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2009年8月 2日 (日)

読物 『馬賊―日中戦争史の側面』

 若ものは尚旭東(シャンシュートン)とよばれ、父は中国人だが母は日本人であると、その当時かれみずからが称していた。馬賊仲間では小柄で色白のほうで、小掛児(シャオコアル:中国風下着)の上に肩窄児(チェンチアル:中国風チョッキ)をぴたりと着こなし、頭を浅黄色の木綿でかたく包んだその容姿は、いかにも粋な伊達男に見えたらしく、いつのまにか小白臉(シャオパイリエン)とも通称されるようになった。「臉(リエン)」というのは顔という意味である。
 だいたい、いろいろなアダナや別名で呼ばれるのがこの社会の常で、若ものはのちに小白竜(シャオパイルン)ともよばれるのだが、これは千山の名刹無量観で三年ほど修業した最後の日に、葛月潭(コーユエタン)老師から「天下万民のために使え」といわれて授けられたブローニングに由来する名前であった。銃の柄は象牙でできていて、北斗七星と昇竜とが銀色あざやかに彫られてあったという。
 ちなみに無量観の「観」とは、道教の道士たちのたくさんいる堂塔伽藍のりっぱな構えの寺のことである。(そのつぎの寺は閣といい、さらにそのつぎの洞と称されるのは山腹や谷間に掘られた洞窟、つまり道士が一人で修業にいそしむ祠である)。無量観は、満州の遼東湾にそそぐ遼河の東側に屹立している海抜533メートルの千山(チェンシャン)という、その地方にはめずらしく奇巌が列立して松柏がおい茂っている山の中腹にある名刹で、1000年の歴史をもつ。そこの最高指導者が葛月潭で、全満州の道士の大長老として何十万の命知らずの馬族たちに号令し、3000万民衆からその徳を慕われていた。博学な人物で、武当派拳法の奥義をきわめていた。
 なお、拳法というのは、470年ころ、インドから中国にやってきて河南省の高山小宝五乳峰の少林寺にこもったと伝えられる達磨大師が、易筋行として坐禅行とともに伝えたもので、少林寺に参禅した弟子たちの行脚のさいの護身術、いわゆる少林派拳法として発達した。やがて、禅からはなれて、一般民衆のあいだに自衛用としてひろく用いられた。とくに道士は、山中で修業を積むならわしであったから、これが道教のあいだでいちじるしく発達し、いわゆる武当派拳法が工夫せられた。そののち、さらに少林派と武当派とを折衷した太極拳法があみだされた(今日の中国で護身的体操として奨励されているタイプ)。宋の太祖が天下を統一しえた裏には、軍師張三宝(チャンサンパオ)という道士の功があったが、武当派(あるいは陰陽拳)をはじめてあみだしたのがこの人物で、太祖は張三宝のために観を建ててやり、北辺鎮護の役を司らしめたという話もある。武当派は、さかんに逆手を用いて、これがはなはだ危険をともなうことから、清初以来、一般に禁ぜられ、秘密のうちに伝授されてきた。

P.77

 年より若く見える芳子は、ときに、男装したり、男のようなことばを吐いたりした。日常、「ボク」と称し、「キミ」とよんだ。しかし、M過剰ではあっても、それだけに妖しい女の色気を、たっぷりとその小柄な肉体に包蔵していた。

P.118

 このころ、彗星のようにあらわれたもう一人の女傑があった。韓又傑(ハンユーチエ)こと中島成子である。
 川島芳子がその名門や毛なみを売りものにされ、雲上的・貴族的なイメージをもたれたのにたいして、中島成子にももっと地についた庶民的なものがあった。成子は日本軍の華北婦女宣撫班の班長をしていて、華北の農村のひとびとから、韓班長というよりも韓太太(ハンタイタイ:韓奥さん)とよばれた。
 あるとき、彼女は華北と満州の国境あたりに蠢動していた一味1500名ばかりの匪団の帰順工作をひきうけさせられた。その頭目が女性だから、というのが理由であったが、女性といってもはなはだ手ごわい相手である。徐春圃(シュチュンプー)という当時28歳のこの中国女性は、ゲリラ戦になると、いつも先頭にたって、馬を走らせながら二挺拳銃で撃ちまくった。追撃されると、馬の腹部に身を隠して逃走するという芸当もやってのけた。
 春圃の兄、佩珍は、日本軍に殺された。だから彼女は、兄の配下の馬族1500名をひきつれて、恨みかさなる日本軍に戦いを挑んだわけで、そう容易に帰順するはずもなかったが、春圃を頭目とする馬賊は、尚旭東を総頭目とする東北抗日義勇軍の傘下にあり、戦死した佩珍と彼女じしんは尚旭東の最愛の義子であった。韓太太は、まず尚旭東にわたりをつけた。そして、徐春圃帰順についてなんとかひと肌脱いでくれと頼み込んだ。
 尚旭東は、韓太太の申出を条件づきで承諾した。すなわち、東北抗日義勇軍にたいしては、今後は、平和のための帰順工作は別として、討伐工作をおこなわないこと、だいたい、討伐のごとき戦闘行為はいたずらに中国民衆の反日感情をつのらせるばかりであるから、韓太太はよろしく責任をもって日本の将校連中を啓蒙すること、そうすれば徐春圃の身柄はしばらく韓太太のもとにお預けしよう、というのであった。
 義兄のいうことは、義妹として当然したがう。春圃は、韓太太に帰順するという形をとった。帰順式には、わずか200名足らずのほんものの馬賊メンバーが、春圃をひそかに護衛するために出てきて、あとはぜんぶ流浪者か食いつめ者ばかりが集められていた。

P.131

 話がいささかドラマティックになるが、この天津曙街に、日本の関西から進出してきた「亜細亜会館」と称するキャバレーがあった。ある日の夕刻、その二階のホールで、和服姿の女給がにこにこしながら、頭上にリンゴを一個のせて、厚い壁を背にして直立していた。それから6メートルほどへだてて、紺色の大掛児(タータワル:支那服)を着た偉丈夫がソファに腰をおろしていて、さしのべたその右手にはコルトが握られていた。日ごろからこの男の百発百中の腕前を信じきっていたその女給はもちろんのこと、その場を見物している女給仲間たちも、安心しきって朗らかな声援などをあびせていたが、そのとき、後方の階段をかけ上ってきた男の友人が「おい、伊達! よせ」と叫んで、伊達の右腕にとびついた。その瞬間、拳銃が轟然と火をふいた。
 階下にいた客たちが、なにごとがおこったのかと二階にかけあがってみると、そこには、右寄りの前頭部を撃ち抜かれて血にまみれた若い女性が倒れていた。
 伊達順之助は、旭街の天津日本領事館警察に出頭を命じられた。取調室は館内の広いホールで、正面には土嚢を積み重ねた防弾壁がしつらえてあり、その前の木台の上にはリンゴが5、6個、天井からはテープで吊るされたゴムマリや人形があった。まるで射的遊技場である。それから6メートルほどへだててソファに腰をおろしていたかれの前方には、小机があって、実弾をこめたコルトやブローニングやモーゼルなどが10挺ほどならべられていた。
 かれは、順次に、前方の標的に弾丸を命中させた。係官が、つぎに、前方の黒板に白墨で◎印を描いて、直径2センチほどの中丸を立って射てと命ずると、伊達は寸分の狂いもなくその中心を貫いてみせてから、こんどはまるで狂ったみたいに、黒板に向かってつづけざまに、弾丸のあるかぎりやつぎばやに射ちつくした。黒板には、弾痕あざやかに、「ダテ」という字が読みとれた。

P.142

事実だとすれば、小説より奇なり。
『虹色のトロツキー』における川島芳子描写はまるっきりのフィクションではないらしく、また、日清戦争から日華事変にかけて、いわゆる大陸浪人や日本人馬賊というものが多数存在していたようであり、西部フロンティア的な逸話を残しているらしい。
先に読んだ『馬賊で見る「満洲」―張作霖のあゆんだ道』と同時に借りて、後に読んだわけであるが、読み物としての面白さは明らかにこちらが勝っている。昭和39年刊行とは思えぬ読みやすさで、また同時代であるからこそ書けたであろうことも察せられる。

霊幻道士が武芸達者であることの裏付けがとれるなど思わぬ余禄もあり、お得な一冊だった。手に入るものならば、手元に置きたいところである。


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