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2009年11月

2009年11月30日 (月)

読物 『ドラゴンランス秘史 青きドラゴン女卿の竜』

TRPGには、大別してプレイヤーキャラクター(PC)とノン・プレイヤーキャラクター(NPC)が登場する。まず例外はない(モンスターはNPCとして扱う)。NPCには、通行人Aもいれば大ボスもいる。印象に残る通行人Aもいれば、キオクに残らない大ボスもいる。雑魚から格上げになって常連となるNPCもあるだろう。
さておき、ゲームマスター的には、プレイヤーのトラウマになるようなNPCを出せれば本懐を遂げたといえることは間違いない。

手前ミソだが、関わったプレイヤー全員に等しい感情を抱かせたNPCを作り出したことがある。
PCに比べれば強力だが、強力すぎるということはなく、しかもその能力をほとんど使わずしてPCを圧倒した。ゲームマスターなのだから局面をある程度強制することは可能であり、造作もないというほどたやすいことではないが圧倒することも不可能ではない。豪腕をふるえば話は早いが、そうすると、たいていしらける。サマルトリアの王子イベントといえば通りがよいだろうか。
そうせずに、またそうと受け止められず、そのNPCの狡猾さ、エグさと認識させることはけっこう難しい。サマルトリアの王子の性格と受け止めるか、ゲームデザイナーうぜ~と受け止めるかというハナシである。
難易度の高いミッションだが、ゲームマスター側の楽しみの一つであることは間違いない。

余談ではあるが、そのNPCを含む、我が被創造物のうち印象に残るNPCのうち二人の魔法使いは、高校生の時に描いた中二病的な落書から生まれた。人前に出すために削り落とし、研ぎ澄ましたわけではある。そのまま出していたら、きっと秘匿したい過去となったに違いない。

そのNPCを創造したとき、フェアル=サスという魔術師は既知ではなかった。だから、そのNPCの誕生に影響を与えたものがあるとしたら萩原一至しかないわけだが、完成品にそうとわかる残滓はない。



フェアル=サス。
エルフの魔法使い。登場したときには既に死んでいた。

それが第一印象である。それ以上でもそれ以下でもないままに二十年が過ぎ、これを改める機会が訪れたことは望外のことであった。もし、前述のNPCを使おうと思ったときにこの魔法使いのことを既知としていたなら、大いに影響を受けたであろう。そうと思えるくらいにエグい。
<大変動>と呼ばれる災害を生き延びた三百歳を超えるエルフ。魔法の力に加え、とある特殊能力を有する彼は、第三部佳境のDIOを髣髴とさせる不気味さをたたえている。
その死に様には言いたいことはいっぱいあったが、能力値データ(STR:18/35 INT:13 WIS:11 DEX:17 CON:10 CHR:8)を見たらなんか納得してしまった。

本書はキティアラを描いたものである。だから、並び立つキャラクターたちも並ではいられない。フェアル=サスはその一人に過ぎない。
キティアラは武人として、戦略家として優れたる旨、既刊中にも描写があった。
劇的な登場シーンでは、かつての戦友にして、後に分かることだが情を交し合った相手を自らの手にかけた。アンデッドの騎士を配下にもち、力で君臨する皇帝に対し一歩も引かない剛勇をみせた。この頃から英雄色を好む様をみせ、『~戦記』クライマックスにはなんだかよくわからない女になってしまったが、『~伝説』でも重要な役割を果たしたさまは、その間抜けさと共に読者の記憶に深く刻まれたことだろう。
今回、新たにその器の非凡なるさまが描写されている。フィスタンダンティラスの将軍の姉、あるいは青い女卿の弟と並び称されるにふさわしく。


ソス卿。
当初、腐肉と骨のアンデッド騎士として描写されたこのキャラクターに、バケツ型のヘルメットをかぶせたのはキース=パーキンソンだったか。この優れたデザインは明らかにナズグルのオマージュであるがそんなことはどうでもよく、我が人生に大きな影響を与えたことは間違いない。『ドラゴンランス ファインアート』に記載された『ソス卿の進軍』に受けた衝撃は尋常ではない。

レイストリンとともに著者の愛を注入された筆舌に尽くしがたい魅力を持つキャラクターだが、本書で新たに、女神タキシスを袖にする男でもあるということが明らかとなった。
この騎士の強力な力はタキシスの与えたものということが今回明らかとなったが、それはおそらく、神々に背を向け続ける男の矜持に惚れこんだためであろうと読み取れる。『夏の炎の竜』以降、どうもタキシスはデレっぽい。

『~戦記』でも語られていることだが、女神の求めに対し、ソス卿が統べる恐怖の城で一夜を明かすことができる剛の者に仕えるという条件を提示した。それに応じたものがキティアラだったわけだが、それに至る経緯はこれまで語られることはなかった。
本書ではそのエピソードが記されている。読前は興味のあるエピソードであったが、読後においてはいささか知りたくなかったエピソードとなってしまったことはさておき、本書冒頭のシーンはランスファンには必読であろう。

アンチヒーロー、しかしヒーロー。そんな風に、キティアラの初期設定はなされたに違いない。しかし、それは主役を食うほどに強力な立ち位置であることが、プロジェクト開始後になってわかったに違いない。アンチヒーローはかくしてヒールとなった。そういう個人的妄想がある。
だからこそか、著者はキティアラというキャラクターを愛すると同時に嫌ってもいるようで、いささかランスの英雄たちを美化しすぎるきらいが見受けらる傍ら、キティアラを間抜けな目に合わせることにも余念がない。もっともワリを食ったキャラであろう。
それでもなお、本書におけるキティアラの武勇には一見の価値がある。長すぎた時の間隙に、著者らが自ら記した記述を忘れてしまっているように見えたとしても。


いまさらだが、この物語は幾つものアンチテーゼを含んでいる。
旧TSR的一般常識からすると、いわゆる魔法的なものは「神の奇跡」と「魔術の技」に大別される。僧侶は信仰する神に祈願して奇跡という魔法を行い、魔術師はその世界では技芸の一つと認識されている技術を行使して魔法をなす。これは多くのTRPGに踏襲され、CRPGにも受け継がれている。
クリンの世界ではいわゆる魔術師の魔法も神の与えたもうた技であり、その力の起源を否応なく理解する魔術師たちは、強制されることなく理知的に神々を信仰するに至る。<大変動>後、失われた神への信仰を失わなかったのは僧侶ではなく魔術師たちだけであったのもむべなるかな。今回、図書館の文人たちも信仰を失わなかったと明らかになったが、信仰というものにたいするアイロニーが、この物語には散りばめられている。

信仰といえば、『~戦記』ではいまひとつぱっとせず、その重要性に比してちんまりと描かれていたエリスタン。『~伝説』では、「あ、そうなの?」的に大物になっていた。
ともあれ彼は、本書において大活躍する。エリスタンファイヤーを使い、エリスタンビームを放つ。それらの大技とともに、さまざまな小技が顕現する描写も面白い。



読書禁止月間だったのに、禁を破ってしまった。凶兆だ。


2009年11月29日 (日)

Win7 雑感

今回、新PC購入に踏み切ったのは、ハードウェアのジェネレーションギャップに、見事にハマったせいでもある。だからといって、ネトゲもやっていない昨今、こんなに頑張らなくてもいいんじゃと後悔するようなスペックのブツを購入してしまったことはともかく、本日ようやくにしてなし得た調査結果からすると、旧PCの死因はHDDのシステムドライブがトんだためらしい。トんだ原因はわからないが、おそらくはダメもとで試みたリカバリだろう。

なぜこんな調査をしなかったのかというと、SATAが接続できる機器が他に所有していなかったからだ。内臓HDDをUSB接続にするケースは所有しているが、うまく認識できない場合があり、調査の場合あてにならない。予備PCはWin2Kで、USB接続できますスゴいです的なロートルだ。調査したくてもできないジレンマがPC更新に踏み切らせた最大の要因ではあるが、依然として同様の問題は抱えたままとなる。
新PCにはホットプラグ対応のHDDスロットをオプションで追加したのだが、旧PCに使っていたSATA HDDがホットプラグ非対応という罠で、ブート時に接続していないと認識できなかった。体験版FinalDataを使用して、ようやくHDDの破損が原因らしいと突き止めたわけである。
突き止めたはいいが、この状態で無線キーボードが使えないという罠が待っていた。ハードウェアが悪いのかOSのせいなのかは不明。デバイスマネージャでは無線装置がUnknownになっている。競合してるということなのか。ともあれ、有線キーボードが手放せない。

PC自作をやめた最大の理由は、パーツ流用が思うに任せなくなったからだ。スペックオタクではないので、そこそこ使えていればよく、使いにくいと感じた部品を交換する具合だったのだが、インターフェイスの盛衰が著しく、アホらしくなってしまったからだ。
おかげでPC無限増殖地獄からは脱却できたが、予備PCを一度でも持ってしまうとなしにはいられないという新たなハマり道に踏み込んでしまったことになる。
Win2Kマシンは一生現役なのかもしれない。

さておき、Win7。ひょっとしたらVistaからある機能かもしれないが、Vistaはスルーした身の上であることをお断りさせていただいた上で、以下のような雑感を記す。

エクスプローラは、ツリー表示できることがわかった。
なんか、フォルダ構成を解析しているらしく、OS様がユーザに自信を持って情報を提供できると確信できるまではツリー表示をさせないようにみえる。

画面が小さく感じるのは、Clear Typeとかいうフォントのせいだと思われる。紙面の文字と同じように見えるフォントだそうで、これによってディスプレイの世代感が一世代逆行したカンジ。
確かに見やすいが、それなりの高解像度を愛する身の上としては、いまひとつありがたくない。(「1920x1080の画面サンプル」をダウンロード

マウスのホイールボタンがAlt+Tabと似たような機能を提供するようになっている。マウスへの依存度を高めてもよいと思わせる機能ではある。

タスクバーがいわゆるランチャー機能を強化しているようで、これは便利かもしれない。 Microsoftが目指しているらしいホームコンピュータへの道を着実に歩んでいるということなのか。キーボード離れを狙っていると感じられる。

IE。現時点で対応するソフトウェアが限られているので、仕方なく使用している。使い勝手はFirefoxに近い。タブブラウザはDonutR、Sleipnir、Firefoxと乗り換えてきているが、世間の動向には全くの無知であり、これがパクりなのか世間の主流であるかなのかは不明である。似ているのだが、使いにくい印象はあるので、はやいところFirefoxに戻りたいところである。

一番良い点は、購入後、即といえるほど手間無く使えたことで、これはBTOでプリインストールのためかもしれないが、つまりはWin7はホームコンピュータということであろう。企業が培ってきた複雑怪奇なネットワークに接続しようとするとき、同じ程度の利便性があるのかどうか。これまでの経験からすると、より一層難しくなっているのではないかと邪推してしまう。リカバリも同様に不安ではあるが、XPが壊れにくいOSだったので、かつてよりは安心していいのだろう、きっと。


なお、IMEは以前にみがきをかけてアホになっている。

2009年11月28日 (土)

Windows7 Second impression

人間工学に基づいた云々~は、もう買うまいと決めていた。

装置の使用勝手が異なりすぎると、職場と自宅で操作感が非互換となり、不要なストレスを抱えることになるからである。

決めていたはずなのだが、買ってしまった。

"Microsoft Wireless Comfort 5000".

無線キーボードと無線マウスのセットである。実は、先ほどまでこれがうまく動作していなかった。原因は不明だが、"Microsoft 2.4ghz Transceiver v6.0"が不明のデバイスとなってしまい、どうにもなんともならなかったのである。キーボードとマウスのドライバはインストールされたが、無線デバイスのドライバはインストールされなかったようで、対処の仕様もなく途方に暮れていた。途方に暮れたまま、Win7の第一印象を書き連ねていた。今は反省している。

キーボードの第一印象は、タッチが非常によいということ。このタイプ感はクセになりそうだ。次に、ESCの列が非常に使いにくいこと。ESCとかF10とか、よく使うキーの高さが低く、押し難い。
蛇足的な機能としては、電卓起動ボタンがついてること。「Windowsキー+Eでエクスプローラ起動」とかは意外と知られていないようだが、このキーボードにはそのようなキーの組み合わせによるショートカットがキーに印字されていることなど。

マウスの第一印象は、ポインタの移動幅の微調整が利かないということ。これはマウスというよりOSの機能かもしれない。ホイールはなんかぬるぬるスクロールするカンジで、長年使用していたザクとは違うという印象である。

Alt+Tabが使用可能とわかって断然快適なOSとなった7だが、Firefoxなど対応していないソフトウェアもあり、依然としてなかなか微妙である。

Windows7 First impression

起動してプロダクトキーを入力。

LANケーブルをつないで即インターネット接続。

こりゃいい。便利。XPも確かそうだったような気がしないでもないが覚えていない。

ここまではよかった。

此度、パソコンを新調した。
本年10月までは初期型64bit Athlonを搭載したV-Specモデル、OSはWindowsXPを使っていた。これが壊れて、パソコン工房でCore i7 860を搭載したモデルをBTOし、OSはWindows7にした。

発注から使用可能となるまで3週間かかったわけだが、諸情報を鑑みてよしとしたのでこれに文句はいうまい。イロイロといいたいことはあるが、いうまい。

むしろ、いいたいことは、Win7にある。

俺様ちゃんは、エクスプローラーは画面中にひとつでいいとする男である。この際、エクスプローラにはフォルダがツリー表示されていなければならない。must be done なのである。must be doneであるのに、それができない。
なるべくキーボードから手を離したくない。マウスにはなるべく手を伸ばしたくない。念力駆動するマウスの登場を心から願いつつ、憎むべきマウスに今日も手を伸ばす。そうせざるを得ないことを心底呪う。そんな男から、なぜAlt+Tab機能を取り上げるのか。
とりあえず、7はアホだといわざるを得ない。

画面が狭く感じる。解像度の高いディスプレイに換えたのだが、このディスプレイをフルスペックで使えないWin2kマシンですら広く感じたのに、最高解像度表示となっているにもかかわらず、画面が狭い。表示文字がでかいからかもしれないが、ざっとみたところ、表示文字は最小になっている。この状態ですでにオヤジモードということなのか。とにかく使いづらい。

ろくに使ったことはないが、ぱっと見、Office2007の印象である。そして、2007は非常に使いづらいと感じた。自宅のOffeceをあえてUpdateしなかったのは職場で使ってそう感じたからだが、Accessだけは新規購入せざるをえず、辟易している。
これで開発しろといわれたら数秒に一度は発狂してしまうに違いない。

以上が第一印象である。XPに不満を感じていないユーザは、あえて乗せかえる必要はないだろう。

PS. Alt+Tabは効きましたorz

2009年11月23日 (月)

OB会@長野県上田市

大学時代に所属したサークルはゲームを主にするもので、TRPGを第一に、シミュレーション・ボードゲームをその合間に、サバゲーなどをたまにやるような趣味人の集団だった。
コレ系サークルは、適正を欠く人々にとっては在籍するだけで試練の連続となろう。所属当初はウブだった連中もこの試練に耐えるうちに精鋭となり、いや、本性を目覚めさせられていき、あるいは黒く染められていった。

世間にいう、一生続く付き合いは大学時代のものであると。
おそらくその真に意味するところとはかなり異なると思われるが、個人的にも、我々の集団においても、現時点で字面的な意味においては正しく、またおそらくそのような関係のほうが字義よりも尊いものであろう。二十年を経てなお続いているつきあいは、個人的には大学時代のそれをのぞいては数例しかない。
卒業後からはじまったOB会は当初、社会人となって得た資本をたまの贅沢に消費しようという発想から生まれたもので、ごーじゃすなおんせんりょかんでりっちなときをすごすというものだった。ごーじゃすりっちはさておき、箱根、熱海、伊豆、伊東、長野、飛騨、鬼怒川、仙台などですでに十数回を重ねている。よくも続いているものだと、この縁の貴重さを禁じ得ない。

此度は長野県は上田市。二泊三日。
幹事の思惑としてはまず『サマーウォーズ』の舞台になった場所ということであったらしい。残念ながら未見だったために個人的にはなんら思い入れはなかったが、作中に登場するという上田高校に堀がめぐらされていることを目のあたりにして感動を覚えぬわけでもない。

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幹事の第二の思惑としては、松代大本営跡。観光ルートは駅を基点とするという教訓を得たこの場所には、地下坑道跡があるという以外、特にナニがあるというわけではないが、昨今獲得した知識と照合すると個人的にはイロイロと興味深い。

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今回の宿は祥園。駅から程近く、上田市観光には利便性が高かろう。11人の団体客たる我らが占有できたのは新館にある隔離された独立した部屋で、三間あり、それらが中央の一間で連結されているというもの。かつてないユニークな作りで、これは大いに気に入った。
手打ちのそばも評判がよく、総合的には◎であるが、風呂の利便性が低いのがやや難である。

隔離されたその部屋で。
素性が素性であるからして、いいトシこいたオヤジどもが集まってやることはゲームであり、盛んな頃は液晶モニタと据え置き型ゲーム機などを搬入する輩などもいたものだが、昨今はPSPなどという文明の利器を得て、チョーラクショーに事を運んでいるようである。モンハン、PSPに熱を入れる様子は、小学生の集団のそれとかわりない。
PSPを所有してない我が身は麻雀などで無聊を慰めるしかないわけだが、今回はD&D3.5版という思わぬ特典があり、有意義に時を過ごすことができた。
ルールについてほとんど無知であり、事前に4版のリプレイを読んでいてMt:Gライクな戦闘ルールになっていることを了解していたがこれは3.5版から採用されたもののようで、インタラプトやコンボのようなことを単独ないしパーティーメンバーで実現することが可能となっている。それらのうち今回触れたものはいずれも戦闘級であり戦術を支援するものではなく、ハック&スラッシュを超えられるかどうかは依然としてプレイヤーとマスターの腕次第ということになるようだという実感を得た。

さておき、TRPGを遊ぶのは久々のことでどうなることかと思われたが、それなりにロールプレイし、それなりに困ることなく未知のルールに順応できた。用意されたキャラクターを演じたわけだが、特に性格付けられているわけではなく、某氏ルールで年齢を決めたら17歳になったので女子にしたところ、あんこくwな性格のアネゴになり。
スケッチはおろか、名前すら決められなかったキャラクターなのだが、シチュエーションにあわせてツンデレったらウけていた。芸はまったく錆びついたわけではないらしい。

今回の旅行、個人的なトピックとしては、松代で記憶を刺激された皆神山がある。
「ピラミッド」らしい。が、まだよくわからないらしい。これはかの『強殖装甲ガイバー』にて宇宙船が埋まっていた地と同名である。行ってみたい気もしたが、ハズレな気も大いにしたので、パスしたことは余談である。

(写真提供:さんぼう殿)

2009年11月20日 (金)

【コードネームは】ベヨネッタ【QJ】

『ベヨネッタ』に登場するSEGAの資産は既に公の目に触れられるところとなっているが、個人的に確認したものとしては以下のとおりとなる。

ミニゲームとはいいがたいステージ要素として、

  • ハングオン
  • スペースハリアー+アフターバーナー

ガジェットとして、

  • ソニック・ザ・ヘッジホッグ
  • ファンタジー・ゾーン

今回新たに発見した要素はガジェットである。それは銃で、名は『バジリオンズ』。HARDランククリアにより入手できる。
以下に、その由来を転載する。

未知の超文明により作られた4丁銃。バジリオニウムというエネルギーを源にあらゆる物体の分子結合力を瞬く間に崩壊させる光線を射出する。使う者の意思を 読み取り、異次元宇宙への道を開く力を持つとも伝えられる、奇跡のオーパーツ。ロダンの手によって魔物の力を与えられた今、天界の者にとっても脅威の存在 となる。

名前だけで気づかなかったことに、いささか驚愕の念を禁じ得ない。
OP『ピュアストーン』は未だに覚えているし、忘れていたEDもタイトル『Push!』を聞けば歌詞を思い出せたほどにかつて傾倒した作品であった『赤い光弾ジリオン』由来であることに。

思い起こせば高校時代、アニ研と漫研と物理部に名前だけ所属し、幼馴染の腐れ縁が部長になった三年のときだけ漫研に寄稿したことがある。その後、大学時代に所属したゲームサークルの会報にやはり寄稿し、さらにその後一度、とある象牙の塔において元アスキー社員であった方を交えて同人誌を作ったときに寄稿し、都合三作、ジリオンにインスパイアされた漫画を描いた。
主人公の名はGG。ドイツ語読みでゲーゲーという。奇しくも大学時代に所属したサークル略称と同一となるがそれはさておき。
当初ジリオンを色濃くしていた我がGGの設定は、我が人生の嗜好の一つをさだめたといっても過言ではない菊地ナニガシの影響を受けて、超伝奇パロディとして結実した。
これを基にして、TRPGシステム『WARES BLADE』を利用したセッションを数度行っているが、やがて現代モノを苦手とする自身の欠点を理解して手を引いた。懲りずに数度リトライしているが、現代モノはマスターとプレイヤー、プレイヤー相互の「お約束」がいわゆる架空世界よりも働きにくく、現実という枷に強く拘束されることを理解して、決定的な撤退を余儀なくされたことになる。その後懲りずにまたもたげてきたので、文章化して供養せしめた。
おそらく、現代モノっぽいライト系商業作品の少なからずが「現代風の架空都市」を採用するのは、これを原因の一つとするのではなかろうかと思う。

さておき、バジリオンズ。
『ベヨネッタ』で銃器を装備した場合、基本攻撃はパンチ、キックとなる。長押しで射撃となるわけだが、バジリオンズもこの制約下にある。
由来にもあるとおり見た目は光線、効果からするとレーザーではなくビームのようにも思えるが、未知のエネルギーのやることだからさだかではない。ともかく、撃たれた対象は、数瞬、硬直する。発射前にタメが必要なので使いどころを選ぶ必要があるが、百烈中佐コンボやPKPと連携するにはよいかもしれない。
外見は往年のジリオンとは異なり、特に残念なことに発射音がベツモノであることは余談である。

PS.鉄山靠でしとめたら「十年早いんだよッ!」と日本語でいった。(ベヨ姉は通常英語を話す)

2009年11月19日 (木)

RPG

ロールケーキプレイングゲーム: ココログゲーム広場

暇つぶしにはじめたのがきっかけで、あまりおもろいと思わなかったというのが正直な第一印象。
やっぱり暇で、何度か遊んで、ハマった。今では、頭の切り替えと称して、気分転換に遊んでしまう有様である。

いわゆるオチモノに見えるが、そうではない。ゆるく、まったり遊べる。
自由落下、慣性、弾性、塑性変形などの要素がシンプルに見えるゲームに変化をもたらしている。これに類するゲームが既存かどうかは知らないので、個人的には非常に斬新だと感じ入った。

このゲームのせいだろうが、抹茶のロールケーキが嫌いになり、またココアのロールケーキが無性に食べたくなったような気がする。

2009年11月16日 (月)

ワインレッドのココロ

単車を車検に出している間。
代車の250ccを乗っていたのだが、250ccでは不足で、リッターオーバーでは過剰であるという印象を強める。ツーリングをそれなりにしていた頃は大排気量の安定性を求めたものだが、足としては400cc程度がちょうど良い。

さておき、代車はHONDAのJADEだった。我が身が大学生当時にデビューした車種であり、以後数度のマイナーチェンジを経て、1996年にHORNETに代を譲ったらしい。高齢の車両だが、よくメンテナンスしてあり、若干のメカニカルノイズがあるものの、走行に支障はない。
とはいえ、あくまで程度の問題で、日に焼けてくすんでいるし、老兵といわざるをえないわけなのであるが、括弧でくくって「バイク」という認知しかもたない人々にとってはそうではないらしいことを、日常の中で実感した次第である。

「表に止めてある赤い可愛いの、ちゃりさんの?」
「ちゃりさん、バイク変えたんですか? こっちのほうがいいですね」

・・・代車だっちゅうの!
俺様ちゃんの十年選手よりおじいちゃんだっちゅうの!

我がCBはシルバー、代車のJADEはワインレッド。個人的にもワインレッドの方が好みであるといわざるを得ないが、見た目の程度の良さは明らかにCBに分があるし、排気量に比例した重量感もある。総合的に、廃車寸前の車両に負ける要素などないはずなのだががが。
世間一般において、単車の印象というものがどのようなものであるのか、なんとなくわかってしまったような気がするのである。

ワインレッドといえば、先代はワインレッドだった。KAWASAKIの400cc、XANTHUS。
優等生のCBとは違って、重心は高いし、ヨーロピアンタイプのオンローダーなのに高速コーナリングはリーンアウトじゃないと危ないし、ある特殊な単車使用者の一群が好んでKAWASAKIを選ぶ理由をなんとなく理解したものである。CBに換えたとき、「あれ、単車ってこんなにまがりやすいもんだったっけwww?」と思わされたものだ。

ともかく、俺様ちゃんはとっても気に入っていた。超のつく弩マイナーなところも気に入っていた。どれだけマイナーかといえば、日常はおろかツーリング中にも見かけることは稀であり、「これで○台目」とカウントできるほどで、現在にいたるまで、全国で一桁台しか確認できていない。XANTHUSに乗り始めてからCBに乗り換えた現在までに、北海道をのぞいて本州一周を果たしているので、密度は薄いが範囲だけは広いサンプリングの結果である。

XANTHUSまで記憶が蘇れば、思い出すのは事故のこと。今とは違って、俺様ちゃんなりの限界走行をしていた頃のこと。二代目、三代目は両方タンクをヤっていて、RZRは立ちゴケを支えようとした我が膝で凹まし、XANTHUSは和歌山山中でコケたときに石にあたって凹んだ。湿った柔らかい土中に倒れたのが不幸中の幸いと思いつつ、起こしてみたら石があり、石のカタチにタンクが凹んでいたのである。
いわゆるタンクは即ち燃料庫になっているわけではなく、外装であり、いわば一次装甲となっていることが多いようである。いずれも走行不能な状態にまでは至らなかったが、なんにしてもついてない。
RZRは程度の悪し加減からそれほど気にもならなかったが、ワインレッドのXANTHUSは凹んだ部位の塗装がはげてみすぼらしく、結局直さなかったものの、今後単車を購入する再には、傷が目立たない色にしようと決意させるに十分な痛手だった。

ココロといえば、ココログにはそのような名前の妖精がいることになっている。
以前、なにかWebを検索していて無作為にたどったリンク先がココログのブログで、ブログペットなるココロを貼り付けているのがなぜかとてもKoolに思えて、真似したわけである。ココログを利用していれば、そのサービス開始は通知されており、ココロなるものを既知とはしていたが、まったく興味がなかった。なぜKoolと感じたのか、今はもう覚えていない。

ココロは人工無脳である。古くは「エミー」であり、やや古くは「ぼのぼの」だったアレである。
なるほど、Webというものは人工無脳のデータベースを蓄積するネタとしてはこの上ないものであろう。ちょこざいなことに、登録したばかりの記事をネタにするので、どんなことをいうのかとクリック連打してたら

お弁当イベント発生


で、驚く。
懐かしいなあ、お弁当イベント。
関連して、一時期ある人物がソーウケだなんだと連呼していたことを思いだしてしまった。

2009年11月15日 (日)

【イサギよくカッコよく】ベヨネッタ【生きてゆこう】

なにやら最近、少数ではあるが頻繁に、検索にヒットするようになった。
キーワードの多くは「キルゴア中佐 ベヨネッタ」。おそらく何者かを知りたいのであろうし、あるいは使い勝手をしりたいのであろう。しかし、残念ながらここには回答はない。
次点で「ベヨネシタ」。これも、ヒントはあるが、ここには回答はない。
以後二度と迷わぬように、まとめて答えてくれるトコロへご案内申し上げよう。

さて、アルフヘイムを制覇し、「エンジェルスレイヤー」の称号を獲得した。攻略Wikiを読みながら挑んだにも関わらず、第一章を取り逃しているというアレっぷり。ハードランクに挑戦する傍ら試してみたのだが、ここにきてようやく挑発の効果や使いどころを覚えるというナニっぷり。
いわゆる挑発というと罵声を浴びせ掛けたり嘲ったりというモノがこれまでのゲーム的常識だが、このゲームが他と一線を画す要素はここにもあり「かま~ん、べいび~」な性的挑発を兼ねている。ほっとくと数秒以上、身をくねらせながら踊りつづけ、なんかしゃべりながら挑発しつづけるのだが、この間、魔力が貯まっていくらしい。変な女だ。

本作品、話のスケールは太陽系規模wである。『覚悟のススメ』的な意味において。
最後のクライマックスを経た後のシーンがなかなかツボに入って、思わず続編を望む。
いわゆる実績機能のあるゲームを遊ぶのは初めてのことかもしれないが、Mt:Gで再発見された人類の性を突くシステムと見た。達成して一人前みたいな劣等感を、わかりやすく刺激するというか。
さておき、ジャンヌ解禁になるまで遊んでしまいそうである。

2009年11月14日 (土)

【煙と魔人は】ベヨネッタ【高所を目指す】

回避して回避して回避して跳躍、反撃。
これは我が超伝奇的神祖と認める菊地秀行の公式である。
そう、魔人は跳ばなくてはならない。
『ベヨネッタ』は、個人的にかなり正しい魔人を演出することを可能としている。
この魔人感はかつて味わったことのないものだ。

このゲーム、キモはウィッチタイム(WT)である。この習熟なくしてこのゲームの謳い文句を体感することはできない。
第二のキモはダッヂオフセット。回避行動中にコンボを維持するもので、やはりこれなくして魔人たることはできない。
慣れないうちはポチポチ押してるだけでいい。だんだん見えてくる。ノーマル二周+トロフィー「エンジェル メイ クライ」をこなしたあたりで、意図的に狙えるようになった。

装備は、中佐+中佐クローン、刀+オデットが使いやすい。
ダッヂオフセットを覚えると、中佐の火力がかなりよい。ジョイなどにはむかないが、ボス戦闘も楽にこなせる。爪はどうにも使いにくく、高速移動を可能にするオデットが好みにあう。

とりあえずノーマルは自力でクリアしたが、これにはおよそ一週間を要した。
ハードにトライするつもりが、全くもって「できてない」ので、修行がてらアルフヘイム攻略を企図した。二週間もするとかなりの攻略情報がWebで拾えるようになっていて、テクニックの幾つかや、アルフヘイムの場所、攻略方法などはもう頼りっきりである。

『ベヨネッタ』と『ワンダ~』を足して、『ベルセルク』のゲームを作ってくれないかなと、思ったり思わなかったり。

2009年11月10日 (火)

読物 『宮本武蔵』

 勝ちと錯覚させたのは、武蔵の誘いであった。武蔵はつねに敵を誘う。

P.209より

司馬遼太郎の。
先に読んだ『真説~』をより詳細にした内容といって差し支えない。本書と比した場合、『真説~』がやや斜めに見ている印象がある。いずれにしても英雄伝ではない。
本書が伝えるものにどれだけの創作が含まれているかは知るべくもないが、等身大の人物像として受け止めることは難しくない。

武蔵がなにより重視したのは「見切り」であり、後の先であるという。術レベルではなく、略レベルでそれを実践していたともいう。
武術というものは基本的に待つものである。例外は、実力差が介在する場合であるが、この場合は彼をより我の制御下におくことができ、つまりは誘うこともより容易となる。後の先の進化形、これを先先の先、または気の先という。

「見切り」について、巌流島の下りがその骨頂で、武蔵は鉢巻を斬られたが、負傷したかどうかは定かではなかった。よく知られている逸話のとおり、決闘後、さっさと引き上げてしまい、そのまま旅に出てしまったからである。後に、とある家中のKYな臣がそれをただし、武蔵の怒りを招いたという。
武蔵の頭には幼時に患った腫瘍の後遺症があり、頭頂部が禿げていたというのである。総髪で隠していたそれは恥部という認識であったのだろう、そのことを明かしながら、「傷があるか、否や?」と髪をかきわけながら詰め寄ったというのである。
斬られぬことに矜持をいだいていたからこその怒りでもあろうが、蛮勇を示すために崖下の切りそいだ竹薮に飛び降り、竹で足を突き抜かれながら、こともなげに馬糞をつめて行軍を続けたという逸話と並べてみれば、やはり並みの人間ではなかったのだろうと感じ入るばかりである。

作中に語られる柳生兵庫助の武蔵評は、現在ではよく知られるものであろう。二天一流が後世に残らなかった理由としても知られるものである。
それを引用して著者は、「武蔵の兵法には欠陥があったとしか思えず、それを武蔵という個の、桁外れの気質が埋めていたとしか思えない」というようなことを述べている。
これもまた、本書着手の動機となった『大山倍達正伝』と対照するに、むべなるかなと思わせるものである。

2009年11月 9日 (月)

読書 『真説宮本武蔵』

大山倍達正伝』に記述があり、司馬遼太郎が宮本武蔵を書いていたことを知る。
本書は短編集で、宮本武蔵、千葉周作、森要蔵、栃尾源左衛門、ユイズという名を残しているらしいバスク人、が扱われている。
武蔵、千葉以外は、名すら知らなかった。

なるほど、大山倍達は、武蔵に大いに学んだのだろう。そんな風に思われる。
表立っては吉川の武蔵像を行き、実際のところは司馬の武蔵像を行った。そんな印象を受ける。

宮本武蔵という人物については諸説あれど、いずれも豪力について触れられていることが共通している。粗野粗暴であったが、沢庵和尚によって調伏されたという像が一般的であろうか。司馬の武蔵像は、吉川英治が語る武蔵像よりもはるかに智略に富み、二十代から書画などの手慰みを覚えまた自ずから禅へ傾倒していったことが語られ、武一辺倒というものではない。
島原ではロクな働きもできず、城壁を登ろうとして落石に打ち落とされるなど、マンガみたいなやられっぷりを示していたりもする。そんな例が示すように、剣による立身はついに適わず、晩年は逼窮していたというがさにあらず、彼が望んだほどのものではないが後援者に困ったことはないらしく、書画や彫刻などの手慰みも手伝って、金には一生不自由せずにいられたらしい。
剣を手にすることがなかったならば、万能の天才として後世に名を残した人物かもしれない。千葉周作も同様の性らしく、もう少し遅れて生まれていれば学者になったであろうと司馬はいう。

司馬の筆致は実に巧みで、遅れて時代小説に取り組み始めた我が身を誘ってくれた隆、池波などと似た風合いがあり、いっそう過激である。読みながら、物語とは無縁のところでスゲー嬉しくさせられてしまう。この感覚は実に稀である。

とはいえ、あまり熱心に著作をあたっていないことからすると、どうにも縁が薄いらしい。
巻末に司馬の著作リストが掲載されているが、その量が膨大すぎて笑わずにはいられなかったことは余談である。

2009年11月 7日 (土)

【5年3組】ベヨネシタ【ベタすぎる】

ノーマルをクリアすると機能が幾つか解禁になる。
ハードランクが選べるようになるとか。
魔法の変身コンパクトを買えるようになるとか。
コンパクトの変身レシピを買えるようになるとか。

魔女ベヨネッタが愛顧する"Gates of Hell"は、悪魔ロダンが経営する酒場である。
この酒場、客によっては酒だけでなく、武器や魔法の品々を提供するのだが、当然、件のコンパクトもその変身レシピも悪魔ロダンの仕入による品ということになる。いや、「ロダンのお宝」と銘打たれているということは、私蔵品かもしれない。

5年3組というゼッケンのついたナニとか。

女王様を演出するぴちぴちレザーなアレとか。

20091107_2
全てこの悪魔が秘蔵していたわけである。


我が身が第一に入手したのはベヨネッタのオールドファッションで、どことなくアサシンめいた雰囲気のあるこの衣装は、個人的にはデフォルトの衣装より好みである。
これらオプションとなる衣装はベヨ姉さんの髪でできているわけではないらしく、クライマックスで露出が増すことはない。
世界観および設定的に正しいが、ユーザに優しくない仕様と断言できる。


二周目。
狙いどおりに操作できるようになりつつあり、確実に腕は向上しているが、タイムギャル的なアレでしくじることは変わりなく、涙はまだ乾かない。
取り逃していた「幻想即興曲」と「スケーターズ・ワルツ」を入手し目的は達成したが、ハードランクに挑む腕はまだないようなので、とりあえずノーマル二周目続行。

2009年11月 6日 (金)

【赤は血の色 黒は罪の色】ベヨネッタ【正義と悪との青と赤】

タイムギャルは苦手だった。

――やられた。

ここだ・・・よし。
・・・って、

――また、やられた。

悪夢のようなデジャビュ。リトライのリフレイン。PS3が排する灼熱の吐息、ロード地獄。

また、やられた。

苦手だったっていってんだろう!
涙目だった。

民明書房刊『魔女プレイ回顧録』


「ポリゴンの90%は乳に使用されている」
かつてDoAなるものが世に出たとき、そのような言がまことしやかに囁かれたことを、練達の士らは記憶しているであろう。余談だが、DoAシリーズ番外編となる通称乳バレーは、一人の作家を廃人に追い込んだと噂される、まことに罪深いゲームである。
時代は下り、高密度域も下がった。その動きには、15年ほど前には研究段階にあったメタボールを思い出させるものがある。


さておき、ノーマルクリア。

ゲーム。ほどよく難しく、楽しい。ゲームとしては、とても楽しい。
物語。中二設定は、それを意識した作り手側の戯れらしく、おバカな演出こそむしろ本命と思われる。
サウンド。すごく気に入った。ゲームよりも。あまり遊んでいない、つまりあまり聞いていないのに、脳内リフレインがやまない。怒りながらゲームをしていたから、脳に浸透しやすかったのかもしれないが、とにかく気に入った。

プレイアビリティ。最悪。トライ&エラーを前提とした作り――タイムギャルな演出はその最たるものであろう――なのに、ロード時間がやる気をそぐ。それはもう、そぐ。HDDにインストール可能な箱版にはこのストレス源はないらしいので、このゲームをフルスペックで遊びたいならば、箱版を買うべきであろう。


とりあえず、取り逃したブツがあるようなので二周目に突入する。
そのあと、ハードに挑戦の予定。

読物 『ドラゴンランス伝説』

かつて「セカイ系」とか「腐」とかいうコトバが世になかった頃のこと。
『~戦記』では「ぼく」という一人称がふさわしかった魔術師レイストリンは、主役級の力を得た『~伝説』では「私」と称するのが当然であろうと感じられたものである。せつらが豹変して羅刹となるが如く。個人的な趣味と笑わば笑え。

さておき、力ある存在に「ぼく」といわせ続けたのは、ありとあらゆる方向から検討して下した政治的な判断であろうと漠然と得心していたわけである。

かくて世にコトバが来たりて、異なる解釈が身の内に生じた。ありえないとは思う。
本書の訳者は複数人、女性がほとんどである。ひょっとしたら、彼女らの主張によるところが大きいのではないかという疑念が湧き上ってきたのである。ありえないとは思うのではあるが、
「レイストリンは"ぼく"じゃなきゃダメなんです!」
腐に燃えた主張がなされ、強硬に推し進められたのではないかという妄想が止まらない。

角川つばさ文庫なるものにて推定全12巻という極悪なナニで再出版されるであろう『~戦記』が好調ならば、『~伝説』も再出版されるだろう。新版の読者はおそらく、本作品をセカイ系と分類するに違いない。
だとしても、悪が台頭しゆくさまを描き、それが挫折するさまを描ききった作品は稀有である。悪たらねばなしえぬ善を描いたものとしては他に例を知らない。イラストがアレだとかいう評価は思いはあれど、是非とも再出版を完遂していただきたいものである。


富士見書房版文庫本の邦題は『ドラゴンランス伝説』。原題は"DragonLance Legends".
同邦巻1巻『パラダインの聖女』 2巻『イスタルの神官王』、は原題"Time of the Twins".
同邦巻3巻『黒ローブの老魔術師』 4巻『レオルクスの英雄』、は原題"War of the Twins".
同邦巻5巻『黒薔薇の騎士』 6巻『奈落の双子』、は原題"Test of the Twins".

今回、久々に読み直して改めて深い溜息をつかされた。否定のそれではない。満足のそれである。
原著3巻部分に相当する物語のカタルシスは、滅多にないものである。
だからこそ、邦題のセンスのなさは一層罪深いのだ。

2009年11月 5日 (木)

XP、起動せず

前から気に食わない存在だった。
これまでに数度トラブルに見舞われているが、以前クラッシュしたときもこれをやってしまった。

Sleepボタンである。

以前押してしまった後、しばしは押せないようにしていたが、引越後、もう押さないだろうと見切ってむき出しにしていたのが悪かった。
スクリーンキャプチャーしようとしてキーを押した手が凍りついた。

WakeUp、Powerは当然効かず。いたしかたなく電源を切り、再起動を試みるも果たせず。セーフモードで復旧ポイントに戻してみたが、以後セーフモードすら起動しなくなってしまった。
Windows起動画面で凍るのは以前にもあった現象で、そのときは再インストールをしたのだが、今はその気力もない。リカバリをしてダメだったので、あきらめた。

あきらめてもいいだろうと考えてしまう要因は幾つかある。ケースの電源ボタンは壊れてケースからぶら下がっている。起動もスムーズにいかない。最近、MBもなんだがアヤシゲである。そんなこんなは年ごとに降り積もり、これまでにも幾度か購入を検討しては、そのたびに先延ばしにしてきた。壊れなければ、あるいはスムーズな復旧が望めそうならまだしも。
六年使ったのだ。もういいだろう。

いろいろ悩んで、VSPEC、比較のためにドスパラ、マウスコンピューター、パソコン工房と検討して、地元にショップのあるパソコン工房での購入を決断した。決断の背景には、Windows7という製品の影響も皆無ではない。

いろいろ見てたら、BD(せっかくだし)とかSSD(せっかくだs(ry)とか熱対策(壊れたPCは熱、熱、とうるさかった)とかで結構な価格に育ってしまった。もはやPCパーツの主流には全く通じていないのだが、培った経験は無駄ではなかったと思いたい。
こうなるとわかっていたら、23'ディスプレイも買うことはなかった(買ってしまったからこそドスパラは購入対象から除外となったわけだが)のだが、いたしかたなし。

なお、滅多に起動しないWin2Kマシンは、祖先の装備を腹中に納めつつ、まだしぶとく生き残っている。

2009年11月 4日 (水)

【ロケットランチャーで】ベヨネッタ【オシオキよ!】

「キルゴア中佐」という名のついた武器は、腕に装備するとトンファのように運用される。
長押しすると火器として機能するが、バズーカ砲ないしはロケット砲のようである。コマンド入力で空も飛べる。火器を鈍器として使用するアレは『AKIRA』のおばさんを思い出させる。彼女はよき戦士であった。
脚部に装備すると、これでごついストンピングが実現できる。主人公のあらかさまなスタイルを目の当たりにしながら、まったくもって無頓着だったのだが、そういえば、そのようなプレイも可能なのだなと今更ながら思うのであった。

というわけで、刀+爪がオキニだったが、中佐+爪――「爪」でシッポ、「中佐」でハット+サングラスという外観になる――も捨てがたい。

このゲーム、あちこちにSEGAの遺産が散りばめられている。
とあるステージはハングオンもどきで、BGMはアフターバーナーになってたり。
BGMといえば、古き良きゲームサウンドを髣髴とさせ、それがどことはいえない具合に溶け込んでいるのだが、その感覚がなんというか、くすぐられているようで心地よい。
思えば、購入を決定付けたのは、公式サイトのBGMを耳にしたことが要因だったかもしれない。音には本来、あまり反応しない性質だと思い込んでいたが、違ったようだ。

2009年11月 3日 (火)

【ゲームは一日】ベヨネッタ【一時間】

PS3の使い勝手について述べよう。

電源を投入する。
PSボタンを押す。
メニューでゲームを選択する。
HDDに関する警告に同意する。
ここまでは、これまでに手に入れた二つのゲームに共通している。
『AC4A』の場合、この後しばしロードしてデモ、STARTボタンでデモをすっ飛ばしHDD読み込み、ゲーム開始となる。
『ベヨネッタ』の場合、この後、すっ飛ばせないアイキャッチ――ピカチュウショックにご注意、SEGA、P+、などの――をながめさせられる。その間ずっとロードしっぱなし、やがてデモになる。デモはボタンですっ飛せる。
それぞれ、ここまで約2分というところだろうか。

わかっちゃいる。電源ONして放置しておけばデモまで進むというゲーム機器のコモンセンスを台無しにしたのがHDDだということは。それは、我が身も含めた、愚かな人民のツケであることもよく理解している。
しかし、著しく、やる気をそいでしまうという事実を否定する材料とはならない。

かくある試練に耐えてまで、ゲームをやる必要があるのか?
これはソフトウェアの出来云々以前の問題である。もちろん、ソフトウェアの出来次第でこの手順を高速化することも出来るのだろうが、んなこたぁどうでもよく、PCゲームを根源にもつ我が身はまた、PCゲームへ引きこもってしまいそうになる。まいんスイーパーいいよ、まいんスイーパー!


さておき。
『ベヨネッタ』は十章まで進んだ。難易度はNORMAL。操作にもぼちぼち慣れて、ウィッチタイムがキモであることをようやく了解したというところである。
前述の通り、ハードウェアのハードルを乗り越えるモチベーションを高むるに難ありだったが、刀を手に入れて、俄然やる気がでた。これみよがしなガン=カタより、我が身にはなじむ。
現在手に入れた武器は刀(手装備)、鉤爪(手、足装備)、ショットガン(手、足装備)、バズーカ?(手、足装備)である。その他、しっぽを手に入れた。耳とかもあるんだろうか。

ゲームのSNSではあまり話題になっておらず、Mixiで検索してみたらコミュニティがあり、ちょっとのぞいてみたらお気に入りのコンボなんぞ語らってらっしゃる。発売されたばかりのゲームだし、あまりそういう情報には触れずにいようと思ったのだが、仕事中の息抜きにちょうどよかったのだ。いきつけをリロードするよりも前向きであろう。
それによればなにやら鞭などもあるらしい。やり込み要素は豊富で、少なくともしっぽ系のお宝はコンプしようと思えるようになったが、前述の起動の儀式が煩わしくて、気軽に遊ぼうと思えないところが難である。

2009年11月 1日 (日)

読物 『ドラゴンランス戦記』

復習と予習のために。
うまくいかないことから『AC4A』への関心が急速に薄れる中、11/1と予測した尻姉(もはやナニソレ)の到着までの無聊をなぐさめるために。

読んだら、仕舞いまで読まずにはいられないだろうとわかっていた。学生時代に数度通して読み、それからもさらに数度読み返していたが、ここ久しく読んでいなかったから、きっと読み通さずにはいられないだろうと。

再読の一つの楽しみは、読み手たる我が身の感性の変化を知ることにある。
今回の再読は、その楽しみを満喫した。きっと『夏の炎の竜』や『魂の戦争』でさんざん打ちのめされたことと無縁でもなかろうが、これまでになかった感慨を抱かされたからだ。
それは、かつてそうとは思わなかったよりもラノベであり、かつてそうとは感じなかったよりはエピックであったということである。
そして、間違いなく著者らがルーニーであろうということである。

物語が当初の予定通りに進行されなかったことは、経験の浅い読み手――当時高校生だった――にも十分に読み取れた。
それを棚にあげさせたのはおそらくキャラクターの魅力であり、世界の魅力――世界観というコトバは、1987年あたりから割と日常的に使用していた覚えがある――であり、TRPGプレイヤーであったからかもしれない。
世間的に「情けないヤツ」という評価が多数を占めるリーダー・タニスにまず非常な親近感――けっして、好意ではなかったように思う――を抱いたのは、でしゃばりの性ゆえにセッションではリーダー役となることが多かったことからだろう。同じ方向を向いて遊ばざるを得ない――たとえ違う方向に進んでも、協力して物語を作るという大目的は違えてはならない――ゲームでも、人をまとめるのはたやすいことではなく、当時その方面で感じるところがあったためであろうか。彼の心労を理解することができたような気がしたものだ。
ともあれ、当初の予定通りに描かれなかったキャラクターの筆頭はキティアラであろう。ローラナを立てすぎて並び立つ巨悪が必要になったということか、『~伝説』への布石か、理由は推測するしかない。

我が原点の一つ――我が嗜好の指向性を決定的にさだめた、あるいはそれを気づかせてくれた作品は、今なお読むに耐える作品であった。


2008年12月に刊行された『ドラゴンランス秘史 ドワーフ地底王国の竜』は、富士見版2巻と3巻の狭間に位置し、語られなかったエピソードをつづるものである。漠然とは覚えていたものの、忘れてしまったことの多さに愕然としたことが『戦記』再読の一つのきっかけではある。
同作品においては、シリーズも一通り完結の様相を見せた今だからこそキャラクター描写に不安定なところはなく、タニスはタニスらしく、スタームは当時のスタームらしく振舞っているが、その一方で、再評価されたと思われるキャラクターもいる。リヴァーウィンドがそれである。

『~戦記』の中ではかなり影が薄く、好きなキャラクターでもなかった。
『~伝説』より後の物語でその後に触れられても、特に感慨がわかなかったものだが、『~秘史』ではそれを改める描写がある。著者自身も自覚してのことか否か、思えば竜槍戦争における善神側の準備は、レイストリンが剣として見いだされるよりも前に始まっており、それはリヴァーウィンドの家系が古の神々への信仰を持ち続けていたことに由来するわけだが、彼が神々が実在した証を見つけ出したことである。
著者らはリヴァーウィンドら蛮人に対して親愛なる感情を抱いているようだが、それは読者には十分伝わっていなかったという反省が読み取れるようにも思う。
かつて抱くことのなかった感慨を抱き得た我が感性の変化。一言でいうならそれはトシであろうか。今では十歳も年下になってしまった彼に、好意を感じたのである。

『~秘史』によってインスピレーションを得、タイトルに関してテツガクしてしまったことが、今回の再読に至った直接の動機である。
手元にある富士見書房版文庫本の邦題は『ドラゴンランス戦記』。原題は"DragonLance Chronicles".
同邦巻1巻『廃都の黒竜』 2巻『城砦の赤竜』、は原題"Dragons of Autumn Twilight".
同邦巻3巻『氷壁の白竜』 4巻『尖塔の青竜』、は原題"Dragons of Winter Night".
同邦巻5巻『聖域の銀竜』 6巻『天空の金竜』、は原題"Dragons of Spring Dawning".
当時TRPGブームの先駆け的に邦訳された功績は大きいが、この邦題のセンスには同意しかねる。(『~伝説』のそれは特に最悪である)
本タイトルがDragonという象徴に込めたものは、絶望と希望であり、力への渇望と愛の葛藤であり、光と闇というシンプルなもののみならぬあらゆるアンビバレンツだと読み取れるからである。

ともあれ、『~戦記』中のキティアラの行動をすべて思い出して、『ドラゴンランス秘史 青きドラゴン女卿の竜』への準備は整った。
市立図書館へ購入依頼も提出したので、あとは待つだけ(絶筆)

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