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2009年6月

2009年6月23日 (火)

読物 『青の騎士ベルゼルガ物語』

深く層をなす灰の大地に怒れる天の鎚がふりおろされる。北関東戦区北部はそんな地域だ。
雷都を自称するこの都市は、かつては軍事都市として賑わいを見せもしたが、それがゆえに徹底的な、それこそ灰燼に帰すほどの打撃を受け、みるかげもなく復興して今は三流以下のごくありふれた街となった。
餃子とカクテルの薫る、ここはウツの街――
百年に一度とされる世界的波紋に、ただなすすべもなく身を震わせるしかない地方都市。



わかってはいるのだ。
やがて訪れるであろう帰結にはすでに到達しているがゆえに。そこに至るまでにどれほどの興奮がこの身をふるわせようと、それが錯覚であったと思わせるほどに大きな失望が訪れるであろうことは。

かつて愛し幾度も読みなおしたにもかかわらず、まるで初読のように読みすすめ――
だが、深淵に至ることはついになかった。これまでに数度実施された粛清を、『K'』および『絶叫の騎士』は免れ得なかったのだ。巡礼の旅は、二巻で終わった。

俺はこの作品をほんとうに読んだのか。
以前は全く気にならなかったラノベ臭がひどく鼻につく。知らないふりをしているわけじゃない。ソノラマは、今でいうなら間違いなくラノベノーベルだ。
ひどく粗雑で、稚拙だが、ただ一つだけ、激突する鋼鉄の描写にだけは感性が揺れ動いた。

ここには確かに、かつて愛したものがある。

本放送中にあまりにふつうに登場してしまったがゆえに、けだものの知性をしか有していなかったかつての我が身はカスタムATに、MSV感をかんじることはなかった。
たとえ、アレとかコレとかいただけない設定をはたノワールwで塗りつぶそうとして失敗したのだとしても、それを我が身に覚えさせたのはこの作品であることは否定できない。あるいは、そう感じさせるためには二次作品である必要があるのかもしれない。
ともかく、現に在る大いなる本流の、細いが確かな源流の一つであろう。

パイルバンカーに、シャドウフレアに、オクトバに燃え、ロニーに萌えた。
作家というものの在り方を疑いもしなかった。
幡池裕行を知り、うおおすげえと無邪気に憧れた。
そんな回顧をするのも、たまには悪くない。

2009年6月21日 (日)

読物 『腸は考える』

数学-あらゆる学問の根底にして始原。もっとも厳密で華麗な学問。まさに学問の女王。
物理学-自然科学の王者にして現代科学の代表者。この自然世界の理論的な解明を担う。また、新しい数学理論、計算理論の創出にも貢献。学問の大様。
情報科学-現在の形而上学。計算現象の解明と論理世界の創造を担う。自演まがいの預言者。そのくだらなすぎるくらいの厳密性は数学でさえちょっと引く
天文学-最古の学問にして、自然科学の黒幕。もはや殿堂入りかと騒がれるが、宇宙時代到来をまえに最新工学を武器に手のとどかない時空を探る巡礼者。
地球惑星科学-地球近傍系の学理をあらゆる学問を駆使し探求。気ままなスナイパー。普段は何をしてるかわからないが、狙った獲物は逃がさない。
化学-錬金術師にして物質世界の創造者。物質の相互作用と創造を担う。長い伝統のためか普段は大人しく見えるが、科学界のキャスティングボードを握ってる。
生物化学-生体の機能的解明者にして、科学界の奇術師。新たな時代のNewTypeを創造。現在のトップランナー。
生物学-生物の存在論的解明者にして、科学会の吟遊詩人。生物の存在の根拠と道筋を魅惑的に、でも勝手気ままに、歌い上げる
地学-現代の博物学。科学界の長老。若い者は院から宇宙、地球近傍系へと飛び立っていくが、培った博物学的センスを伝え語り継ぐ。科学界の公証人

2ちゃんの古典的コピペ


きっかけは、より高い志を持つ同門の士のサイトにて、血液型に関するコラムを読んだことだった。
体の運用について乗馬やスキーに通じるところがあることを述べる一方、「血液型を決定する成分は脳の神経細胞に接触しない」という学説を述べた上で「血液型による性格分類はある」派であると公言した同氏は自身を生物屋と称している。
同コラムは、専門的な知識をお持ちの方々には「門外者にとっていささか乱暴な切り口ではないか」と批判される向きもあるようだが、個人的には諧謔と受け止めており、新書の類に着手する姿勢を維持しつつ楽しんでいる。

件のコラムは血液型による性格分類からはじまり、その是非はさておき、血液型により免疫力に差異があることを紹介し、「腸は免疫の司令塔」というハナシから、本題に飛躍する。

「腸は他の組織に比べて脳とのネットワークが薄い。それは腸が独自の調節系を持っているからだ。実際にも脳はなくても腸はあるという生物がいる。」

血液型と腸が免疫を介して関連性をもつらしいことを示した上で、

腸と感情には密接な関係がある(気がする)」と結ぶ。

「胃腸には発達した独立した神経系がある」→「感情・性格に影響を及ぼしているかも」と思う、と。血液は脳に直接接触しないらしいが、腸はそんなことはない、と。


さて、腸で考えるといえば、『マクロスF』のネタのひとつである。観賞した当時、ささっとWebを巡った覚えがあり、まったくのフィクションではないらしいことをさらっていたが、それきりになっていた。同コラムで本書のタイトルを目にして興味を覚えたのは、そんな前段があったためだろう。


本書の雰囲気として特筆すべきは、まず楽しそうであること。楽しさのあまり、門外漢の追従を放棄していること。噛み砕こうという配慮は見受けられるが、あえて閾を設けているのか、わかりやすくはない。前者については、おおよそ世間的な象牙の塔の印象を改めるものであり、後者については新書本によくあるケースということになろうか。
同著書発行まで20年有余年、免疫学の発展、ホルモンの発見、脳と腸にそれぞれ別個に同じホルモンが分泌されるという事実が明らかになり、腸は小さな脳と呼ばれるようになったそうである。高等脊椎生物から始まった研究は他分野の共同研究者を得て無脊椎高等生物に至り、共通の始祖である原始生物へと到達し、得た推論は進化の過程で脳は腸から誕生したというものである。

『マクロスF』のファンタジックなアレンジはおそらく、腸で思考するというキャッチーなタイトルから得たものであろうという妄想はともかく、研究過程での紆余曲折、転機などのエピソードは個人的に観測し得た研究者像を補強するものであり、最近はそうでもないが、フィクション作品にかつてみられた一般的な研究者像という記号はほんの一部のものにすぎず、その他実像の一部は非常にパワフルで、研究一辺倒ではなく遊びにも同程度の情熱を傾けるものであり、『最新』の技術がエンターテイメントに反映されるまでにかかるであろう期間と同様に、世間に流布するまでに時を要するものであるらしいことを察した。

余談だが、同書における最大の収穫は、シンポジウムというギリシャ語の意が「一緒に酒を飲む」であるということを知り得たことである。

2009年6月20日 (土)

読物 『われ万死に値す』

政治家の評伝の類は読んだことがない。読んだことがあるかもしれないが覚えていない。
本書を手に取るきっかけは父親が読む姿を目にとめたことで、特に読みたい本もなかったことから着手に至った。

本書に類するモノに対し無知であるという個人的経験から本書を俯瞰すれば、本書の焦点は
「7 皇民党事件の深層」「8 闇の世界」にあり、竹下登という政治家はこれらに関与する人物であったがために題材として選ばれたにすぎないと思われる。

それなりに生きていれば、無知無関心ながらも政治やそれを動かす人物らにある種の印象と経験的知識を獲得するもので、いまさら特にそれらの印象を改められることはなかったが、仮に本書の内容がフィクションだとしても、そのような読み物として楽しめなくもない。
我が身の内にある『野望の王国』のノンフィクション性が若干高められたという点で、価値のある書物であったといえる。

2009年6月17日 (水)

拇指関節痛

数か月ものあいだ、継続的に、拇指の付け根、手首部の関節、大菱中手関節という部位が痛みを発しつづけていた。
何もしていなくても疼痛、拳を握るだけではっきりとした痛みになり、少年の抜き技にすら顔をしかめるほどのものとなる。

これまでになかったことで、身体を痛めつけることをやっているのだからこういうこともあろうかと、かばいつつ治癒を待ったのだが一向に改善しない。関節痛ならば、その周辺部位の消炎、あるいはマッサージにて解消することを体感していたが、それも効果なし。
年甲斐もないことをやっているからかと、休養、あるいはこの道の断念も念頭に浮かび始めていた。

現在の職場には、来客が多い。法務局とか税務署とか、長い付き合いのあるらしい会社社長が雑談しに来たりと、規模に似合わずの出入りがある。
来社したとある会社社長が、雑談の最中に職場の社長が訴えた肩の凝りをほぐしてやろうと肩もみを始めた。
「ここも効くんだよね」
と、肩から腕に施術を移す。腕橈骨筋という箇所だ。

この部位の緊張緩和が、ある種の疲れに効果的であることは知っていたが、我が拇指の痛みの原因がここにあるとは考えていなかった。
社長たちの親密なスキンシップを目の当たりにしながら、それがあったかと首肯しつつ、自らに施そうと触れてみれば、ぱんぱんに凝りまくっており、ちょっと押すだけで痛い。

軽くほぐしてみれば劇的に効果あり。
痛い箇所に原因がないというのも、年齢効果と覚えた次第。

2009年6月15日 (月)

弁当 「コーラ煮」

コーラ煮というものを初めて作ったのはリア厨の頃、たしか豚肉を紐でしばいて煮た覚えがある。チャーシュー的なものを目的としたように思うが、劇甘なシロモノができあがった。
以来鬼門と化し、現在に至る。

そろそろ解禁かと、此度挑んだのは経典のレシピで、『ヤング肉じゃが』というものである。
手羽先を塩胡椒してグリルで焼き、じゃがいもと肉を塩とコーラで煮る。手順は至って簡単だが、時間はかかる。
できあがり時点でやや甘く、数時間してほどほどに甘く、翌朝では甘さはあまり感じられない。経典にしたがって煮るならば芋は大きめに切ってもOK、というか大き目がよさげ。
また作るかと問われれば微妙。

甘味は好きだが、甘い料理は好きではないらしい。

経典よりまた『アジ御飯』にトライ。
博多の節句の料理らしい。炊いた御飯に、別途調理した煮魚をほぐして投入するというもので、他にも応用が利くと思われる。
味はよかったが、小骨の除去がテキトーだったため、そのぶん食感がイマイチ。自ら調理し自ら食すぶんには許せるが、他者が作ったのなら許せないかもしれない。

2009年6月14日 (日)

読物 『マルドゥック・ヴェロシティ』

九人の戦鬼と、人のいう――


極度な俺文体といえば秋津透である。というか、それしかしらないので『魔獣戦士ルナ・ヴァルガー』といいなおす。あの独特の文体は、慣れれば快適だが、慣れるまで非常に苦痛であり、他の文体への適応を著しく阻害する。

本作品も極度な俺文体である。
慣れるまでに時を要し、老いたせいか、なじむまでもなく読了に至ったことはさておき。
『~ヴェロシティ』の、『~スクランブル』とは全く異なる筆致はたぶん、戦闘描写のために必然としたのではないかという妄想を得た。

戦闘アクションをいちいち描写するような文章を求める作家の心情とはどのようなものだろうか。ビジュアル的メディアへの挑戦、あるいはビジュアル化されたときの布石ということなのだろうか。
なんにせよ、それは容易なことではない。人名が頻出し、読んでいて苦痛なほどだらだらと続く。それまであった爽快感も消えうせる。

これを緩和するために再考を重ねた結果がこの文体なのではないかと思わなくもないが、それはわりとどうでもいいこと。
戦闘描写以外はそこそこイけてる。

物語の構図もなにもかも異なるのだが、なぜか強く『蒼穹のファフナー』を想起させられた。もはやストーリーも思い出せないが、似たようななにかがあったのだろう。『~スクランブル』ではなかったことなので、同時期の仕事だから、ということになるのだろうか。

予定調和的物語構成は好みにあわないが、やがて書かれるであろう続編も、読むかもしれないというほどには気にいった。

表紙イラストは前作と同じ寺田克也。
オンナよりオヤジを好む絵師である氏らしく、前作より鋭く重い切れ味を見せている。
次作ではおそらくまた、切れ味を鈍らせることだろう。

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