである。

戦前、東京で修業し、戦後、岐阜まで仕入に行ったという祖父が店を上げた。当時はなんでも扱ったらしいが、時の流れとともに転換を図らざるを得なくなり、婦人服専門となって今に至る。現在では入ろうとしても隙間もないが、地元に百貨店が支店を開いた折、ちょうどいい案配にウェルカムで店子に入り、以来半世紀。ブランド志向に転じた百貨店側の思惑とは裏腹に同部門では上位の成績を維持し続けて、居座り続けている。そんなところからも百貨店と地元商店街との折り合いの悪さが垣間見え、となれば市中心部の空洞化もむべなるかな。

さておき、同門に、在りし日々水商売をしていた方がいて、ふとした折にそんな話題がでたところ、過日にはご愛顧いただいていたことが明らかとなり、また是非よろしくとお願い申し上げたが、高くて手が出ないなどとダメだしされつつ、当時、一品モノを扱う店は他になかったことを教えられた。その店の服を着ていることが自慢であったと。事実無根ということもなかろうが、世辞には違いない。小規模な拡大と最終防衛ラインまでの撤退を経験した家業の裏事情と、おそらくは無縁ではない方の一人であろうと察する次第である。

勿論、継いでいない。

衣食住というが、食住衣ではあるまいかという感性の持ち主が立ち入ってはいけない領域であろう。たとえばファッションというもののランクを十段階にしたとして、二段階か三段階程度のモノで十二分と考える程度の了見であるからして、稼業は弟に任せ、生来の無頓着を貫いている。

そんな男だが、この作品は面白いと感じられる。
衣にというよりはトリビアに、著者の広い見識に惹かれているとしても。

絵は、下手だ。良くいえば80年代の風合いを色濃く残しているといえるが、一向に上達する気配を見せない。だが、良くフィットする。

既刊26巻のうち、13巻まで読んだ。まだ飽きないのは、昨今では実に珍しいことである。

2010年1月 4日 (月)

棚卸し

2009年の新規読破数は87冊。

キマイラ・吼シリーズ、ドラゴンランス旧シリーズなど、わりとボリュームのあるシリーズの再読が大台の突破を阻害したか。

一昨年の年初は『フーコーの振り子』に狂喜し、昨年の年初は前年から継続して『とらドラ!』を読んでいた。
今年は前年からの継続で全八巻中の四巻目を読んでいる。

2010年1月 3日 (日)

読み初め

晦日も目前のある日、わりと半端なスケジュールの空白が出来て、風邪というか扁桃炎からの回復も怪しい体力で思いつける暇の潰し方としては映画か漫画喫茶というところだった。

後者を選択して三昧の境地に至ったわけだが、なにを読んだかよく覚えていない。完結した『ぼくらの』を読んだことは覚えていて、「あら、そう」ってな結末は、再読すればもうちょっとわかりようもあろうかとは思うが、再読する気にもなれないものであり、きっと『GANTZ』も似たような終わり方するんだろうなあとセキズイ反射的に思うのみである。
どうでもよくなっちまった漫画つながりで『シグルイ』を読んだことを思い出したが、やはり同様の『刃牙』『餓狼伝』と対にして、誰かコイツら止めろってカンジ。

これまで未読だったものも幾つか読んだ。
『バクマン。』は、何はさておき王道で、幾重にも重なったメタ構造が面白い。
一方『アオイホノオ』は、よくいえば気負いすぎで、悪くいえばあんま面白くない。助走つけすぎというか。面白くなる前に力尽きるんじゃなかろうかとか。

そういえば、例の皆神山つながりで『強殖装甲ガイバー』を再読してみたら、作中では魅奈神山となっていた。当て字がなんとなく昭和だなとか思いつつ、三浦健太郎はガイバーを意識しているのではないかとか思ったり思わなかったり。逆も真のような。

かような経緯からスイッチが入ったようで、この年始、『パイナップルARMY』と『MASTERキートン』を一気読みした。元旦二日と親族系の行事に予定を埋められ、休みは残り一日、他に思いつくこともなかったということもある。

『パイナップルARMY』は短くよくまとまっており、とくにいうことなくFavoriteであった。『MASTERキートン』はかなり暇な時代にわりとリアルタイムで追っていたせいもあろう、当初は「おもれ~」だったがやがて「いい加減終われ」となったことを覚えていて、その分個人的評価が低い。
読み返してみればどちらも面白く、よくできている。

昨年『Dr.コトー診療所』を読んだのだが、いつの間に浦沢ismな作家になっていたのやら、物語はさておき、主人公を含め登場人物の笑みがひどく気に障ったことを思い出させられた。

2010年1月 2日 (土)

初料理

ミートローフとみそケーキ。

夕食に具したことがきっかけとなり、母の命で、年に数度ある親戚の集いでは俺様ちゃんが料理を一品提供することがならわしとなってしまった。

手料理というフィルターがかかれば、まぜて焼くだけの簡単料理にもお褒めの言葉を頂戴できる。

ささやかな、おもてなし。

2010年1月 1日 (金)

謹賀新年

年の大詰めそして年の序の試練は、親父につきあって旦那寺の年始のお念仏に参座することである。参座することそれ自体はさしたることはないが、寒中にて体調に入念な気配りをせねばならぬ事、元旦が台無しになる事が必須となる。それが厳しい。

参座して三年目ともなれば、普段は顔を見せずともそれなりな扱いをしていただけるもので、大いに恐縮しながらも先輩諸氏の薫陶をいただきつつ、末席に恥を晒している次第。

オヤジ連のつきあいに厚顔を突き出せるようになったのは、ひょっとしたら年の功かもしれないと思いつつ、また無駄に年を重ねていると思うを禁じ得ない。

ともあれ。

今年もよろしくお願いいたします。

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