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2009年7月

2009年7月31日 (金)

読物 『馬賊で見る「満洲」―張作霖のあゆんだ道』

 昔、ある家に18人の兄弟がいた。家計がきわめて苦しかったので、母親はこういった。
「おまえたち兄弟は、みな家を出て生計を立てなさい。一年後、私に会いに戻っておいで。おまえたちがどんな道理や技を学んだか見たいから」
 兄弟の何人かは一年間家を出て、困窮している人が多く富める人は少ないこと、富める人は楽しく飲食しているのに貧しい人はひもじい思いをしていることをいたるところで知った。
 彼らは家に戻って母親にいった。
息子「お袋、世間は不公平だよ!」
母「どうしてそういうの?」
息子「金持ちは金持ちすぎるし、貧乏人は貧乏すぎるからだ」
母「それでおまえたちはどうしたいの?」
息子「世の中にはどんな仕事もあるけれど、金持ちを殺して貧乏人を救う仕事はないんだ!」
母「おまえたちがひとたび人を殺せば、世間では私の息子と認めてくれなくなるだろうね」
息子「俺たちは顔にひげを描くさ。そうすれば誰も俺たちが誰だかわかりゃしないさ」
 そこで彼らはおのおの上手に化粧して、金持ちを殺し貧乏人を救った。ゆえに世間では彼らのことを「髭子」と呼んだ。即ち後の十八羅漢である。

P.204

張作霖。
中学校の歴史の教科書に唐突に現れたその名には、満州事変という歴史の変節を語る代名詞的な位置付けという印象を与えられるにも関わらず、どのような人物で、なにを成し遂げ、なぜ暗殺されねばならなかったかは不明であったように思う。
暗記力に乏しい我が身の、歴史への興味とは裏腹な歴史という勉強への嫌悪がそう思わせているだけで、世間一般では異なる認識なのかと思えば、本書巻末の著者の、1969年生まれの著者の言葉によれば、そうでもないらしい。
馬賊出身であるという彼の立身出世はどこか、チェーザレ=ボルジアを髣髴とさせる。マキャベリを思い起こさせる王永江という個人的には初見の人物と組み、日清露などの勢力の間を巧みに渡り歩き、志半ばにして関東軍に暗殺された。

バーレーホー
白麗花。
ひとり馬賊。
性別不詳の、美貌の若者。黒い髪を長くのばし、蒙中折衝のような衣装をまとう。
徒手格闘術の達人であり、天才的な射手であり、また巧みの騎手である。愛銃はモーゼル、神の恩寵を一身に受けたようなキャラクターであるといえよう。
『機神兵団』に登場する架空の人物。
原作となる小説は ・⌒ ヾ(*´ー`) ポイ だが、岡昌平のコミック版は絶品だった。
唯登詩樹によるビジュアルを見てみたいところである。

個人的には、馬賊の印象はそれくらいしかない。字面どおり、馬に乗った盗賊という印象である。
本書に依れば、いわゆる馬賊とひとくくりにされているもののなかに、地方豪族の守備隊や、郷土の自警団的なもの(保険隊という)もふくまれているという。張作霖は最も「馬賊」的な匪賊に一時身を置き、名士に見出されて保険隊に所属し、戦乱の中を立身していった。
本書が参考文献とした「実在の日本人が馬賊に参加し、フィクション作品として世に出した」という『馬賊になるまで』に依れば、馬賊というものの一側面として西洋的な傭兵団のイメージも持てる。以下の引用は、その構成である。

 匪賊には頭目(当家<タンシア>)・副頭目以下、おおむね以下のような人々がいるという。

1.頭前人、崩頭=10~14名の班の班長。これに対して一般の部下は「家口」と呼ばれる。頭前人は頭目・副頭目の指令で班を動かす。
2.糧台=炊事係。民衆からの食糧調達も担当する。
3.八門先生=易者。頭目の下問に応じて占う。
4.軍需=会計係。金銭の収支、武器弾薬の収支、被服供与などを担当。
5.水餉=歩哨、つまり見張りの責任者。
6.砲(あるいは包)頭=行軍、攻撃の陣頭指揮と全団の誘導。
7.医者=負傷者の治療をするが、内科の場合はアヘンしか使わない。
8.放線=密偵。集団内に起居することはまれ。
9.拉線=道案内。転々とするに従い変更し、時には現地住民を拉致して強要する。
10.票房子頭=人質の管理を担当する。
11.稽査=集団内の内通者、略奪品隠匿者などを取り締まる。随時頭目が任命し、集団内では誰が担当しているのかわからないようになっている。

《中略》

――この編成に従って略奪品の分配率も異なっており、頭目を10とすると副頭目が5~6、砲頭と水餉が3、糧台が2.5、頭前人が1.5~2、普通の「家口」が1、新入りの「家口」は0.6~0.8となっていたという。炊事係が班長よりも序列が上というのは興味深い。それだけ「家口」を「食べさせる」ことが重要だったのだろう。なお以上の分配率は銃器を所有している場合で、他人から借りている場合は所有者に四割渡すというのが慣例だったという。

P.199

浅学にして本書の内容を云々することはできないが、巻末に掲載された膨大な参考文献のリストだけでも、この道のインデックスとして大いに有用であろう。

2009年7月28日 (火)

神の供物

神に捧げられた信者のレシピ。

a.白味噌 50g
b.牛乳少量
c.卵  大3個
d.砂糖 120g
e.薄力粉 120g
f.バター 120g

1.a.b.を混ぜる。(味噌牛乳)
2.e.はふるっておく。(薄力粉)
3.f.は溶かしておく。(溶かしバター)
4.c.を白っぽくなるまで混ぜ、d.を2~3回に分けて投入する。(溶き卵+砂糖)
5.4.に1.を混ぜる。(溶き卵+味噌牛乳)
6.5.にe.とf.を混ぜる。(卵味噌牛乳+薄力粉+溶かしバター)
7.型にバターを塗り、6.を投入。170度に予熱したオーブンで、170度で30~40分焼く。

その名を「お味噌ケーキ」という。
うまい。

菓子作りには手を染めぬと誓っていた。
含有するアレとかコレとかの量を体感してしまえば、きっと冷静に摂取できなくなってしまうだろうから。

知っていることとできることは別物であるという。
知識それ自体は情報に過ぎない。インテリジェンスに置換できたときに情報の価値が決まる。
知っていることとは確かに別物であった。
山盛りの糖分と脂肪の塊を目の当たりにすることは。

さておき。
うまかったのだが、気になる点がひとつ。膨らむはずが膨らまず、パンケーキないしはマドレーヌ風になる思惑が、家人をしてチーズケーキといわしめる出来栄えとなった。
いろいろ調べてみたら、オーブンの設定温度はレシピより20~30度低めにするのがよいとか。再度試したところ、焼き加減は一度目よりよいがやはり膨らまず。
型が大きすぎるのかもしれない。

2009年7月26日 (日)

読物 『弓と禅』

心身一如という理念が当流の一根幹をなしています。精神身体医学では、"断腸の思い"の時にその腹部をレントゲンで透視すると腸が太く細く、細く太く、あたかも腸が今にも切れんとするが如き状態になっておるそうであります。

P.214より

弓道というものへの知識・理解はないに等しい。
人生において数度アーチェリーを体験したこと、EQでRangerをやっていたこと、それ以外にはなにもない。

山岸涼子著『舞姫』には、バレリーナの立ち方というものが記されている。
これまた門外漢で見たままに受け止める以外に術のないことであるが、丹田が、天地によって牽引されるがごとき心地だという。
弓道も、そうらしい。

著者は齢五十を過ぎて弓と出会い、七十にして「桶底を破った」という。「桶底を破る」とは、本文中の言葉に依れば、とある境を越えたことを示すものである。
本著は、その過程を記録したものを前編とし、著者が「統一」という位に至るまでを記している。
後編には著者が入門した「無影心月流」の射儀が掲載されている。これは伝書ともいうべきものか、弓の心得もなく、また禅の見性もない身の上には得心に至るものはごく少なかった。
このくだりによれば、同流の位は十あり、以下のとおりである。
練胆・・・度・・・精神根底の不動不壊なる大決定なり。
知発・・・断・・・理事に則して迷着なき決行なり。
成息・・・運行・・・気縛の停息なき智情の正用なり。
力脱・・・発力・・・全身固凝なき力体の自然活用なり。(心身の構えを取去る事)
錬気・・・耐久・・・終始一貫不変の根気持続なり。
開気・・・活意・・・自己一枚(全身胆)を開捨したる活用なり。
統一・・・和合・・・自他一如の共通なり。
理射・・・見性・・・本来面目の自覚なり。
無影心月・・・円通大自在境なり。

以上が、初出の際の体裁で、手に取った版にはさらに続編「古桶破れたり」を含んで一冊となっている。古桶とは前述の「桶底を破る」ことと同義である。

一流は相通ずということを認識すれど、それにあらざる身にとっては、遅れて道に入りながらも、たゆまず励んだ人物の姿をただ拝するのみである。

2009年7月25日 (土)

ゲーム 『DINOSAUR resurrection』

「きっと気に入ると思うで」
当時関西在住の我が身にそう教えてくれたのは、同地で巡り合った同好の士、すなわち共に立ち上げたTRPGサークルのメンバーのひとりだった。類は友を知る。互いの嗜好について、TRPGを通して、また雑談などを経て知るところとなっていた。
『DINOSAURA』はまずPC88版で発売され、のちにPC98版、TOWNS版が発売された。当時PC98のみしか手元になかった我が身は、98版で遊んだのだろうがさだかではない。

その頃すでにファルコムに対する熱はまったくなかった。『ダイナソア』の存在を知らないわけではなかったが、これまで同社が忌避してきたように思える3Dダンジョン式のRPGに手をつけたという見方をしたらしい我が身は、それで見切りをつけたのではないかと思われるが、遠い昔のこと、よく覚えていない。
1992年頃のことである。

このゲームには俗に表、裏と呼称される二つのシナリオが存在する。その裏に登場するキャラクターたちが一見に値すると聞かされなければ、あるいは着手に至らなかったかもしれない。のちに着手することになる『Fate/Stay Night』に対するそれと同列の、まっとうにポジティブではないそそられかたである。
まずは表をクリアし、普通に面白かったと記憶している。エンカウントに次ぐエンカウントも、当時はそれほど珍しいものではなく、「死山血河を乗り越えて」というよりは「戦闘多くてウザい」という捉え方しかできなかった。戦闘は多いが、シナリオは悪くない。そんな印象だったに違いない。
現在目にすることのできる同ゲームに対する評価の幾つかは、同ゲーム最大の特徴であるこの高エンカウント率に対して「死山血河を乗り越えて」という感想を述べている。我が身はその辺の感受性には乏しい性質なのであろう。

そして裏。
表あってこその裏、といえるだろう。裏のみ遊んだのでは、ぱっとしないかもしれない。
そこに登場するキャラクターたちのありようは、当時、良い子が登場するばかりであった和製CRPGにおいては白眉といえた。

時を経て。
初めてクリアした後のこと、やはりインターネットで情報をあさったことがある。クリアした当時は日本国内に商用インターネットなど存在していなかったから、クリア後数年してからのことに違いない。それからしばし、再びまた、唐突に『ダイナソア』のストーリーを思い出したくなった。
かつてあったサイトは健在であり、目を通しているうちに、またやりたくなった。しかし、エンカウント過剰という記憶だけは鮮明であり、腰は重い。サイトを経巡るうちに『DINOSAUR resurrection』が存在することを知った。

Win版、2002年発売。XPにも対応している。
だが、もはや市場には存在すまい。あるとすれば中古だろうが、ドのつくマイナー作品であろうことは想像に難くなく、発見は困難であろうと思われたところ、地元にあるヲタク産業集積ビル、その一角を占めるゲーム屋にてなんなく入手を果たした。

表。裏。そして裏Anotherと呼称される第三のシナリオを堪能する。
正直、第三のシナリオはその呼称から察することができるオマケにすぎず、練りが甘い。『ダイナソア』というタイトルだから許される在り方とはいえ、二番煎じということを認識したうえで、作り手側のエゴすなわち「やってみたかったんだよ」な印象はぬぐい得ない。
しかしながら、「BGMのアレンジは最悪だ」とか「わかってないヤツが作ったに違いない」などというネガティブな感想を我が身は抱くことなく、一部途方もなくバランスに欠けるくだりを体験してしまったものの、おそらくそれはかつてロンダルキアの洞窟にLvl.27で到達してしまった我が性のなせることで、順当にレベルがあがっていればそれと感じることもないだろう。

同ゲームのパッケージには、①『ダイナソア』FM音源完全版、②オリジナルサウンドトラック『ダイナソア~リザレクション~』、③エンサイクロペディア『ダイナソア』、④特製『ダイナソア』携帯ノート、⑤特製『ダイナソア』半円形CDケース、⑥『Zweii!』スーパーアレンジバージョンが付属している。④はいわゆるマッピングシートだ。
個人的には紙と電子媒体の在り方について自覚を得たのは1994年頃のことだった。身を置く業界柄であろうか、道具のではなく、考え方の革新が伴わなければ在りようも変わるまいという思いをいつしか内心に抱くようになっていた。
久々に行ったマッピングという行為が、紙の利便性と限界に関する想いを喚起させ、フルスクリーンのゲームはユーザの革新を阻害するものかもしれないとぬりかべった次第である。

2009年7月24日 (金)

新・弁当のおかず考1

オフィスが開くまで、オフィスの裏手で待つ。携帯灰皿を持参していれば一服するところだが、こんな日にかぎって持ち合わせていない。仕方なく、ぼーっと待つ。
なにげなく視線を巡らせると、隣家の屋外物置と思しき建造物、一般的成人男性の身長程度の高さの軒をもつその屋根に猫を見つけた。

淡いグレイのぶちの猫。寝ているかと思えば目を開き、と思えば閉じる。微動だにせず、そんなことを繰り返している。野生の睡眠か。そんなそぶりをみせたのは、あるいは我が身が彼を観察していたからかもしれない。彼我の距離およそ10メートル。

しばらく彼を観察していると、彼の後方、やはり隣家の家屋の一階部分の屋根に、猫があらわれた。黒いぶちの猫。
灰と黒、二匹の猫を交互に観察していると、ほどなくして、やや小柄な猫があらわれた。第二の猫と、白黒のありようが対照的である。
第二の猫が、第三の猫を熱心に毛づくろいしはじめる。第三の猫は我が視線を認識しており当方に注意を払っているが、第二の猫は頓着していない。
やがて、第三の猫が第二の猫の毛づくろいをしはじめた。ときおり当方をちらりとみやるのは、やはり我が視線を十分に認識いるからで、そしてそれを知らせているかのようである。
その間、第一の猫は、周囲のことなど関せずとばかり、身動きといえば、ぽつりと落ちた雨のしずくに耳を動かしたのみだった。

ネコ科とヒト科の対照に思いが及んだところで、オフィスが開いた。


ここのところ、弁当というか料理には失敗が続いている。
のレシピは人類にはなしえない奇跡なのか。否、精進が足りないのだ。だが、ごはんものレシピは避けた方が懸命かもしれない。
あげたま(生玉子を揚げる)など簡単ウマーなレシピを体得してしまうと、つい調子に乗ってメンドイのに手を出して後悔することとなる。

簡単でうまい料理を至上とする我が身であり、省力可能であればその限りではないが、うまくても手間がかかりすぎれば二度と作らない。
今回初挑戦の「いんげんの胡桃味噌和え」はそんなレシピの一つとなった。胡桃の殻を割るのはともかく、実の渋皮?を剥きまた擂るのが難である。
逆に、繰り返して習熟し、そうではなくなったものが「コロッケ」。十分に熱を冷まさぬまま冷凍庫にいれたのだが、翌朝タッパの内部がえらいことになっていた。大丈夫かなと思いつつ、駄目だったわけである。

料理は嫌いではないが、朝料理するのは嫌いだ。アレコレ考えるのが面倒、というのがおそらく最大の要因であろう。コロッケや唐揚げなど、前日から仕込んでおき、考えずに調理できるのならばその限りではないらしいことを、弁当作りで実感した。

2009年7月21日 (火)

読物 『不安定だから強い』

「こころ」の語源は、「凝る」にあると言われている。
この語源説は、魅力的だ。

同著P.150より

甲野善紀氏近傍に位置する人物の著書、らしい。ライターとのことだが、著作リストを一瞥しただけでは何屋なのかまったくわからない。
序盤、いいカンジにこの方なりの歩みが記されていたのだが、中盤以降、観念的な記述が増加し、イライラ感が募る。単位頁あたりの文密度といい、総合的にはあまりいいカンジでない。

コトバというものは呪であるのだと、知っているつもりでも、わかってはいない、ということか。

2009年7月20日 (月)

アニメ 『超電磁ロボ コンバトラーV』

母上はな キャンベル星きっての科学者だったが
九十歳の時 年を取って死ぬ前に 自分のあらゆる情報 記憶 思考能力を
巨大なコンピュータにうつしかえられたのだ


ガルーダ一号 記憶回路に異常 失敗廃棄
ガルーダ二号 キャラクター造形に歪みあり 失敗廃棄
ガルーダ三号 感情回路を与えたるも振幅が大きく 失敗廃棄

第25話 「大将軍ガルーダの悲劇」より

1976年放映であるからして、本放送で見ていた可能性は高い。
以来、ずっと気になっていた。トラウマとまではいわぬまでも、内部構造が半ばムキダシの、ターミネーターのアレみたいなガルーダの姿は、ひょっとしたら我が身のアンデッド嗜好の一因たるものかもしれない。

気にかけては忘れを繰り返していたのだが、該当するエピソードが25話にあることを昨今知り、再観賞に至る。この頃既に「情報」というコトバが使用されていたことに軽い驚きを覚えつつ。
あてにならないキオクによれば、五十号くらいまでナレーションがあったような気がしたが、引用ですべて。ロストナンバーは総勢十五体、ガルーダは十六番目の成功例ということになる。

などと記していたら地元老舗ホテルが夏恒例の花火をやりはじめ。
『機甲猟兵メロウリンク』が観たくなる。

読物 『甲野善紀の驚異のカラダ革命』

これまで読んだ関連書のなかでは、最も有用で最も中途半端な一冊であった。

有用というのは、写真や図入りで、端的ではあるが術理に終始した説明文があること。
半端というのは、トピック個々の取り扱いが非常に短く、「あれ、続きないの?」的な印象をトピックごとに体感させられること、レイアウトも無関係ではあるまいが、ちょっと読みにくいことがあげられようか。

読んでも理解したりできたりするわけではないので、有用といってもたかがしれているのではあるが。

2009年7月19日 (日)

読物 『ポケモンストーリー』

個人的なトピックを記録するようになって九年になる。
初期の頃は記録という点でイマイチで、たとえばポケモンをいつ始め、いつ飽きたか明確な日付を確認できなかった。
イマイチな記録とアイマイな記憶を手繰ってみれば、ハマったタイトルは金銀で間違いなく、どうも2000年の夏頃ハマり、赤だか青だかに着手した11月頃飽きたらしい。

ポケモンというムーブメントの中には一度も身を置いたことがない。
光過敏性発作のニュースを耳にしていれば、その影響力の大きさを理解してもよさそうなものだが、気にならないことは特に認識しないという幸せな記憶装置をもつ我が身は、だから、本書に語られることを歴史のように俯瞰するだけだった。著者らが想定した読者層としては外縁に位置するということになろうか。

本書では『シルマリル・リオン』中の『指輪物語』ほどにも取り上げられなかった首藤剛志のWebコラムを先に目にしていなければ、あるいは本書に対する興味をかきたてられなかったかもしれない。
ポケモンがいかにして生まれ、育まれていったかを語る物語である。ゲームの開発秘話ではない。生まれた時には誰も想像し得なかったビジネスの卵が、どのような栄養を与えられ、どのような病気を経験し、誰がどのように育っていったかの記録である。小学生にも読め、ビジネスマンにも読めるよう心掛けたというが、小学生には難しかろうと思われる。
啓蒙の書であることは間違いないが、多分に恣意的であり、一矢報いた観を禁じ得ない。

読物 『二人の首領』

笹川は情報を大切にするだけでなく、インフォメーションをインテリジェンスに消化する能力を持っている。

『二人の首領』 P.92より

「一日一善」の老人の名が笹川良一ということを知り、それがいかなる人物かということを知ったのは、「戸締り用心日の用心」という歌と共に流れされたTVCMを見ていた頃からおよそ三十年を過ぎてからのことだった。

それほど興味があるわけでもなかった同氏に関する本書、個人的に初となる落合信彦の著を手に取るきっかけとなったのは、『少林寺拳法教範』上巻に掲載された記事であり、過去に大会の賓客として笹川良一が招かれていたことを知ったからだ。
調べてみれば有象無象の情報が得られたが、どうもピンとこない。関連書籍リストの中から最も興味をひかれた著者・タイトルを選択したわけである。

本書は『二人の首領』と『北京より愛をこめて』の二編からなる。
書籍のタイトルとなった前者はロッキード事件に関するものであり、それに笹川良一と児玉誉士夫がいかに関わったかを述べている。

そもそも興味の発端となったことを知ることはできなかったが、笹川良一という人物の人となりをいささかのフィルターごしにではあろうが知り得ることができた。しかし、新たにフィルターの性能を評価する必要性が発生してしまったことになる。

2009年7月17日 (金)

読物 『表の体育・裏の体育』

体育という言葉の語感から想起されるものは「紅白帽をかぶりそろいの体操着で運動をする」というものであったが、本書には長年にわたるその印象を一新する定義がなされている。それは身体にかかわるすべてを体育とするもので、言葉から直感的に得られる身体操法はもちろん、医食同源の概念も含まれ、精神も含む人間の生命を養う法全てをそれとしている。

本書によれば、明治期の日本では霊術というものが流行ったという。霊という語にはオカルティックな響きがあるように感じられるが、かつてはそうではなかったらしく、敢えて現代的な単語に置換を試みてみるならば氣やヨガのような「科学的検証は未済だが効果があるらしい心身練磨法」といったものであるという。そして、そのような西洋科学の検証を得ていないものを称して「裏の体育」としている。

肥田式強健法の名を知り得たのは、少年時代に読んでいた週刊誌の広告においてであろうか。特に強く興味を喚起されることはなかったが、字面から健康法の類であるらしいことは察していたらしく、ハラの出たオッサンの写真がでかでかと掲載されていて、「このハラでケンコーとか謳ってんのw?」的な印象を抱いたことを覚えている。後年、あのハラの異様さを恐るべしと感じたこともまた。

肥田氏の超人っぷりは、本書と並行して目にすることとなったハンス・ウルリッヒ・ルーデル列伝と比して損傷なく、その真偽はともかく、いずれも伝説であることは間違いない。
その威はあまりにも鮮烈すぎたのだろう。著者は強烈に肥田式を実践し、そのため身体に不調をきたし、肥田式は肥田氏一代のものであり、万人にむくものではないと悟ったという。それでいてなお、著述の中には折にふれて肥田式が登場することの意味を考えれば、著者の同法に対する信の厚さがうかがえようか。著者は「裏の体育」の一大成果として、肥田式にこの上なく依存しているように思われる。

浅学にして肥田式についてはほとんど本著のみの知識しかないが、同法はヨガの亜種ではないかという印象がある。道は異なれど目指す頂きはどうやら一つらしいという漠然とした個人的な思いはさておき、肥田氏がとある禅師の座するを見て、自流との共通点を見出したこと、肥田氏の実体験を記したものが本書には引用されているのだが、その中にて語られている結跏趺坐と結印の意味らしきものは初見にして興味深い。

さておき、武術のことを求めて着手したにも関わらず、本書から得られたもっとも大きなものは歯の健康に関する著述だった。
いわゆる歯みがきによる虫歯予防は一般的に知られるよりもはるかに効果が低いということ、食物が歯の健康を左右すること、である。なんでも、ブドウ糖を飲ませたラット、注射したラット、双方に虫歯が発生したという研究報告があるそうで、また消化を経ずして摂取される糖分のもつ即効的な作用は麻薬的な常習性があるとのことで、特に幼年期から成長期にある人体への投与は慎重を期するべきだと謳われている。

2009年7月16日 (木)

IT探偵

職場近所のスーパーは昼食的にNGとあいなったわけであるが、カードを作ると無料で給水できるサービスがあり、これだけは愛用している。
十代の頃フレーメンに憧憬を抱きつつそのあるべきを忠実に守らなかった報いか、水分を過剰に摂取せねばならぬ業を得た身は、暑くない時期ならインスタントコーヒーを一時間に一杯程度のペースで消費する事で足らせているのだが、暑い時期にまんじりとブラックをホットをやるほどハードボイルドではなく、人生最微の風速が525円で4リットルのボトルを購入させ、週に二度給水しこれを流し込むという実を採らせた。

給水サービスは自動装置で、カードを通すとボトルのサイズを問われ、給水中は給水率をグラフィカルに表示する。待ち時間を表示することでユーザの不快感を低減できるらしいというITマジックを知り得たのは随分昔のことだが、わりと無自覚にそれを体感しつつ、さてこれはどんなしくみなのかなと漠然と考えていた。
給水率の表示が計測だとすると、とりあえず三つの計測方法が考えられる。
・水位の計測
・重量の計測
・流量の計測
ブラックボックスはエラーを発生させることでその内実を探ることができる。
本件では、ボトルと吸水口がわずかにずれていたことが、これにあたる。実際の給水率と液晶パネルに表示された給水率が異なっているとなれば、可能性は流量に絞られるが、もう一つの可能性が浮上する。
一定水量を一定時間流出すれば、一定の容積が満たされる。満たすべき容器のサイズはユーザ自身が選択するので、あとは水を流し、時間を計測すればいいということになる。一定時間が経過したら放水を停止させる、給水率表示は経過時間にのみ依存するという仕組である。

さて。
かつてTRPGで一度だけ、図らずも探偵の役を任じたことがある。
特に深く考えず学生を選んで傍観を決め込もうとしたように覚えているが、その役によりふさわしかろう他のプレイヤーがアレすぎて、せざるを得なくなった。
このときの体感は、探偵とはなんと気軽な存在であろうか、ということだった。特に、その義務に束縛されていないときには。
事件の被害者になるリスクはあれど、状況から推測を重ね、求められればそれを開示すればよい。前置詞は「現段階では」である。うまく解決できれば栄光は独り占め。解決できなくても責任はない。
かつて『ラ○ド・オブ・ニ○ジャ』で犬死し、犬死にもカタルシスがあることを発見したのだが、それに比類する偉大な発見であった。

現在の職場では、顧客に対するカスタマイズを前提としたソフトウェアの不具合解消や新機能の開発を行っている。当初の開発者も顧客の運用者もとっくの昔にあぼーんしていて、互いによくわからないという状況をなあなあで乗り切ってきたらしいクウキを察しつつ、このギョーカイでそれなりに飯を喰っていれば、仕様書とかほにゃららでも、まあ、なんとかいける。
二ヶ月半も経てばだいたいのことは把握できて、ずいぶんとフレキシブルなシステムであることを実感している。フレキシブルであることは、仕様的バグであるか、顧客要望であるかのいずれかだが、本件はどちらかというと後者のようである。
特定の得意先で数字があわない、という現象はままあること。だが、それを担当せざるを得ないというのは、あまり嬉しいことではない。数字が絡めば顧客は鬼になるし、つまりは気楽でも無責任でもいられないということだからだ。
証拠品はデータの現状。そこからまずシステムの不具合を疑い、疑いつつ、数値がいかに獲得されるかを検証する。システムが正しいとすれば、運用の抜け道、システムの仕様的バグが介在した可能性がある。この場合、顧客のオペレートを推測することになる。このブラックボックスの中身を推測することは、得てして困難な事態であることが多い。
探偵が、推理を他者に聞かせるシーンがある。あれが、他者に自らの英知をひけらかすだけのものではないとすれば、語りつつ自らの推測を深め、インスピレーションを得るために行っているのではないかと考えることもできる。
他者が理解できるように話すためには、自らが理解していなければならないからだ。

武術の技も然り。
説明することで自覚を得て、知らぬ間に身についていたものを確認する作用がある。
同門の、オーケストラをやっている初段の大学生がつい先日、そんなことをもらした。このことは、随分と前から語って聞かせていたのだが、理解を得られぬままに語っていたと知ることは虚しさを募らせるものである。
自らに照らし合わせてみれば、いつか聞いた言葉が押すスイッチもあるだろうということになろうか。

2009年7月12日 (日)

読物 『古武術からの発想』『武術を語る』『武術の新・人間学―温故知新の身体論』

歩くこともままならぬ幼児に、走り方を教えるものがあるだろうか。

原文ママではないが、異口同音のことを初めて目にしたのはもう随分と前のことになる。当時はまだ武術的なものにたいしてわずかな知識をしかもちあわせがなく、他の分野と対照して得心したものである。

いま、その言葉が強く響いている。
巧夫は積んでは崩すというが、積めば自重で崩れるものと体感する。これまでに幾度か、ただ意味を理解せぬままに繰り返していたことが、理解を得たと思えた瞬間があった。それはレベルアップの感覚で、気分を高揚させる類のものである。
だがそれは、崩れていたのではなく積み上げている最中のことであったのだろうと今は思う。今、自分がなにをやっているのか、なにを目指すべきなのかがわからない。書物や他者の言に依れば、筋力や身体能力の向上によって、それ以前とは身体感覚が変わってしまうために不調に陥ることもあるという。
それもあろうが、どうもそれだけではないようである。

しばし前から漠とはあったものの正体は、基本と術理の乖離である。基本の中に剛柔の要となる成分がこれほど明らかに含まれているのに、基本は基本、術理は術理というふうに、分けて覚えた実感がある。明らかに含まれていると感じたのは自ら気づいたように思うからで、これは我が身の勘違い、あるいは気づいたもののみそうと知ればよいということなのか、またあるいは敢えて教えるようなことではないのかもしれず、そしてどれが正しいのか実感が持てないということになる。
あまりにも当然、あまりにも基本すぎて伝わっていない、ということがあるということなのだろうか。誰でもやれるということの功罪――創設よりわずか六十年で失伝したものがあるということなのか。

そんな疑問を抱えたまま、こたえを与えてくれるものを探していた。
甲野氏の著作を当たった理由としては、ネットにおけるキーワード検索にほどよくマッチしたためである。しかし、いくつかの書籍を当たってみたが求めるものがクリティカルに著述されているということはなかった。
甲野善紀という方は説明が下手なのか、主題を貫くことができないのか、あるいは故意に焦点をぼかしているのか。
思想的なものでは大いに首肯できるが、うならされることもあれど、技術的な部分では得心に至れない。キーワードにヒットしたサイトでもピンとこないとなれば、動画を見るか、道場を訪れるしかないということになる。

甲野氏の著作の中には、繰り返し語られることがある。
武術も技術の一種であるからには、絵画や音楽などの芸能と同様に、やれば誰もが大家になれるものではない。だが、他の技術とは異なり、逆縁の出会いに関わるものだけに、それを学ぶ者たちが「使えない」ことが許されない、と。しかしながら、術理は創設者の身体に適応したものであり、そのままそれに従って誰もが効果を得られるものではない。学ぶ者に適応した身体運用を指導できる術がないという意味において、道が未整備である、と。とある流派は「薄氷を踏むが心地で進み、ぽんと打つ」こと(意訳)を術理としているというが、創設者がそれに至るまでには立木打ちもしたであろうし、いろいろと工夫を重ねたことであろう。凡百が奥義に至るまでの道は不要というのでないならば、その道を志したものにそれは示されねばならないはずである。
江戸、明治と、時代の要請に従って武術が捨てざるを得なかったものがあり、そのたびに天才がそれを再発掘してきた。いくつもの流派が生れては消え、名人、達人が伝説となり、伝統は伝統たりえないがために合理的科学トレーニングに敗北を喫して現代に至る。
氏の研究は、かつてあったものを体得するための道のりを築くことにあるらしい。だが、著述を拝見する限りでは、進捗があるらしいことは分かるが、その内容を読み取ることはできない。

こたえらしきものは、武専にあった。
本部派遣講師にはいつも驚かされる。外見や所作からはそんな年齢には見えないが、比較的若い世代の派遣講師でも五十代、開祖の直弟子ともなれば七十歳に手が届く方もおられる。
およそほとんどの派遣講師が異口同音に伝えようとしていることが、我が身の疑念の基となっているものである。そして、こたえなのかもしれないと感じるものでもある。
初心の頃より道場で学んできた教えの中には含まれていないものと体感できるもの、剛柔の基本となり、運歩の基本となるもの。

それが真であると証明できれば、誰かに問う必要などなくなるはずなのだが。

2009年7月10日 (金)

サルベージ完了

二年半分、回収完了。
なんとなくviの使用感を彷彿とさせられながらタグ打ち三昧。
ローカルに保存しつつ、旧HPに反映。

ブログ形式もいいけれど、ある程度HTMLがいじれないと不便であることを痛感。

2009年7月 5日 (日)

読物 『古武術に学ぶ身体操法』

エッセイのようなもの。ところどころにTips、キーワードがちりばめられているが、著者の考え方・経験に基づくBreak Through、発想の転換の妙を語る思想書といえる。
思想の中に技術的なものが含まれており、そういう観点で読めば技術書である。

2009年7月 4日 (土)

読物 『キマイラ・吼シリーズ』

この物語は、10巻までは面白い。



昭和という時代があった。
年に何冊も『キマイラ』が出る。
『D』が出る。
『グイン』が出る。
好きな作品が、滞ることなく供給されていた時代。
過ぎ去りし上代、あるいは神代の時代のことだったのかもしれない。

夢枕獏は好きな作家ではなかった。そう思っていた。
だが、新作が出てその気になれば読んだし、特に読んだものを嫌うということもなかったからには、作家を嫌っているというわけではなさそうである。前言撤回、『キマイラ・シリーズ』といいなおそう。
『キマイラ・シリーズ』は好きな作品ではなかった。しかし、嫌いでもなかった。

これについて特に深く考えることもなく、初読の頃より二十年を過ぎたが、今回、幾度目かの再読するうちに得た感慨を分析するうちに、その理由をなんとなく察した。
たとえばアニメ版『巨人の星』。
たとえばアニメ版『ドラゴンボール』。
前回のおさらいを15分やる。そういうことが嫌いなのだ。
つまり、
さわ
さわ
とか書きながら前回のおさらいを書き連ねていくそのやり方が嫌いだったのだ。
読み返してみれば面白く、おさらいもそれほど気にはならない。贅沢に紙面を消費するそのやり方が、一冊105円というコストに見合っているからかもしれない。

しばらく手を止めていたのは、新巻が出るたびに全部読みなおす羽目になるからであった。大雑把に覚えていても、新巻とつながらない部分が出てくることがある。そうなると全部読まねばならなくなる。それほど耽溺してはいない。だから、溜めていた。

10巻か11巻までは読んだと思っていた。玄造の過去話も知っているようだから、もう少しは読み進めていたのかもしれない。ともかく、既知の部分を読み進めている間は、こりゃすげえ、なんで俺はこんなおもしろいもんをきらいだとぬかしていたんだろう、そんなふうに感じさせられたものである。

ところが、だ。

過去話マンセーな風潮は、いつから始まったのだろうか。
既知の上では『ベルセルク』の『黄金時代』編あたりがそれくさい。ともかく、かつては数頁程度で語られていた過去のエピソードが、いつしか本編を侵食し、台無しにしてしまうケースが増えた。例えば『ガサラキ』がそうだ。
『ベルセルク』は逆のケースで、『黄金時代』以降『ロストチルドレン』までは神だった。以後はセケンに半端に迎合したため台無しになっているが、それは別のこと。

あと5巻か10巻かで終わる。といった次巻で過去話が数巻続くといってのける。
5年から10年で終わるといった次の次あたりでライフワークにするという。
そんな奴がほざく言葉など信用してやるもんか。

コントロールされていない物語を面白いと感じることは稀である。
それを是とし、むしろ喜ばしいことのように報告する作家がいるが、それは自己の未熟さを誇っているということなのだろうか。
この物語、コントロール不能に陥っているとまではいわないが、迷走の度が過ぎているとは、いわざるを得ない。

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