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2009年10月

2009年10月29日 (木)

【寺沢尻】ベヨネッタ【本日発売】

正直に告白しよう。
制御できているとは言い難い。ただ状況に反応しているに過ぎない。
『DMC3』もそうだった。だから、ろくに遊びもせず放置してしまったのだろう。
なにが起こっているのか把握できなかったのである。


さておき。
映像とゲームがシームレスに繋がる様は初代PSからは考えられないもので、「あれ、ゲームはじまってんのwww?」みたいな。そんな第一印象。
まず、つかみはおっけ~。

驚くほど下品なスタイリッシュアクション。それが次の印象。
下品はこの際褒め言葉である。

個人的に、コレ系のクールさを感知するセンスは『コブラ』を起源として芽生えたに違いないと断じている。原点にして頂点、そして閾値である。
その基準に照らしあわわせれば、イーブン。『マトリックス』効果や"ジョン=ウー"アクションなど、この手の演出を語る言葉に困らない昨今、ソレ準拠であるところがマイナス。

ベテランの趣味人ならば「ケツの寺沢、尻の桂」という表現に覚えもあろう。
男のケツを描かせたら寺沢武一の右に出るモノはなく、女の尻を描かせたら桂正和を超えるモノはいない。事実はさておき、そのような意の慣用句である。
あえていおう。

本作品は「寺沢の尻」を再評価する作品であると。

その意味でプラs(ry

・・・どことなく『妖獣都市』の香りを漂わせてもいる。


ゲーム性は、第一に述べた『DMC』への個人的不適合から評価する立場を持たない。
絶頂感がブチ続くという謳い文句を体感できるほどゲームがうまくない、ということになろう。

現時点での総評として不満点をあえて述べればロード時間だが、これは光学媒体につきものの現象で、『AC4A』で慣らされた現在、さほどのことはない。
むしろ、ロード時間中にチュートリアルを実行可能としたアイデアを評価すべきと考える。

箱○を持ち合わせていないため、対照は不明である。比較して画質やプレイアビリティに難があるというレビューもあったが、急に遅くなったり、画質が荒れているという印象は特にない。


以下余談。
Amazonで注文した当時、特典CD付の価格は税込み6380円。この価格は発送までの最安値に変動するという。
過去の実績から、どうせ発売日には手元に届くまいと発送状況を確認したところ、昨夜時点で東京の配送センターを出荷している。これはひょっとするとと思っていたら、夕刻には配送済みとなっていた。
また、昨夜時点で同商品の価格は9800円。しかし我が身の注文に変動はなく、注文時の価格で取引は終了した。
Amazonは、やればできる子だった。

2009年10月27日 (火)

漫画 『るくるく』

錆びつく一方の自装アンテナはAmazonのような発信源をしか受信せず、旬を逃してその存在を知ることも稀ではない。

『るくるく』は2~3巻が刊行された頃に読み始め、わりと期待して待つようになり、やがて待たなくなった。『エクセル・サーガ』へのそれと似たような枯れ方をしている。

どうせたいしたオチもないんだろうと嘯いてみせても、期待感は捨てきれず読みきったわけではあるが。











(ノ ゚Д゚)ノ ==== ┻━━┻


2009年10月20日 (火)

読物 『大山倍達正伝』

「おそらくこれは・・・我ら闘神を仏法に帰依させるための、大いなる摂受の法だったのだ」
「なん・・・だと!?」

羅喉羅阿修羅王と、天竜八部衆・天王の末期の会話

『空手バカ一代』と『空手戦争』を明確な区別なしに読んでいたらしい少年の日々のキオク。
影丸譲也作画による作中で、芦原英幸が腐りかけた野菜を肥桶に漬けたシーンがやけに鮮烈な印象として残っている。このシーンの葦原を、大山と勘違いしていたことに気づいたのは、先日『空手バカ一代』を初めて通読したときのことだった。

かつて、そして今も、強くなることへの渇望をもったことはない。ゆえに、昭和の格闘技的偉人たちの逸話については、読んでいる最中は少年らしく熱狂したものの、読み終えては残った熱は温度を残さず冷め、その真偽を問うことはなかった。
作家というものの善性を信じて疑わなかった頃のことである。

大山倍達という人物に対する知識は、同時代の日本人の平均よりは若干上であろうが特に詳しいわけではない。
対する姿勢は、ほぼニュートラル。伝説もあれば、悪評もあることは耳にしていたが、特に大きく動揺することはなく、中立、ややネガティブだったかもしれない。

つまり、そも、このような書物を積極的に読もうという志を持たぬ身の上だということである。
評伝を読むものは、善しにつけ悪しきにつけ、対象への興味が動機となろう。個人的にその動機は希薄であり、日本の片隅でひっそりと盛大にもりあがっている情報集積所にて、とあるきっかけを得ることがなければ、そして日本の片隅でひっそりと綴られている日記にてご紹介をいただかなければ、興味を喚起されることもなく、存在を知ることもなく、読書に至ることもなかったかもしれない。

本書は二部構成から成る。
前半は塚本佳子、後半は小島一志。どちらの著者も人となりをまったく知らない。
前半は、日本が関わった戦争について、おもに日本海側の情勢を織り込んで展開する。個人的には、大山倍達伝を追っていたら、いつのまにか昭和初期の路地裏につれこまれてしまったというような印象がまずあった。
それはよい。まったく見知らぬ世界というわけでもない。
しかし、読み進めていくうちに、大山倍達にではなく、著者に対する考察が脳裏をよぎるようになった。まず感じたのは著者が抱く憎悪あるいは嫌悪と表現しても差し支えないものであり、次に感じたのはそれを糊塗するかのような愛である。愛というよりは諦めなのかもしれない。「なにを!」といきり立つも、結局は「仕方ない」とばかりに力なく座り込むしかない。そんな印象である。
前半部の著者は、編集業界に身をおくようになり、業務命令に従って空手、極真と関わるようになったという。自己申告によれば空手は未経験であり、当初は空手について勉強することもなかった。仕事のため、極真の試合に足を運ぶようになり、参加する選手たちの真摯な姿に打たれて自らの姿勢を改めていったのだという。ピュアな大山信者では決してない、という立場の表明であろうか。

後半の著者、小島一志は、極真空手を学んだ人物であり、人生において深く関わり、総裁とも懇意にしていたという。
読前に目にしたレビューでは、擁護の論調であるとか、思い出日記であるとかいう批評があったがそのようには感じなかった。調査結果から得た「真実」に対しては前半部に譲るという態度をとっている向きはあるが、極真というものをピュアに信じていた若き日々のことはそのときの感性のままに、社会人としての立地を得てからはそのように、文章を連ねているという印象である。
前半とは真逆となるが、こちらは愛の中に若干の憎が感じられる。尊敬し、崇拝とまでいえるかもしれない念を抱くを禁じえなかった師に対し、等身大の人間像を発見して衝撃を覚えつつ、なお親しみを抱く。そういう経験に覚えがあるならば、共感できるかもしれないものだ。

本書は、年代史ではない。
トピックごとに幾度も時代を上っては下り、サブトピックでまた逆行し順行する。これを難とする評もあったが個人的にはそうではなく、とはいえ、角度を変えて照射するならまだしも、同じ角度の著述を幾度も繰り返し読むことを強要する構成には賛同はいたしかねる。

さておき。
我が身の「大山倍達」観は、読前と等しくニュートラルである。だが、我が身には乏しかった情報を補ったことで、変化がなかったわけではない。

強い男がいた――

それだけでよいのではないかと思えるようになったことだ。


一点、気になったことがある。
先立って読んだ『夕やけを見ていた男』と本書における梶原一騎の人物像の差異である。前者ではケンカ十段と評されており、本書ではもやしっ子だったといわれている。
この差はどこから発生したのだろうか。

2009年10月15日 (木)

その後のだいきょうきん理論

肘筋の問題を解決するのに三日くらいかかったことから、面積にしても数十倍と思われる大胸筋はかなりの日数を要すると漠然と考えていた。
効果的な方法はないものかと調べてみたところ、バスト由来の肩こりの要因として胸筋のストレッチを推奨する情報には巡り合えても、「これぞ胸コリ解消法!」というようなものは見受けられない。

男子にしてはバストはあるほうだが、女子のそれ向けにフィットするものではなかろうと考えまた、ストレッチとは柔軟性を高めるためのものであり、同部の柔軟性は比較的良好に保たれている我が身には無縁のものと、初見においてはそう決めつけた。結果からいえばこれは誤りであり、胸筋に男女の別はなさそうだということがわかったことになる。

コリをいじるとき、再現性が高い場合、その部位は副次的な発症である疑いがある。いくら揉みほぐしても、すぐに元の状態に戻ってしまうようなケースだ。こういう場合、原因となる要素が他にあるらしいということがわかってきた。
最近の例で言うと、手指、手首の原因不明の疼痛があり、これは肘周辺をいじることによって緩和・解消した。腰痛には大腿部、足首の痛みは膝という例もある。
そういう部位は、触ってみるまで痛みを感じないようである。触った途端ひどく痛みを感じたりすることもあれば、押しても痛くない、なにも感じない場合もある。なにも感じないというのは、刺激の強度に比して、触ってるというか、圧迫されているという程度の感覚しかえられないことをいう。いじっていると痛みが出ることもあるが、やがて痛キモチいい具合になり、身体に具体的な効果が現れる。
少なくとも、俺学ではそうなるようだ。

さて、大胸筋は。
まずはなにも考えずにゴリゴリやることから始まって、効果はあるが復悪も早いことを知り、先のストレッチを応用して、いわゆる「胸を開く」動作を行うことにした。その上で、コリを感じる部位を触診で探し、いじった。いじり倒した。
胸筋のある部位を押すと、背筋や首筋にびりびりと伝わってくるものがある。繋がっていることがわかるようなアレで、少しだけアミバのキモチが分かった気になるような俺デク感を満喫しつつ、一月ほどの試行錯誤の結果、肩コリ、首のコリが久しくなかったほどに快調となった。
適度に柔軟であると考えていた肩の柔軟性が向上し、というか、スペックに近い性能を発揮するようになったと考えるべきか、コリが原因で著しく稼働性能を欠いていた首の動きもマシになった。
まだ違和感があるが、いじり方が足りないのか、他の要因に依るのかは不明である。

四十肩とか五十肩とか詳しいことは知らないが、大胸筋由来とかあったりするのかなと思ったり思わなかったりしたことは余談である。

2009年10月10日 (土)

読物 『ドラゴンランス秘史 ドワーフ地底王国の竜』

『機動戦士ガンダム』という作品群を、実は、それほど好きでもないらしいと悟ったのは、つい先頃のことだ。
学生時代、ツクダのウォーゲームを好んでプレイし、麻雀のBGMには二枚組のサントラをかけ、『ガンダムセンチネルRPG』を楽しんだ経験はさておいて、適当ではない場でその話題を好んで語りたいとは思わないことに気づいたのである。あるいは、気心が十分に知れぬ相手とはあまり語りたくないということなのかもしれないし、適当ではない場で話題を振ってくる相手に嫌気がさしているだけかもしれないが、ところかまわず発情できるほどのFavoriteではないということには違いない。

いわゆる我が身のガンダム嗜好というものは、一年戦争の空気を十分に含むものであるらしい。それはつまりアムロやシャアであり、MSVを含むものであるが、後付け臭のきついものは除外されるようだ。具体的には、Z、ZZ、0080、逆シャアは正統なる後継と認識しており、それ以外はF91と∀を例外として好まざるものということになる。

『ドラゴンランス』シリーズについても、同様の嗜好にあるようだ。
『~戦記』『~伝説』は正伝であり、『~英雄伝』は一部正統なる外伝が含まれるが、正史の存在の重さからか、どうでもいい作品が少なからず含まれる。それらの在り方として、例えば『ゲド戦記』外伝『名前の掟』に通じるものもあるが、著者本人の作品でないがゆえに、ピンぼけ感が拭い得ない。
著者本人の作品でも二世代目以降の話はなんか違うカンジ?しかなく、ちょっと前に日本の漫画でも流行った息子モノと同様に、どうもなにかずれているような印象をしか得られなかった。本来なら正統であるはずの『夏の炎の竜』『魂の戦争』は∀級にトんだ話であるが、ぶッとびすぎていて「終わった」観がぬぐい得なかった。

本作品『DRAGONS OF DWARVEN DEPTH』は、「カーラスの鎚」を巡る一連のエピソード、『~戦記』では語られることのなかった物語を綴ったものだ。Webのあちこちで見受けられるように、『~戦記』『~伝説』を最小限の前提条件とし、既存作品をすべて読破することによって最上級の楽しみが得られる内容となっている。後発者を迎えるためのシリーズもののジレンマをいたしかたなしとしたつくりだが、先発者にはこの上ない福音だ。

『~戦記』において唐突に、予備知識のない読者を突き放すように登場した「カーラスの鎚」は、いわばV作戦の要を握る超重要アイテムだが、由緒正しい存在であるにも関わらず、物語的にはぽっと出で、ゆえに、ご都合主義的な印象をまず与えられた。
TRPGを嗜んでいたからこそ、当時、広く公開されたとはいえなかった情報を拾うこともできて、AD&Dのサプリメントとしては存在するが小説では割愛されたエピソードであると十二分に理解し、その印象を改めることもできたが、物語を補完する位置づけに思えた『~英雄伝』に語られなかったことは不満で、もはや語られることもないであろうと諦めていた。

その割愛されたエピソードは、『~戦記』に納めるには確かに長すぎる。短く語ることもできたに違いないが、当時としては割愛することが最上の判断だったのだろう。それは正しかったと個人的には感じられる。
その一方で、二十年という時の流れが与えたに違いない影響を慮り、そうではない状況で読みたかったという思いを禁じ得ない。というのは、アルハナと出会う前のスタームはすごく鼻もちならない奴であったことを久々に思い出させられ、その印象でスタームが固定されてしまったからかもしれない。高潔だった我が身の中のスタームくん、さようなら。

『ドラゴンランス秘史』シリーズは全三部作となる予定で、第二巻はキティアラの暗躍を、第三巻ではアリアカスのもとでのし上がっていくレイストリンの物語が語られるという。

第二巻『蒼き女卿の竜:DRAGONS OF HIGHLORD SKIES』には、氷壁のエピソードも掲載されるらしい。これまた唐突に登場し、登場したときには死んでいたフェアル=サスについても存分に語られることだろう。このエピソードについては、アイス=リーヴァーという斧をもってフェアル=サスにうちかかるローラナの姿を画集に確認しているが、サプリメントを遊んでいない身の上にとっては未知の内容である。

第三巻『時の瞳をもつ魔術師の竜:DRAGONS OF HOURGLASS MAGE』は望外の期待作である。著者群の愛を一身に背負った男、クリンの島耕作、神々に挑んだ野望一代男レイストリン=マジェーレの成り上がりが綴られるらしい。
おそらく、ご都合一辺倒でしかなかった日本のライト系作品群の魔法使い観に一石を投じた存在であり、この男なくしては存在し得なかった作品も少なからぬものであろうと思われる。日本ではイマイチメジャーではないが、この一世代中に与えた影響力は潜在的に大きかろう。
実に待ち遠しい。

最後に。
蛇足にして余談であるが、本作品は「スターム王子」と「金色の"毛むくじゃらのマンモス"」がキモ。

2009年10月 5日 (月)

アニメ『BPS - Battle Programmer SHIRASE -』

なんというか、実に久々にフィットするカオスな作品。
絵とか話とか、決して好きな類ではないのだが、間だろうか、モノローグの壊れっぷりだろうか、実になじむ。
今なにかアニメを薦めてくれといわれたら、空気を読まず、推してしまうかもしれない。
意外な掘り出し物であった。

2009年10月 3日 (土)

読物 『砕かれた大地』『夜の門』

『ドリーミングダーク』三部作と銘打たれた本作品の第一部『シャーンの群塔』を手にしたのは2008年6月のこと。続き物だということを知らず手に取り、読み終えてそれを知り、完結まで寝かせていたのだが、機会を得ることができず今に至る。

D&D小説の大作指向は宿命らしく、どうしても世界を救わずにはいられないらしい。 そのへんのくだりがわりとどうでもよさげに描かれて、余韻もなくあっさりと完結しているのは著者ないしそのサイドも辟易しているということなのか。
あるいはエベロン世界紹介の著作ということか。一連の小シナリオでキャラクターの方向性を探り、冒険の舞台はシティからウィルダネスへ、海洋へ、別大陸へ、<運命>への示唆を受けつつ長編キャンペーンへと続く。<運命>への示唆はともかく、世界を救うに類することを極力避けてきた我が身の嗜好をしても、この意味での本作の意義は大いに認められる。TRPGないしはEQという名の古巣への憧憬を禁じ得ない。

マインドフレイヤーと戦って勝利したり、魔法使いクラスがミノタウルスとタイマン張って勝ってしまったり、ザコ1と思われていた登場人物が実はストームジャイアントとタイマンはれてしまうくらい強かったりなど、本当は繊細なはずのルールを豪快なハック&スラッシュで遊んでいた知人らの述懐をAD&Dの第一印象とする我が身には、新版ルールに大味な印象を感じずにはいられなかったとしても。


PS. およそ一年ぶりに読み返した第一部『シャーンの群塔』は、物語をほとんど忘却していたことはさておき、初読のときよりいっそう楽しんだことは間違いなく、三部作のなかではもっとも面白いことも確かである。三部作の構成がプロット通りであろうこと、布石は第一巻冒頭から打たれていたことを見いだせば、好みではない結末をもつ作品にも多少の好印象を抱くを禁じ得ない。
そしてまた、エベロン世界への興味を募らせたことも。

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