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2009年8月

2009年8月30日 (日)

読物 『狼と香辛料Ⅹ』

徴税と新貨発行の関係について。

前巻のエピソードが引き合いに出されているのだが、前巻がどんな展開だったか全く思い出せない。失速を感じて以来、マジメに読んでいない、ということになろう。

3年間で10巻というのは一昔の作家らのペースからすれば驚くべきスピードと感じられるが、これはおそらく我が身の嗜好とするところの作家らが遅筆なだけであるに違いなく、世間一般、特にラノベというレーベルを見渡してみると珍しいことではないようである。

その消耗せる様が作品を透かして見えるようであり、むべなるかなと首肯しつつ、もはや間違いのない墜落を見届けるべきかどうか。
既刊12巻。とりあえずアニメ第二期を見て復習するか。


2009年8月27日 (木)

俺学

少林寺拳法の技術の特徴は、故障箇所にもよく現れている。
我が身の場合、それは手首であり、おそらくそれが原因で各指の関節痛に拡大している。
平時はどうということなく、稼動させることによって発生する痛みであり、つき指や骨折ではない。原因不明のまましばし過ぎ、痛みが耐えがたくなり、否応なしに対処を迫られて、特にそれがよいと思ったわけではなく、腕を揉んでみた。前腕には痛みはなく、ただパンパンになっているという具合だけは感じていた。

揉んでみれば、前腕前部肘直下にひどいコリがあり、これを躍起になってほぐしたところ、思いがず手首や拇指の関節痛が緩和した。
指の各関節にも対応しているようで、肘に近いほど指の根元関節(MP関節)、手首に近いほど指先の関節(IP関節)というふうになっているようである。これは、同操作によって、拇指を握りこんで拳を作るだけで生じていた拇指IP関節痛が緩和したという体感に基づくもので、学問的裏づけのあるものではないことを付記する。

先日、唐突に足首が痛くなった。挫いたような痛みである。
稽古の日だったが、特にハードなことをしたわけでもなく、ひねった覚えもない。アレコレ試すうちに、膝下部、ちょうど手首に対する肘下部のそれと対応する部位が硬く凝っていることがわかった。二日がかりでオラオラとほぐしていき、今は具合がよい。
最近は、風邪のひきはじめを感じては両耳下部を揉むということをして、サンプリングが乏しいため効果の実態は不明であるが、症状を抑制、緩和あるいは先延ばしにできることを知った。

肘の周辺。膝の周辺。頸部。
この辺りには、当流が急所と認定する箇所が幾つもある。これは東洋医学と通じるものであり、大雑把に理解したところによれば、痛打すれば急所となり、按摩すればツボとなる。
これを利用する技術の本格的修行は当流三段からの科目にあるが、故障は日々起こっている。それまで待っていられない。

かつては各種マッサージに依存していたが、それらでは対症・根治を強く実感できなかった。
そんなこともあって、根本的な不健康があり、それが弱った部位に発露していると思わなくもないが、根治を求めるすべもなければ俺専用素人療法を編むしかなかろうと感じる次第である。

2009年8月24日 (月)

読物 『特務機関』

 これ以上の苦しみはないだろう。死一等を減じられた代償として、日本人として扱われないという運命をあたえられたのである。日本人との断絶、肉親との断絶、靖国の神のままアパカに流刑の身となった。

――語られざる実話「日本人を捨てよ」

特務機関という言葉の響きには、いわゆる諜報機関のイメージを抱かされる。
それは間違いではないようで、しかし、そのいかめしい耳触りとは裏腹に、実情はお粗末であったようである。せざるをえなかった人々の必死の努力は、広大な大地と過酷な環境、彼の膨大な人的物的資源に比して卑小なる我という実際に阻まれ、思うを果たせない。

本書は、外蒙国境に配属された兵士たちが、戦後に著述を提供しあって編まれたものだという。そこに語られているのは、どことなく特車二課のありようを想起させられる、非日常を日常とした人々の日常の風景である。

2009年8月21日 (金)

読物 『阿片王 満州の夜と霧』

凡俗に堕ちて 凡俗を超え
名利を追って 名利を絶つ
流れに従って 波を揚げ
其の逝く処を知らず

「里見家之墓」墓碑銘

恐竜帝国帝王ゴールは、自らの種に科せられた業を知るがゆえに、地上侵略の早期達成を図った。
地上の調査に余念がなかったのは、侵略の第一歩として地上で最大の兵器を所有していた早乙女研究所関係者を襲撃したことからも明らかである。ゲッターロボを無効化すれば、地上侵略は叶うとみたゴールの戦略は正しい。
しかし恐竜帝国はこれを果たせず、種の存続を第一としたバット将軍は帝王ゴールを見捨てる形で撤退した。 石川賢的巨悪の象徴であったゴールは、この機を見計らっていた百鬼帝国に不意打ちを受け、あえなく果てる。
巨悪を圧する悪を表現するに、実にわかりやす手法といえよう。


『二人の首領』で戦後日本のフィクサーとして描かれた笹川良一は、Chaotic Evilたる児玉誉士夫と比してLauful Evilと見受けられた。
『破天荒人間笹川良一』では、山本五十六と個人的親交のあった様から始まり、その生い立ちが描かれていた。『二人の首領』では児玉と対立したと読めるが、同著ではいわゆる児玉機関設立の経緯として、笹川がまず役目に就くことを請われ、児玉を推挙して自らは退いたとある。
いずれにせよ、戦後日本を語るに欠かせない巨人として描かれていることは間違いない。

本書では、その笹川が小物と評されている。「阿片王」に金をせびりに来ていた人物の一人である、と。
笹川を小物と評さざるを得ない人物とは何者か。
昨年から幾つか、大東亜戦争近傍の情報を収集してきたが、いわゆる戦争的側面を主としたそれら情報の中には阿片という単語は一度も登場しなかった。同時期の馬賊を主眼とした書を手にしてようやく阿片の介在を知り、今では、満州を語るには欠かせない一大要素であることを理解している。
民間人でありながら、いや、だからこそ、金の成る木たる阿片の取引を任せられたのは、里見甫(さとみはじめ)という新聞記者あがりの日本人だった。軍人が蓄財に走ることは関東軍内外によく理解されていたことであるらしく、関東軍からの嘱託で、自身は直接取引に関わることなく采配を振るったという。権益は巨大だったが、無私無欲に振舞い、それを濫用することはなかったという。
戦後のフィクサーの弱みも恐らく握っていたに違いないが、晩年の里見は戦後大成した政治家やいわゆる大物らのようにはならず、世間に埋もれるようにひっそりと生きたという。里見に世話になった大物らが里見の遺児のために奨学基金を募ったというから、遺産というべきものは一切なかったのだろう。そしてその基金名簿が本著執筆に至る第一歩であったという。

本著は、著者の取材と、いくばくかの推測によって構成されている。十年という時をかけて拾い集めたというそれらの妥当性を推し量る術もないが、世間によく知られている事物との対照が面白い。
里見という人物像の是非はともかく、乱世を渡る才覚とひとかどの見識をもちあわせたであろうことは疑いない。


「人は組織をつくるが、組織は人をつくらない」
 里見は晩年、秘書役の伊達によく、そう言ったという。

P.178

2009年8月20日 (木)

うるとらふぁいと

どこの道院・支部でも似たような難があるようで、当流では小学生以下の少年部の指導について、会報でアイデアを提供している。
難のひとつをいえば、集中力の問題で、我が身が小学生の頃、いわゆる放課後のクラブ活動参加は四年生からであったのだが、いまさらながらにその理由が深く頷ける。個人的な経験則では、だいたい小学四年生あたりが意識変革のひとつの目安に思われ、集中力、協調、責任感、理解力というものに、各個の主観が入り始めるように感じられるからである。
他にも難はあるが、その解決方法は小学生低学年については大雑把に「いかにおもしろいか」ということに集約されるように思う。

会報に掲載されたアイデアを全て利用するわけではないが、個人的に実現が比較的容易であろうと思われたものを幾つか採用してきた。此度は洗濯バサミを利用するもので、これにリボンを結び、両肩にひとつずつ付けて、互いにこれを取り合うというものである。
予想通り、はじめはとっくみあいの様相を呈する。蹴ったり襲い掛かったり、イノセントな暴れっぷりで、こりゃあ失敗だったかと反省しつつ、マンツーマンで遊んでみる。

攻撃容器は開手のみという限定。当方は膝をつき、少年らは制限なし。
当方が身動きに不自由すると分かれば、接近離脱を繰り返したり、側面背面に回り込んだりなど工夫を見せる。イノセントに相手の弱点を見抜いていく。
勝ち負けは問題ではないが、ゲーム性があるために一応勝ち負けの形はつく。同年代に負けて泣いちゃう男の子には勝たせてやり、勝って調子に乗ってる子は負かす。
こいつは負かしてやろうと膝をつきつつ追い込み、攻防を重ねる。いつしか無意識に攻守を兼ねた構えを採っていた。
「かまきり~! かまきり~!!」
の声で気づけば、それは蟷螂手もどき。以前もやはり少年に指摘されたことがある。我が身の性は蟷螂なのか。
どちらかといえば蛇ってカンジだったが、いずれにせよ、お子様を幻惑するのに非常に有効であった。


さておき。
しばし前よりSFC版『ウルトラマン』がフラッシュバックし、そぞろとなっていた。いにしえのゲームでもあることだし、よい思い出を無碍にすることもあるまいとしてか着手にはいたらなかったのだが、エフレが遊んでいるとの日記を目にし、やる気になった。
ブルトンさん、ぱねえっす。
レッドキングさん、いてえっす。

コミュニケーションが成立しない相手との否応なき対峙に、いまさらながらに戦慄を覚えさせられた。

2009年8月16日 (日)

きたのじゅんこ妖精版画展

とおいとおい昔、TRPGのイマジネーション創出のためや落描きのために、画集を眺めた時期があった。
自由になる資金の乏しかった頃、購入に至ったものは少ない。TSRのファンタジーアートや、きたのじゅんこの画集は、その少ない中に含まれていた。いずれの趣味も遠ざかって久しいが、歩いていける距離のイベントなので、足を運んでみることにした。

どういうわけか、地元では、いつからか妖精を街のウリにしようとしだした。
そうと気づいたのは数年前のことだが、目立った動きもなく、ましてやマスコットキャラクターまで用意されているとは知る由もなく。コンテストがあったのなら応募したのだが、残念極まりない。

さておき。
今回展示されていたものは主に版画だというが、新作の原画が含まれているという。熱心なフォロアーではなかった我が身にはどれが新作かわからなかった。
原画というと、かつてはそのサイズに驚かされたものだ。普段手にするサイズよりはるかに大きいものであるのが常なのだが、今回展示された作品はどれもさほど大きなサイズではない。せいぜいが画用紙大で、その半分ほどのサイズのものもある。

画集の距離――展示会なら近距離――で見るのと、やや距離を置いてみるのとでは印象が異なり、どちらかというと近距離観賞用であるのだなと感じた次第。

今月29日には「きたのじゅんこ来場イベント」があるらしく、水彩色鉛筆教室が開催されるらしい。

ご参考:
うつのみや妖精ミュージアム

2009年8月15日 (土)

読物 『ザナドゥーへの道』

保存書庫から貸出希望図書が探し出されるまでのあいだ、貸出カウンターの近傍をうろついた。
カウンター近傍には人気図書、推薦図書、新聞、婦人週刊誌?と並んで新着図書のコーナーがある。なにげなく眺めてタイトルに目を引かれ、ぱらっとめくったページの「シナの防具」という語が目に入り、装丁ともあいまって読んでみようと思い立った。

ザナドゥという言葉にはじめて巡り合ったのはPC-88版『ドラゴンスレイヤー2』すなわち『XANADU』である。不思議な語感をもつその語について、その時はただ心に響いたのみだった。
『無限コンチェルト』で再び出会い、クーブラ・カーンおよびコールリッジというキーワードを得て、その名を冠する作品が存在することを知ったが、コールリッジが阿片の夢の中に見たという未完の詩『クーブラ・カーン』は詩心のない我が身には解せぬものであった。
元の夏季の都、上都(Shangdu)がモデルだというが、あるいは由縁不明な同地への個人的憧憬と無縁ではないのかもしれない。

タイトル通りの内容を期待して読みすすめ、これはどういう本なのかと、読了まで分類に困った。ザナドゥーのザの字も出てこない。
あとがきには、こう記されている。

 とはいえ、本書における「ザナドゥー」は、それほど重たい意味を背負っているわけではなく、オックスフォード英語辞典が「ほとんど手がとどかぬほどぜいたくな、あるいは美しい場所についての感じをつたえるのに用いられる」と述べているのに近いであろう。それでも、本書の場合は「西から見た東の場所」であり、「ぜいたくな、あるいは美しい場所」でなくともよいけれども、「手がとどかぬ」あるいは「到達不可能な場所」といった程度の限定はゆるされるであろう。

P.230より

どうやら、西洋から見た神秘的な古代世界の東洋を物語るという意味に用いられているようであり、そのような内容を伴っている。また、情報の精度や伝搬速度の遅さが、意図せずして事実を伝説に変えてしまった様なども語られている。
一例をあげれば、金に追われた遼の世継ぎが西方に逃れて西遼を興し、これがイスラム朝を脅かしたことがあった。これが「ペルシアやアルメニアよりはるか東に、プレスビュテル・ヨハネス、すなわち英語読みではプレスター・ジョンと名乗る王が住んでいるが、その王がペルシア王に勝利した」としてキリスト教社会に伝わった、など。


遠いようで存外近かったらしい古代世界の、数奇な運命をたどった人々の姿を垣間見れば、漂着する男アドル・クリスティーンのありかたや、父親の偉業をごく短期間で凌駕してしまったジャスティンの生きざまは、ある意味肯定できるものなのかもしれないと思ったり思わなかったり。


読物 『破天荒人間笹川良一』

 大衆はいつの時代でもインテリではない。インテリはその知識の仕入れ先次第で、根こそぎ判断力を狂わせられる弱点を持っている。が、大衆はそうした知識による偏見の呪縛の外にあって、本能的に正邪を嗅ぎわけるふしぎな嗅覚を持っている。

P.207より

「君は川島芳子の愛人であったとの事だが、それは真実か」
(中略)
 笹川は、田中(降吉)の卑劣な根性に呆れ返ったが、
「男女の関係は夜の部に属します。夜の部はあまり公開せんものです。僕は腰から上の人格者で、腰から下は夜の部ですから、敢て保証の限りではありません」
 と答えた。
 米人検事は、笹川の言葉をきいて、腹をかかえて大笑いした。

P.257より

 昭和十六年一月のこと。当時航空本部長だった山県正郷海軍中将が、笹川に、飛行機生産の資料を上海その他外地で調達してくれんかと、頼んだことがあった。しかし、この時笹川は、
「私はそういうことは不得手なので、児玉君がいいでしょう。彼は度胸もあるし、商売もうまいから……」
 と、児玉や小林を紹介した。いわゆる「児玉機関――」の誕生の裏には、こうした経緯があったのだが、そんな形の軍との癒着は、彼の希むところではなかったのだ。

P.273より

あとがきによれば、著者である山岡荘八は、海軍報道班に在籍していた当時から刊行された昭和53年まで、笹川良一とは30年来の知己であるという。主題とする著作を興すという山岡のラブコールを笹川は拒み続けていたが、互いに残された時間が二人の間で話題にのぼった時、「全てをつつみかくさず公開するならば」という条件で、笹川が受諾したという。

ロッキード事件のみにターゲットをしぼった落合の書。トピックのみをかいつまんだ内容ではあるが、生い立ちからの姿を描いた山岡の書。二者は相反するようにも読めるが、そうでないようにも読める。
客観的にはどちらを採ることもできないが、主観的には山岡を選ぶだろう。そうであるならば肯けることもあるからで、それはまったくもって主観的なことであるからだ。

2009年8月14日 (金)

読物 『実録 少林寺修行記』

入門を決めた時、過去にかつて微小な接点があったことを失念していた。
小学生の折、サッカー部に所属していたのだが、部員の一人がやっていたのだ。その彼は、小学生とは思えないブルース・リーのようなしまった身体つきで、今思えば時折、肩や背に目打ちのようなしぐさを、小学生ならではのふざけ半分なアレで行っていたように思う。

入門してすぐに、いわゆる少林拳ではないことを知ったわけではあるが、「あ、そうなのw?」程度で特に問題は感じなかった。当時、格闘技に関しては知識しかなく、真贋を見抜く素養はもっていなかったが、もちあわせた知識を総合すればどことなく柔術的であり、そそられた興味を損なうことはなかったからである。

入門しておよそ七年。準拳士となってそろそろ二年。
初心の頃よりいわゆる投げや関節技――柔法という――に関心を抱いてきたためか、突き蹴り――剛法という――には特に熱心ではなく、ようやくにして剛柔一体という言葉の意味を知り、柔法の上達のためには剛法の上達は欠かせないと理解し、おそまきながら取り組み始めたわけではあるが、上達のための手がかりが身辺に見つからない。わずかに基本の中にそれをみいだしたものの、歩法や体捌きと連携する技術が欠落しているように感じられてならない。
これは体得するべきことで特に技術というものはないのかもしれないのだが、頭でっかちの性ゆえであろうか、ただひたすらに打ち込むには年を取りすぎたということなのだろうか、なにかあるべきだという考えが去らない。

準拳士から入学を許される武専に通い、他道場の先生や先達にそれとなく訊ねてみても、得心できる回答はない。ならばと著作物に回答を見出そうとしては果たせず、今日に至る。


さて、本書であるが、著作物としては最低の部類に属する。素人の体験記でも、もうちょっとなんというか、校正が入るのではないだろうかというほどに文章がひどい。脈絡がない。しかしながら、あえてそこを真なるが故とみなすこともできる。なにぶん我が身が生まれる前のことで確かめるすべもないが、過激だった頃の少林寺拳法の一側面を知ることができる資料とみなせるかもしれない。
さておき、ただ一つだけ興味深い記述が見受けられた。

 ある日、監督をされていた板東先生が指導に来られました。
 少林寺拳法初期の突手で、肘を引き、突手というより中国拳法の型に似た印象を受けました。貫手の使い方、また、一瞬で投げつける柔法の冴えは、眼を奪います。

P.53より抜粋

故・板東先生という方は個人的に面識はないが、圧法の達人であったと伺っている。逸話を一つだけ直接耳にしており、それは我が師が若いころの体験談で、往時を偲ぶ一つのエピソードといえよう。
本山での圧法講習の際、被験者が募られたが、誰もこれに応じない。皆、知っていたのであろう。空気を読んだものの、若気の至り(師・談)で手を挙げた我が師は、「君、首は大丈夫かね?」と問われたそうである。
板東先生という方は背が高い方ではなく、まず飛びあがって手刀を首にいれたという。これで我が師は脳天に突き抜けるような衝撃を覚え、ぴよったらしいのだが倒れなかった。間髪入れず水月が打たれ、前かがみになった所、もう一度頚柱を強打され、失神したという。師曰く、「板東先生は相手が倒れるまでやる」方であったらしい。衆人の後の言葉によれば「死んだかと思った」というくらいヤバい倒れ方をしたとのことだ。
本番はそれからで、圧法の一側面である活法により、我が師は意識を取り戻した。笑いながら語られた逸話ではあるが、これが原因で頚骨がずれて、若干ながら後遺症が残ったという。

現時点で既知としている情報からは、当流におけるいわゆる中国武術的要素は意図してかせずしてか消えていったような印象を受ける。開祖はまさに中国武術的所作と技を用いていたようで、幾度か幾様の伝聞で聞かされたところによれば「もし開祖が三級の試験を受けたら、間違いなく落ちる」というものである。開祖が体現していたものと、現在の当流の体系的なものが異なるという事であろう。
少林寺拳法の技術は開祖が体得した技術を編みなおしたものであることは公式に謳われていることだが、柔術が柔道になったときに捨てたものと似たようなものがあるのではないかと邪推してしまう一つの由縁である。
願わくば、そこにキーとなるものが含まれていないことを。

2009年8月13日 (木)

読物 『満州国演義』

手記によれば「馳ノワール」なる語を初めて目にしたのは2005年11月のこと、単行本『楽園の眠り』の帯による。以来、その語を想起するたびに連想する名がある。船戸与一だ。

船戸与一作品との出会いは柳澤一明による漫画作品『猛き箱舟』で、馳星周との出会いに先んずることおよそ10年前となる。第一話の衝撃に打ちのめされて漫画連載を待ち切れず、原作小説を手に取った。熱冷めやらぬままに『山猫の夏』『伝説なき地』と読んで作風を理解し、『蝦夷地別件』で離れた。
既読作品の中に、同じ題材を扱ったものはない。似ているのは物語の構造である。それに飽きが来たためだ。

『蝦夷地別件』が1995年の発刊となるので、14年ぶりだ。
着手に至るきっかけは「馬賊」というキーワードによるもので、サーチエンジンにヒットしたことによる。『満州国演義』という銘に剣呑なるものを覚えつつも、地元の図書館に既刊全巻が貸出可能状態にあるとわかれば、縁を感じずにはいられない。

この物語は、四人の兄弟の視点から語られる。外務省官僚の長男、馬賊の次男、軍人の三男、そして時代に翻弄される若者の代表格としての四男。彼らの視点で満州を眺め渡していく。
満州事変前夜からはじまり、五巻終了時点で南京に至る。巻頭に掲載されている地図は巻をおって縮尺をさげてゆき、どこまでゆくのか現時点では不明である。

久々に、乾きに苛まれる作品に出あった観があるが、たったひとしずくの猛毒で物語を激変させる作家なので、予断は許されない。

新潮社の著者インタビュー

2009年8月 9日 (日)

ゲーム 『DQⅡ』

おそらくもう2度とはやるまいと思わされたのは、長すぎるパスワード記録もさることながら、早すぎたと思えるロンダルキアの洞窟への到達のために、マゾい思いをさせられたからに違いない。

再び遊ぼうという気になったのは、日記データ移行のためにリンクのはりかえやHTMLの整形を行ったことにより、『ドラゴンクエストⅡ 任侠鉄砲玉伝説』を再読したためであり、これまた久々に遊んだ『DINOSAUR』のマゾさが個人的ロンダルキアの試練を否応なしに思い出させたためであろう。

此度遊んだのはSFC版で、超揮発性メモリ体質である我が身はまるでストーリー進行を覚えておらず、どうしてもわからないところで多少消費してしまった観はあるものの、ほとんど初挑戦の趣であった。
前回難関であった水門のカギは、そもそも水門のカギが必要とわかるまえに入手してしまうなど、そもそも進行らしい進行がないっぽいことに気づかされた。これはおそらくSFC版のゲーム難易度と無関係ではなさそうであり、ラリホーマンセー気味に進攻できたことと無縁ではなく、くわえて金のカギ入手で解禁となった旅の祠によって意図せずして正規手順と外れ気味に進んでしまったこととも無縁ではなさそうである。

今回ロンダルキアの洞窟の到達レベルは23、FC版では27でほとんど全く歯が立たなかったのに対し、危うげにも進めなくはないという具合だった。
ロンダルキアではだから苦戦しまくりで、洞窟踏破後10レベルほど積まねばならず、ハーゴンはともかく、シドーはザラキによって倒す始末となる。

『ドラゴンクエスト』はⅥまで遊んだ記憶があるが、Ⅳはさておき、いわゆるロト伝説が我が身におけるドラクエであるらしいことをなんとなくは察していた。
先日発売されたⅨがいわゆるロト伝説なのかどうか、ちょっと調べただけではわからず食指はやはり動かない。
二度目の挑戦を投げっぱなしのⅢにリトライしてみるか。

2009年8月 3日 (月)

アニメ 『東のエデン』

オンエアは中途半端で終わっていて続きは映画とか、アニメ放映前から映画化の話があったとか、そんな情報とは無縁に、『エヴァンゲリオン』『ナデシコ』『COWBOY BEBOP』からしばらくして『ZEGAPAIN』、それ以来久しくなかったキモチになった。実に面白い。

完結した作品にしか安心感を得られなくなって久しい我が身としては、オンエアが完了したことだし、映画公開まで待てるかと観賞に至ったわけではあるが、映画が二部構成と知ったこと、岡崎武士の『エレメンタラー』に得た読後感とそっくりな境地を得てしまったことで、観賞してしまったことをいささか後悔している。

まとめWikiなどを読み散らかしてみるに、オマージュというものの在り方の変遷をどことなく感じて、たかだか一世代ほどの期間にもアマンは遠くなるばかりだという感慨を得る。

しかし、間違いなく、面白い。

2009年8月 2日 (日)

読物 『馬賊―日中戦争史の側面』

 若ものは尚旭東(シャンシュートン)とよばれ、父は中国人だが母は日本人であると、その当時かれみずからが称していた。馬賊仲間では小柄で色白のほうで、小掛児(シャオコアル:中国風下着)の上に肩窄児(チェンチアル:中国風チョッキ)をぴたりと着こなし、頭を浅黄色の木綿でかたく包んだその容姿は、いかにも粋な伊達男に見えたらしく、いつのまにか小白臉(シャオパイリエン)とも通称されるようになった。「臉(リエン)」というのは顔という意味である。
 だいたい、いろいろなアダナや別名で呼ばれるのがこの社会の常で、若ものはのちに小白竜(シャオパイルン)ともよばれるのだが、これは千山の名刹無量観で三年ほど修業した最後の日に、葛月潭(コーユエタン)老師から「天下万民のために使え」といわれて授けられたブローニングに由来する名前であった。銃の柄は象牙でできていて、北斗七星と昇竜とが銀色あざやかに彫られてあったという。
 ちなみに無量観の「観」とは、道教の道士たちのたくさんいる堂塔伽藍のりっぱな構えの寺のことである。(そのつぎの寺は閣といい、さらにそのつぎの洞と称されるのは山腹や谷間に掘られた洞窟、つまり道士が一人で修業にいそしむ祠である)。無量観は、満州の遼東湾にそそぐ遼河の東側に屹立している海抜533メートルの千山(チェンシャン)という、その地方にはめずらしく奇巌が列立して松柏がおい茂っている山の中腹にある名刹で、1000年の歴史をもつ。そこの最高指導者が葛月潭で、全満州の道士の大長老として何十万の命知らずの馬族たちに号令し、3000万民衆からその徳を慕われていた。博学な人物で、武当派拳法の奥義をきわめていた。
 なお、拳法というのは、470年ころ、インドから中国にやってきて河南省の高山小宝五乳峰の少林寺にこもったと伝えられる達磨大師が、易筋行として坐禅行とともに伝えたもので、少林寺に参禅した弟子たちの行脚のさいの護身術、いわゆる少林派拳法として発達した。やがて、禅からはなれて、一般民衆のあいだに自衛用としてひろく用いられた。とくに道士は、山中で修業を積むならわしであったから、これが道教のあいだでいちじるしく発達し、いわゆる武当派拳法が工夫せられた。そののち、さらに少林派と武当派とを折衷した太極拳法があみだされた(今日の中国で護身的体操として奨励されているタイプ)。宋の太祖が天下を統一しえた裏には、軍師張三宝(チャンサンパオ)という道士の功があったが、武当派(あるいは陰陽拳)をはじめてあみだしたのがこの人物で、太祖は張三宝のために観を建ててやり、北辺鎮護の役を司らしめたという話もある。武当派は、さかんに逆手を用いて、これがはなはだ危険をともなうことから、清初以来、一般に禁ぜられ、秘密のうちに伝授されてきた。

P.77

 年より若く見える芳子は、ときに、男装したり、男のようなことばを吐いたりした。日常、「ボク」と称し、「キミ」とよんだ。しかし、M過剰ではあっても、それだけに妖しい女の色気を、たっぷりとその小柄な肉体に包蔵していた。

P.118

 このころ、彗星のようにあらわれたもう一人の女傑があった。韓又傑(ハンユーチエ)こと中島成子である。
 川島芳子がその名門や毛なみを売りものにされ、雲上的・貴族的なイメージをもたれたのにたいして、中島成子にももっと地についた庶民的なものがあった。成子は日本軍の華北婦女宣撫班の班長をしていて、華北の農村のひとびとから、韓班長というよりも韓太太(ハンタイタイ:韓奥さん)とよばれた。
 あるとき、彼女は華北と満州の国境あたりに蠢動していた一味1500名ばかりの匪団の帰順工作をひきうけさせられた。その頭目が女性だから、というのが理由であったが、女性といってもはなはだ手ごわい相手である。徐春圃(シュチュンプー)という当時28歳のこの中国女性は、ゲリラ戦になると、いつも先頭にたって、馬を走らせながら二挺拳銃で撃ちまくった。追撃されると、馬の腹部に身を隠して逃走するという芸当もやってのけた。
 春圃の兄、佩珍は、日本軍に殺された。だから彼女は、兄の配下の馬族1500名をひきつれて、恨みかさなる日本軍に戦いを挑んだわけで、そう容易に帰順するはずもなかったが、春圃を頭目とする馬賊は、尚旭東を総頭目とする東北抗日義勇軍の傘下にあり、戦死した佩珍と彼女じしんは尚旭東の最愛の義子であった。韓太太は、まず尚旭東にわたりをつけた。そして、徐春圃帰順についてなんとかひと肌脱いでくれと頼み込んだ。
 尚旭東は、韓太太の申出を条件づきで承諾した。すなわち、東北抗日義勇軍にたいしては、今後は、平和のための帰順工作は別として、討伐工作をおこなわないこと、だいたい、討伐のごとき戦闘行為はいたずらに中国民衆の反日感情をつのらせるばかりであるから、韓太太はよろしく責任をもって日本の将校連中を啓蒙すること、そうすれば徐春圃の身柄はしばらく韓太太のもとにお預けしよう、というのであった。
 義兄のいうことは、義妹として当然したがう。春圃は、韓太太に帰順するという形をとった。帰順式には、わずか200名足らずのほんものの馬賊メンバーが、春圃をひそかに護衛するために出てきて、あとはぜんぶ流浪者か食いつめ者ばかりが集められていた。

P.131

 話がいささかドラマティックになるが、この天津曙街に、日本の関西から進出してきた「亜細亜会館」と称するキャバレーがあった。ある日の夕刻、その二階のホールで、和服姿の女給がにこにこしながら、頭上にリンゴを一個のせて、厚い壁を背にして直立していた。それから6メートルほどへだてて、紺色の大掛児(タータワル:支那服)を着た偉丈夫がソファに腰をおろしていて、さしのべたその右手にはコルトが握られていた。日ごろからこの男の百発百中の腕前を信じきっていたその女給はもちろんのこと、その場を見物している女給仲間たちも、安心しきって朗らかな声援などをあびせていたが、そのとき、後方の階段をかけ上ってきた男の友人が「おい、伊達! よせ」と叫んで、伊達の右腕にとびついた。その瞬間、拳銃が轟然と火をふいた。
 階下にいた客たちが、なにごとがおこったのかと二階にかけあがってみると、そこには、右寄りの前頭部を撃ち抜かれて血にまみれた若い女性が倒れていた。
 伊達順之助は、旭街の天津日本領事館警察に出頭を命じられた。取調室は館内の広いホールで、正面には土嚢を積み重ねた防弾壁がしつらえてあり、その前の木台の上にはリンゴが5、6個、天井からはテープで吊るされたゴムマリや人形があった。まるで射的遊技場である。それから6メートルほどへだててソファに腰をおろしていたかれの前方には、小机があって、実弾をこめたコルトやブローニングやモーゼルなどが10挺ほどならべられていた。
 かれは、順次に、前方の標的に弾丸を命中させた。係官が、つぎに、前方の黒板に白墨で◎印を描いて、直径2センチほどの中丸を立って射てと命ずると、伊達は寸分の狂いもなくその中心を貫いてみせてから、こんどはまるで狂ったみたいに、黒板に向かってつづけざまに、弾丸のあるかぎりやつぎばやに射ちつくした。黒板には、弾痕あざやかに、「ダテ」という字が読みとれた。

P.142

事実だとすれば、小説より奇なり。
『虹色のトロツキー』における川島芳子描写はまるっきりのフィクションではないらしく、また、日清戦争から日華事変にかけて、いわゆる大陸浪人や日本人馬賊というものが多数存在していたようであり、西部フロンティア的な逸話を残しているらしい。
先に読んだ『馬賊で見る「満洲」―張作霖のあゆんだ道』と同時に借りて、後に読んだわけであるが、読み物としての面白さは明らかにこちらが勝っている。昭和39年刊行とは思えぬ読みやすさで、また同時代であるからこそ書けたであろうことも察せられる。

霊幻道士が武芸達者であることの裏付けがとれるなど思わぬ余禄もあり、お得な一冊だった。手に入るものならば、手元に置きたいところである。


2009年8月 1日 (土)

アニメ 『ベクシル -2077 日本鎖国』

現在の職場にバイトに来ていた方から、喫煙時の雑談に聞かされるまでその存在を知らなかった。
直前、マニュアルを作成するというミッションに頭を抱えていた彼女は、説明することがひどく苦手だという。それを実証するかのようにたどたどしく語られたあらすじに想像力を刺激され興味を抱き、観賞に至る。

なんか知らんが日本だけ突出した科学技術力をもってしまうことになった2050年。
2067年、その技術力が生命倫理や道徳を侵害するにいたり国際社会はそれを制限する決議をなし、ただ一国のみそれに抗した日本は国連を脱退しハイテク鎖国を開始する。
それから10年、2077年の日本は、国際社会に対して完全に実態を秘匿していた。

自らの要約にすら呆れてしまうアレだが、ひどく不思議なことに楽しめてしまった。
たぶん、実写で、CGではない役者が演技してたら観賞に耐えなかったに違いない。
松雪泰子も悪くなかった。


メガトレイン、という言葉がある。
トレインとはMMOの先駆けの一つであるEverQuestの用語で、モンスター(MOB)が大挙して押し寄せてくることを言う。たいていはコントロール不可能な状態を指し、それに見舞われたグループは壊滅、ときには煽りを食らってゾーン全体のキャンプが崩壊することもある。
MOBはおのおの、近隣のMOBに対して互いに異常を監視しあっている。プレイヤーがMOBの注意をひいてしまうと、それが近隣のMOBに連鎖的に伝わってしまうことがあるわけだ。これをリンクというが、ミストムーア城というゾーンはこのリンクが非常にタイトだった。
そのとき初めて目にした超弩級のトレイン、みたこともないほど大量のMOBが列をなしてやってくる光景は、まずなによりも笑いを誘った。トレインとはうまいことをいったものだ、と。その後に待ち受けている厄介な回収蘇生作業も、キャンプ地までの再ブレイクの手間も忘れさせるものだった。

これを利用するテクニックもある。日本版EQ(JE)で参加していたオープンレイド団体で、プレーン・オブ・フィアーを攻略した時のこと。同ゾーンは初ではなく、ゾーンと同時にMOBが大挙して押し寄せてくることを既知としており、何故そんな面倒な所へ行くのかと、正直、嫌で嫌で仕方なかったが、経験済みのプレイヤーたちはむしろ逆の反応を示していた。
どういうわけかと思えば、故意に多数引き連れられてきたMOBを、エリアエフェクト(AE)効果のある呪文で一掃するという手法によるもので、一種トリガーハッピーな爽快感がある。なるほど、これは病みつきになる。

JE末期に参加したJEトップ集団は、プレーン・オブ・アースで同様のことをした。このときの衝撃は上記のトピックに相当するものであり、コントロール可能なトレインはトレインではなくプル(MOBをキャンプ地まで誘導すること)であることを否応なしに理解させられた一事であり、バードがナドックス全域のMOBを27分で殲滅するとか、Uber団体のやることは常軌を逸していると痛感させられたものである。

トレインの利用方法は他にもあり、たとえばキャンプ地やターゲットが競合する他グループにぶち当てるとか、MOB同士の利害関係(Faction)を利用してMOBを相討ちにさせるなどが挙げられる。


なにがいいたいかというと、そんな映画であったということである。
『ガンヘッド』とか『ミカドロイド』とか、CGでリメイクしねーかな、と思いつつ。

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