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2009年11月10日 (火)

読物 『宮本武蔵』

 勝ちと錯覚させたのは、武蔵の誘いであった。武蔵はつねに敵を誘う。

P.209より

司馬遼太郎の。
先に読んだ『真説~』をより詳細にした内容といって差し支えない。本書と比した場合、『真説~』がやや斜めに見ている印象がある。いずれにしても英雄伝ではない。
本書が伝えるものにどれだけの創作が含まれているかは知るべくもないが、等身大の人物像として受け止めることは難しくない。

武蔵がなにより重視したのは「見切り」であり、後の先であるという。術レベルではなく、略レベルでそれを実践していたともいう。
武術というものは基本的に待つものである。例外は、実力差が介在する場合であるが、この場合は彼をより我の制御下におくことができ、つまりは誘うこともより容易となる。後の先の進化形、これを先先の先、または気の先という。

「見切り」について、巌流島の下りがその骨頂で、武蔵は鉢巻を斬られたが、負傷したかどうかは定かではなかった。よく知られている逸話のとおり、決闘後、さっさと引き上げてしまい、そのまま旅に出てしまったからである。後に、とある家中のKYな臣がそれをただし、武蔵の怒りを招いたという。
武蔵の頭には幼時に患った腫瘍の後遺症があり、頭頂部が禿げていたというのである。総髪で隠していたそれは恥部という認識であったのだろう、そのことを明かしながら、「傷があるか、否や?」と髪をかきわけながら詰め寄ったというのである。
斬られぬことに矜持をいだいていたからこその怒りでもあろうが、蛮勇を示すために崖下の切りそいだ竹薮に飛び降り、竹で足を突き抜かれながら、こともなげに馬糞をつめて行軍を続けたという逸話と並べてみれば、やはり並みの人間ではなかったのだろうと感じ入るばかりである。

作中に語られる柳生兵庫助の武蔵評は、現在ではよく知られるものであろう。二天一流が後世に残らなかった理由としても知られるものである。
それを引用して著者は、「武蔵の兵法には欠陥があったとしか思えず、それを武蔵という個の、桁外れの気質が埋めていたとしか思えない」というようなことを述べている。
これもまた、本書着手の動機となった『大山倍達正伝』と対照するに、むべなるかなと思わせるものである。

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コメント

まだ届いてないので「真説~」も読んでないのだけど、それが面白かったら続けて読んでみるよ。そのときはちゃんとアフィするよwww

後の先などの剣理はさまざまな流派で語られるものだけど、とりわけ新陰流においては相当細やかに規定されている。そのあたりの機微を知るに、津本陽の「柳生兵庫助」全8巻はとても良いものだ。俺が買いそろえたのは20年くらい前だけど、実家に戻ったとき、たまに読み返したりする。

池波や司馬のような情念や色合いはないが、剣理、術理、精神性などを小説に落とし込む力量は見事というほかない。
津本陽自身が抜刀術や剣道の高段者ということもあり、しかも柳生に対する取材の濃さ、細やかさも相当で、柳生宗主が舌を巻くできばえ。

もし入手可能なら、という条件付きで、とりあえずお勧めしておく。

津本陽は『武神の階』『大谷光瑞の生涯』など単巻モノを幾つか読んだが、さっぱりキオクから抜け落ちてしまっているw
『薩南示現流』はなんとなく覚えていて、少年の頃『六三四の剣』を読んで「九州の人は皆、立ち木打ちを日課としているッ!」と刷り込まれたことを思い出したよ。

剣豪小説の類は、自らも体育を習い始める前と始めた後で印象がちょっと変わっていて、以前はふ~んとしか読んでいなかったものが、得心したり首を傾げたりというように、いちいち引っかかってるようであり、この変化も興味深い。
左様な見地からすると、自ら武道を嗜んでいるという津本の作品は、是非読まねばなるまい。

読めば柳生一門や、剣理などに詳しくなること請け合い。
某剣豪伝を作るときにも参考にした。
柳生の技や記述、また槍術に疋田陰流を宝蔵院と並んで選んだのもこの影響。
宝蔵院胤栄も上泉伊勢守の弟子だしね。ゆえなきことではない^^;


あとたとえばバガボンドなどにも出てきた有名なシーン。
柳生石舟斎が上泉伊勢守に負け、その弟子にも負けるところ。
あのときたいていの作品では上泉伊勢守はふたりの従者(高弟)をしたがえており、それは神後伊豆と疋田豊五郎なのだけど、その疋田豊五郎にさえ3度負けたという記述を採る作品も多い。


この疋田豊五郎、「柳生兵庫助」でも中盤以降、重要なメンターとしての役割を果たし、いい味を出している。
豊五郎が得意とする「栴檀のくねりうち」を受けた兵庫助がそののち、介者剣術を素肌剣術に進化させていく興味深いシークエンスがある。
上泉伊勢守創始の「ふくろ竹刀」といい「素肌剣術」といい、後の剣術、剣道への確かな道筋を知ることができるのだ。
素肌剣術に関しては兵庫助だけではなく、同時期の剣豪たちの中にも気づいた者たちがいたとは思うけどな。


関係ないが。
上泉伊勢守の高弟のひとり、のちのタイ捨流の創始者、丸目蔵人佐。
示現流は、この丸目蔵人佐のタイ捨流と、薩摩の御留流、天真正自顕流など修めた東郷重位が創始したもの。
薩南示現流にも名前くらい出てきていたと記憶している。

うちのパネポン小僧の実家が人吉球磨郡で、10年以上も前だけど初めて遊びに行ったとき。
俺は丸目蔵人佐が球磨郡ゆかりの人物だと知っていたから、「もしかして丸目蔵人佐の墓とかないのか?」と調べてみたらどうやらあるらしく(パネポン小僧は丸目蔵人佐って誰?って感じだったけど^^;)、
車を飛ばして探しにいったよ。
祠は道からちょっと離れた鬱蒼とした木立の中に、ちょこんと鎮座ましましていた。
なかばうち捨てられているんじゃないかって風合いだったが、それでも味があり、手を合わせて帰ってきたよ。

>某剣豪伝
果たして「某」は要るのだろうかという傍証はさておき。

疋田豊五郎は『雪の峠・剣の舞』で初見だったのだが、他に文献を探し出せなくて困っていた。実にありがたい。
これは是非読まねば。

丸目蔵人という名は覚えがある。当時は名前も知らず、縁の地であることも知らなかったけど、人吉に行ったときには「名物」らしい栗ごはんの駅弁食ったなあw

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